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| 2023年06月19日(月) |
日本国政府はなぜロシアに厳しくミャンマー国軍に甘いのか? |
将来有望な者ばかりが生きているわけではない。 自分が有望でないとしても、自ら死ぬわけにはいかない。
確かに、ウクライナに侵攻したロシアのことはこんだけ叩いているが、 自国民をこんだけ殺しているミャンマー国軍を日本はまるで支持しているようにみえるが、この矛盾は何だろう? スーチー女史は外国に留学できるような富裕層かなという感じはする。 軍隊に入るのはそんなに富裕とは思えない。 もしかすると、自衛隊はミャンマー国軍と交流があって、つい個人的に信頼していた向きがあったとか? なぜ軍隊の自国民抑制に甘いのだろう?
旧共産圏的東と西側諸国との壁。 そして第三国。ブリックス諸国。 世界は194ヵ国。 で、ロシアが侵攻した時の日本政府の慌てふためき具合はまあ私が当事者だったらやっぱり落ち着いてはいられなかったとは思いますけど、しかし、ASEAN諸国に軍事費の助成行脚って まあとにかくどうしたらよいかASEAN諸国の人との会話から道を探りたかった? でも、矛盾してますね。 原爆落とされた日本は当然核軍縮を目指すかと思いきや、 原発無くせないし、核兵器持ちたいかなみたいになってきてしまった。
それに、どうしてロシアとウクライナの争いでウクライナ支持一辺倒なのか? ロシアも大きな国なんだから、言いたいこと言ってろよ、と言論自由だったろうと思う。プーチン氏が俺に刃向かう奴は殺せなんて腹心に言ったかね? 相模原の障害者施設殺人事件にショックを受けていたプーチン氏がそりゃ暗殺の恐怖はあるかもしれないけど、あべちんもやられちゃったですしね。でもスターリンの粛清の恐怖みたいのの後で、自分もスターリンみたいになりたいなんて思いますかね。彼はゾルゲ志向でしたから、多分ナワルヌイ氏の件は、誰か 体制派に組みするものが、勝手に動いたりするか、あるいは、私が転んだ腰の激痛に悲鳴をあげているのが、まったく息子や夫の意図するところではないことのように、プーチン氏はタッチしてないということではないのかな。CIAは結構妄想を抱いちゃう病ありそうですが。
男女同権と女性管理職を増やすって、女性の身体には無理がない?男性が主夫になるのか。
思えばね、私はちょっと安倍さんに申し訳なかったかなと思ってます。 子持ちってどうもだめなところがある気がして、安倍さんは志に矛盾がなさそうで長になっていて欲しかった。自分独身の頃軍備は必要とか思ってましたんで。 でも親になったら自信なくなった。で、安倍晋三氏のような方に長の役を頼みたかった。 しかし、晋三氏、神経太くなかったしね。でも頑張られたな。お腹痛くてもう出てこれないかと思ったけど、再選なさいましたものね。 大変な役を押し付けてしまった感じがして。 ご本人が大役を降りたのが心残りでしたでしょうけど。 たのむわーと言いつつ、なかなかキャリアには本気を出せない私でした。やはり神経でか。
子供の頃父と母が夫婦喧嘩していても、それで仲が悪いとか、愛情がないとか思うことはなかった。 一つには、父は身体的暴力を振るうことはなかったので、 父を怖いとは思っていなかった。 僕らはすごく自由に育っちゃったみたいなんだ、と次兄は言っていた。
例えば娘の父親は、お父さんに竹刀で叩かれたとのことだった。 私の父も剣道は習っていたが、竹刀で兄たちや私を叩くことはなかった。 むしろ放任主義だったのかな。 自分が妻を愛する事が教育と思っていたのかもしれない。 母は働き者だったが、マナー教室に通ったお嬢様ではなかった。 町娘という感じかな。姉や弟が多かったので、皆のためにできることは何でもした。下駄屋さんを営んでいるお姉さん夫婦のところに、足踏みミシンではなおを縫って、送ったり、 郵便局の新円切り替えのアルバイト、出版社の編集員、ブローカーの秘書店番など。 出版社の編集の仕事は、結婚してからもしていて、その頃は母は嫁だが、夜遅くまでお勤めしていた。 多分誘惑に強かったので、仕事を続けられたのだろう。その頃は父より収入は多かったらしい。それを姑に全部渡して、父の給料も渡して、祖母が切り盛りしていたようだ。三世代のほかに、満洲から命からがら引き上げてきた姉妹や独身の障害者のお姉さんもあって、一家の経済について理解していたのは祖母と父母だけだった。 ラジオの声優にスカウトされたのが自慢だった。 母は、六十で癌で亡くなったが、その時までずっと父に女性的魅力を湛えていたかったようだ。 父は母が亡くなるまで母以外の女性と問題を起こしたことは無かったし、 後添えさんと、共同生活をしても、どうも男女の色恋というよりも、生活を助け合う雰囲気の方が強く感じられた。父は割合もやしっ子だったのだ。女性の母性的な感性なくしては生きていけなかったろう。 母には随分苦労をかけたろうが、後添えさんにはそんなにお酒を飲んでも、荒い面は出さなくなっていた印象だったが、それでも、私についての事で、父は、私のいないところでは、 後添えさんの批判に対して、亡き妻に一任していて困った娘に育ててしまったという思いはあったろうが、それでも私を守ろうとしたようで、 後添えさんはお父様を早くに亡くしていたので、ああお父さんってこういうものなんだ、と思って貴女が羨ましいの、と語っていた。 父自身は、どんな娘でも、自分には目の中に入れても痛くない娘なんだ、と言ったんだ、と言っていた。 父はお酒臭いことも多かったので、あまりキムタクのお嬢さんたちのようには私は父をカッコよくは思っていなかった。しかし今思えば、やはりこの親ばか父さんの存在が私を守ってくれていたかもしれない。 放蕩息子の帰宅を喜んだ父のように、私の父も、この感心しない放浪娘を受け入れてくれたのではないかと思う。
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