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2010年12月20日(月)

 今朝も相変わらずしょうもないさえない夢を見て目が覚めた。

 もしこんな夢を見ている人が私自身でなく、他の人だったら、私は憐れに思う。

 自分がこんな夢を見るのは、情けないと思うかな?夢の中でまで人を恨むなんて。人って、肉親のことなんですけどね。何故今になってこんな夢を見るの?

 中学の時に席が隣になった男の子のことを思い出した。私に学生服のボタンをつけてくれと言うので、おかあさんにつけてもらえばいいじゃない、と
言ったら、おかあさんいないんだ、りこんしちゃったの、どうしてだろうね、おかしいね、とその子が言ったのは、私にとって非常にショッキングだった。

 りこん、という言葉を知ったのは、中学の時だ。その子が語ったりこんという言葉の意味を、私はその時即座に理解したのだろうか?
 確か、英語の先生についても、りこんしたんだって、という噂を聞いた。
 私はその先生の授業が嫌いじゃなかった。リズミカルで。その先生はにこやかな時でも目は笑っていなかったような気もする。でも何かこうでなきゃ
いかんという信念のようなものを抱いているように見えた。それに駆り立てられた情熱のようなものを生徒たちにぶつけてきていたような。その先生は
日教組の闘争についても生徒たちに理解を求めたことがあったと思う。

 私が学生服のボタンをつけてあげたR君のおかあさまは、案外R君が会いに行けるところに住んでいらしたようだったが、R君はその頃お父さんと暮らしていたんだろうなと私は想像している。おとうさんもいないんだとは
言わなかったし。で、おかあさんにも時折会いに行っていた。
 R君も結婚したと聞いたけど。、

 私の父と母は母が亡くなるまで離婚はしなかった。喧嘩はよくしていた。
年取ってからも父が母にりこんするといきまいていた姿を見たが、母はそんなことできるわけないじゃないとため息をついていた。母にももう帰るところは無かったのかな。

 娘は高校生の頃、私に、おとうさんとの喧嘩について話せと言ったことがある。携帯で。彼女も、R君のように、どうしてだろうと疑問を抱いたのだろうか。だが、私が彼女の父親との結婚のきっかけを話そうとした時点で娘は激怒した。あんたのお父さんは私の兄貴に、俺は女を不幸にするぞって言ったんだって、と事実を話しただけで。羨ましいなあと思った。怒れるなんて。私はまだ自問している。どうして自分自身の大事な問題だったのに、兄に勧められたくらいでいいよなんて承諾してしまったのだろうと。もう親権も失って再婚までしているのに。離婚しても何度も何度も彼女の父親や元姑に再会する夢に追われてきたの。

 祖母は水が合わなかったんだと言った。水はおいしいと思ったが。

 私は父に兄二人でやめておけばよかったんだと言った。私だって生んでくれって頼んだわけじゃない。結婚させてくれって頼んだわけじゃない。

 どうして生まれてきたんだろう。何のために生まれてきたんだろう?亡びるために?違うよね?

 1パーセントの奇跡という韓国ドラマを見ていて、いいなあと思う。親が子供を苦労させたくないとあんなに結婚に反対してくれるのって羨ましい。元気でいいなあと思う。
 だから私は思い切りわからずやの母親になって、子供の結婚に大反対したい。でもまず子供が自立せざるを得なくならなくては、反対もできないか。

 でもね。本当に私が恨んでいるのは、兄でも元夫でも今の夫でもない。
 名前も知らないあのおじいさんだ。既婚で娘さんもあった。とまた責任転嫁してみる。責任転嫁じゃないよ。本当にあのおじさんは逃げおおせたのだろうか?信じられないね。

 あんなおじいさんが存在するのだから、私が儒教を奉じることはできかねる。年長者の言う事は尊重したい。お年寄は大事にしたい労わりたいけれど、それは年取った人が信頼できるちゃんとした人格者になっていればこそだ。あんな勘違いじいさんからは絶対に毅然として遠ざからなければいけなかったんだ。だけどあの頃は、ああした勘違いじいさんたちを許してあげなくちゃいけないのだろうかという悩みの中にいた。

 ところで、ハリーポッターに出てくるヴォルデモートだったかは、名前を言うことをはばかられていた。

 アメリカ人の神父さんは許さなければいけませんとおっしゃった。何故?何故私に罪を許す力があるの?何故私が許さなければいけないの?私は許しちゃいけない立場じゃないの?何故私は許せないの?許そうとしたからおかしくなったんじゃないの。

 癒しのなんとかとか、メンタルヘルスとかには、自分を許す、自分を愛するということがよく言われてきた。ありのままの自分とは一体どんな自分なのか。何でも許せる私なんて私じゃない。どうして私に許せるんだ?私は神様じゃない。

 神父さんが独身を通すことが建前なのは、きっと家族の問題について第三者としてより客観的な判断を下したいがためだろう。お坊さんの出家もそのためだろう。でも神父さんにも身びいきはあり得る。

 例えばあの自称カトリックのおじいさんが(あの頃はおじさんだったが)、私に対する酷いセクハラと誹謗を懺悔したとして、神父さんがお許しになったとして、それですっかり罪は許されて私のことは忘れて晴れ晴れと暮らしているのだろうか?そうだとしたらカトリック教会なんていんちきだと思う。彼があのままで教会の信者であり続けられたとしたら。我が身を疑わなかったとしたら。

 私はあのおじさんに会わなければ自分が離婚せずに済んだと思うのだろうか?離婚しなかった方が幸せだっただろうか?

 いんちきなのはクリスチャンのおじさんだけじゃなかった。お坊さんもだ。

 一生独身だった方が幸せだったろうか?死んだら神様に会えるんです。
神父さんやマザーテレサのように。

 覆水が盆に返らないという諺は教わった。

 しかしながら閻魔さんやらイエスさんやらアラーの神さんやらは、また私を突然わけもわからず血の池地獄やら何やらに放り込むおつもりなのだろうか?もしマザーテレサの言われるように私も神に望まれて生まれてきたのなら、神にはどんな意図があって私を生かしているのだろうか。どうして私は生きているのだろうか。何のために生きているのだろうか。と自問してしまう。どうして私が自分の大事な人格やわが子を失って名前も知らない他人それも陰で寺の悪口を言って嘲笑していたいんちきカトリックの娘さんを守らなくちゃいけなかったの?どうしてこんな理不尽に耐えなくちゃいけなかったの?納得がいかない。

 


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