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2023年05月26日(金)

引越し完了1ヶ月前。 
現在地の6月分の家賃を払わなければ。

過去を振り返るなといわれることは多いが、再び考えている。

女の子だったら離婚すると言って私がオイオイと泣きじゃくったのは、一体なぜだったのか?

親戚の人が、もしお祖父さんお祖母さんに男の子があったら、
お祖父さんは年取ってから糟糠の妻を捨てて若い女性と家出するようなことはなかったのではないか?
と話したことは、私にわだかまりを抱かせた。

私は、元気ならば男の子でも女の子でもどちらでも良いよ、
と夫に言われることを期待していた。

私の実家は世襲の家系ではないし、宗教団体でもない。
お祖父さんのおじさんが幕末にお家騒動に加担して切腹させられたというくらい時代遅れの家系だが、
テストでカンニングはしたくないたちだ。

で、その時娘の父親は、男だという思い込みが大事だ!と突然顔を輝かせて私に言ったのだ。
これは一体どういういみだったのか?

お腹の子が男の子だという思い込みが大事だという意味だったのか?

それとも、彼自身が俺は男だという意識を強く持つ事が大事だと思ったという事だったのか?

と、その時私は問い返さなかった。

私は、お腹の子が男の子であった方が良いというプレッシャーを親戚の人とその時の夫との会話から感じたのだが、実家の雰囲気からすると、それはとても信じられないことだった。

嫂たちが甥姪たちを産むに当たって、私の両親も兄弟も私も、男がいい女がいいというようなことは考えなかった。

私の思考回路は混乱し、女の子だったら離婚する、と口走って、オイオイと泣きじゃくったのだ。
その時の夫は驚いていた。

今思うと、今さらあの時どういう意味だったの?と聞いても仕方が無いわけだが、別段彼らだって、
男でも女でもどちらでも可愛がったのだ。

しかしながら、今思うのは、二十代の頃、私もその時の夫も、日本の社会の中で、彼は身を固めることを期待され、私もまだ世間を知り過ぎる前に片付けたいみたいな願いを家族あるいは両親に願われていたかもしれない。しかし学生気分の時には、男女差というのは、確かに身体的な違いは歴然としてあるわけだが、
彼はお母様おばさまたちが信頼できる知りうる女性であったろうし、しかし男女同権の戦後の共学教育を受けた者として、同権である事、女性もキャリアや収入を持つ事、という大義名分を実現する事がかなり
重要事項だった。

しかしながら、実際出産となると、医師だから何でもご存じだろうと周囲に期待されているご主人が自分の妻の出産に臨んで実は無我夢中であり、私の子供のお父さんも、不安と自分を助けて欲しいという期待に揺れていたのであり、考えてみれば、自分にとって相手がどんなふうに感じるかということは全くわからなかったわけだ。

普段自分の性別を常に意識してものを考えたり感じたりしているわけでもなく、母親以外の女性ってどんな人なんだろうと考えても、見えるのは、容姿、体つき、服装の好みくらいだ。
私は異性の兄たちがあったので、男の子の女の子に求めることの、理不尽さは垣間見ていたが、それを批判するだけの年齢経験には至っておらず、ただ、彼が年少の少年の家庭環境などについて関心を持ったりするつまり社会の中で生きていく上で模索している姿勢に好感を抱いていたというところだった。

当時の社会科の教科書には、インドにはカースト制度が根強い、という記述があって、戦後の自由民主主義教育を受けた日本の子供には、まあ、インドって大変なのね!という感想だったのだが、実は、日本にも、一皮めくれば、家風の違いというのは、ある。

当時の私は、キリスト教と仏教を混同するような大雑把さがあった。それは、考えてみれば、とてもとても荒っぽい感覚だったのだ。

例えば、オルフェウスとエウリディケの物語とイザナギイザナミの物語はとても似ているじゃん、というような粗雑さだった。

しかし、似ているからどうだというのか?
似て非なるものは五万とある。

あなた岸恵子さんに似てるわ、と言われて喜んでいた母は亡くなったが、岸恵子さんはご健在だ。

誰でもこの世にたった一人の存在なのだ。

離婚の頃も、私は、とんでもないことを言って泣きじゃくった。
お金が欲しかったんだ、身体しか売るものが無かったんだ、と言って、実家の父の前でオイオイと
泣きじゃくった。

これも、我ながら、非常に驚いた。

私は実家の長兄の嫂に、他に誰も居ないところで、私の結婚のせいで私の実家にはお金が何も無くなった、と言われていた。

しかし嫁ぎ先のその時の夫は、結婚費用などが嵩まないように、家具屋さんの問屋に連れて行ってくれたりして、とても気を使ってくれた。
私の母は、ねぎったり交渉したりすることなど知らず、デパートで
和箪笥をこうにゅうするような感覚だったのだ。

私は末っ子で年取ってからの子なので、その頃既に父がまとまった額を得ていたせいか、きっと貧乏人が急に大きな額を持つと、金銭感覚が狂うのではないか?

しかし車が運転てきないと暮らせないから免許を取ってというのは、私にはとても難しいことだった。
私はバイクや車の運転には全く関心を持ったことが無かった。
親に取れと言われなくても、高校生くらいになればバイクとか、また車の免許も取ってしまう人もある。
それはおそらくくるまの運転が好きなのだろう。
しかし私は電車でコトコト行くのが好きだった。歩いている時に見つかるものが好きだ。

それじゃあお金を返さなければと私は嫂に言ったが、私は、桃の節句の時に、実家の母が嫁ぎ先に送ってきた20万円を、夫に言われて投資信託に預けてあった他には、収入は無かった。
月の安定収入は8万円くらいだった。
畑があったし、やりくりすれば食べていけるものだったに違いない。

姑は姑が経営している保育園で私が働けるようにして、給料を出すように取り計らうこともお考えになったのではないだろうか、ある時私に園児たちを看るように2時間ほど頼んだこともあったが、あまりその話は進んでいなかった。

それで家業の資格を取得することにした。

3年で取れるはすのところを4年かけて卒業させて頂いたが、私はいまだに得度はしていない。

私は泣き虫か?

どうしてちゃんと言葉で不確かなところをきちんと確かめずに、泣いたりしてしまうのか?

皇室の女性は品格を保つための持参金が1億円と聞いて、何だか自分の品格を恥ずかしく思う必要はないかもしれないと思った。



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