3人。 - 2002年01月01日(火) 3、という数字の中で私はようやく落ち着くんだなという簡単な方程式にさっき気がついた。何故さっきかはまあ置いておくとしても。 私の友人関係は、私と、あの子と、あの子、と『3』でまとまっている事がとても多い事に気がついた。そして、『3』の単位でまとまると、もう長いこと離れないで友人で居られる。 私はどうやら、3の中で『鎹』として存在するのが好きらしい。 私の大好きなあの子と、同じように大好きなあの子と、そして私。そうやって構成された(意図的ではないが結果として)友人関係、いくつかの『3』の単位の中に身を置いている。 『3』だと、そのうちの一人に起きた事、そのままがあとの二人に吉事あるいは凶事のイベントとして跳ね返る。渦中に一人居ても、あとの二人は相談したりいろんなことが出来る。吉事は倍、凶事は半分の心強い味方となってあとの二人は結束する。 例えば昨年の私の入院、闘病。あれも、私が身を置くいくつかの『3』の単位中の残された『2』である彼女たちにとって、イベントだった(決して悪い意味で思っているわけではないので誤解の無いよう)。 それぞれが、仕事も違っていてもう普段そう会う事も無いだろうに、相談して一緒にお見舞いに来てくれて、結果としては小さな同窓会が楽しめた。電話はしても、会うとなったらなかなかだったりするのだが、『イベント』の前なら大抵のことは何とかなったりして、スケジュールを合わせよう、と本気で相談したりする。 他にも、その単位内での結婚。友達の友達が皆友達、なら苦労はしないがそういうわけではない。結婚式に、一人ぽつんと招待されるのは心もとなかったりするものだが、二人招待されるなら心強い。その心強さを、もういくつか招待されたので(笑)よく解っている。当日に着る物、あげるプレゼント、そういうものを考えることがもう『イベント』で、楽しい。 頼り切られることが好きじゃない。むしろ嫌いだ。だから、その危険がある『2』という数字を避けたいのかもしれない。 けれど、頼ったり頼られたりじゃなく、支えあう関係が作れる人間となら『2』が成立する。 『3』にはそれがない。支えはそれぞれの足、どこにも寄りかからずどこが頭でもない。誰がリーダー、という状態では『3』は成立しない。みんなが同じに対等で、そして『似ないものの集まり』でなければ成立しない。 それぞれがそれぞれに考えないと、2―1の図式が出来てしまったりする。でも、どこかが共通しないと集まれない。でも今の私には、私と彼女たち、一体どこが似ているのかサッパリ見当もつかなかったりする。肝心のところで息が合う、としか言いようがない。肝心のトコで呼吸を楽にしてくれる。 ああ楽だと、いつも感じるのはそういうところで呼吸をしたときで。 楽をして生きる事と楽な友人と居る事はイコールじゃない。楽な友人を得るために苦しむならその方が良い。そうやって来た。 楽な友人は楽には手に入らない。自分が楽をすることは簡単だけど、その人を苦しめてるなら意味がない。みんなが楽で一緒に居る。ちょっとだけ難しい事かもしれなかったけど、でもそうやって手に入れた友人はもう離れていかない。私が変わってしまわなければ。 ……と、自分に言い聞かせた2002年元旦。 私の大切な友人が、この春には母になる。 人の親になれる年なのだということを改めて知った(まだ少し若い気もするが)。 彼女は優しく芯の通った母親になるだろう。 ………でも年賀状なんかで知らせて来ずに(私は偶然大晦日に知りましたが)わかったらさっさと電話寄越して来いボケ!と嬉し紛れに電話かけて悪態ついてやりました。『安定期になったら知らせようと思ったのよ〜』ってとっくに安定期だろ!貴様!って(笑) そして私は、もう一人の友人と、『あとの2』としての使命を全うすべく、早目に(大晦日の、まだ彼女からの年賀状が届かないうちに)電話で知らせて悪態を二倍にし、そのあとは二人で出産祝いを考えるのでした。 3人の中で一番幼いと思っていた子が、一番に結婚したショックも大きかったけど一番に母になられたのも結構ショックでした(笑) 次はどうやって度肝を抜いてくれるのか楽しみ。 そして別の『3』の単位の一人が、この春、結婚する。まあ私より2つ上の彼女は『適齢期』ってカンジですが。 みんなみんな幸せで、今年は良い事ありそうで幸せ。 現に二つは『良い事』あるって確定してて幸せ。 こういう友人をなくさないでいられたら良いなあ………。 2002年新春の願掛けでした。 -
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