�蠧�記
DiaryINDEX|past|will
私は時々祈ることがある。
私が祈る対象はどういうものだろうか。
神道は性善説的だとある。現世利益的だと。孟子は性善説で荀子は性悪説だとある。
私はどうなのかな?性善説かな?私はどんな対象に祈るのかな?三位一体説かな?それともやおろずの神々のような対象かな?それともアラーの神?それとも仏様?心が決まらない。でもアラーだけを祈らないと駄目、神社を参拝しては駄目、偶像崇拝は駄目と言われると困る。神社にもお参りしてしまう。洗礼を受けるほどはキリスト教に入ってない。これは信用ならないやつということだろうか?信教の自由、政教分離は今の日本で保証されているから、それを悪く思う必要はないと思うが。何だか我ながら頼りない気がしてならない。
いろいろ影響を受けやすい性格だ。これを聞くとなるほどと思い、またこちらを聞くと、それもなるほどと思う。でも、何でもありというほどではないと思う。限界があると思う。
でも、一つの信仰を選んで信念がある人はすごいなと思われることがある。
みんないい人だと思っていると言われたことがあった。私は性善説だろうか。神道的かな。人に恵まれているとは思う。
でも聖書にもコーランにも影響されているし。仏道は?
人を恨んだり羨んだりしてしまうこともあるが、でも祈るのは、必ずしも自分のためというわけでもない。乗り越えたい。でも、あまり頼りたくなくても、苦しいと我慢できなくなって神様のような存在を想ってしまう。情けないといえば情けないが、これはよくないことだろうか?強くは無いと思う。もっとかくありたいというものはある。 妬む神というのはちょっと敵わないなあと思う。といって私は結構僻むことがある。 でも僻んでいる自分から抜け出したい。私には私の道があるはずだと思う。一本の自分の道ができてくるのではないかと思う。私はどうしていくのだろう。今は模索しているのだと思う。今は悩んでいていいんですよと 子供の先生がおっしゃった。
多分そんなに卑下することは無い。何もかも思い通りにはいかないが、それなりにきているんだろう。
|