※只今風邪気味注意報
うーん、本当に地球は人に優しくない!! 今日は外にいることが多かったが、そのためどうやら花粉症になった。 優しくないね、本当に。 こっちは今から優しくしていこうとしているのに。 もう遅いって?
―END―
ついしん 学園祭の情報が載っているHPを見た。 山崎邦正が札幌医科大学に行くらしいが、何をやるのだろう? 気になる。
※只今風邪気味注意報
「今夜はパラシュート博物館へ/森博嗣」を読んだ。 オシャレな感じがした。 S&MシリーズやVシリーズのようなミステリは無かった。 でも、不思議なストーリィ(森風)が多い。 この不思議さは希少であると思った。 一編一編が短く、読みやすい。 シリーズものほどの難しさがない。 なんというか・・・こういうものなら僕も書きたいと思った。 簡単である、というわけではない。 が、組み立て方は簡単かな。
―END―
ついしん 恐ろしく内容やまとまり(「今夜は・・・」についての感想、という点ではまとまっている)が無い今日の日記にもお慈悲を。
実に言いにくいタイトル。 何故このタイトルか? ふと思ったが、自分が笑っていない場合、他人の笑っている行為を見ると、それがバグっているように思える。 バグというと聞こえが悪いが、そのバグのようなものを人は好む。 何故だろう?
最近、「四季 春/森博嗣」を読んだ。 「四季 夏」が待ち遠しい。
今、「今夜はパラシュート博物館へ/森博嗣」を読んでいる。 短編集だ。 これは、通称Vシリーズと言われる作品群の間に刊行された小説である。 Vシリーズの4巻までは、講談社文庫で出版済みである。 が、それ以降、5巻〜10巻までと、2冊の短編集(「今夜は・・・」と「虚空の逆マトリクス」)は講談社ノベルスでしか、今のところ存在しない。 文庫で揃えようと思っていたが、特に他に買いたい小説を思いつかなく、手を出してしまった所存。 ま、「四季 春」もノベルスで買ったわけだし。 文庫がノベルスの約3年後に出版というのは長い。
―END―
○あれの誰がなんとなく凄い!
1:ネスカフェのCMの唐沢が言う『あビックリ』の、<あ>と<ビックリ>の間にタメがないのが凄い!
2:缶コーヒーBOSSの、浜崎あゆみと出ている武士の格好をした原田芳夫(だと思う)が、浜崎と共演していて違和感がないのが凄い!
○映画の主人公にしたい芸人ベスト2
1位:ナインティナイン(コンビの詐欺師)
2位:明石屋さんま(当たらない占い師)
―END―
ついしん 一つであるそれは、一つに見えるから一つなのだと思われている。
「白いドレスの女」 近所に僕と同級生くらいの女の子がいる。 そうか、少し違う。 同級生くらいの女の子は数人いる。 いるにはいるが・・・ 僕が普段から意識している同級生の女の子が、一人いるっていうこと。 それだけ彼女のことを無意識に特別視しているのだろう。 一度見たら忘れないような、印象深い女の子だ。
見た感じでは、小学生であるのは間違いないと思う。 自信はないけど。 まぁそんなことはどうでもいい。 とにかくその子は、いつも白いドレスを着ている。 何着も同じものを持っているのだろうか? たまたま僕が見かけた時に限って、白いドレスなのか? そんなことはないだろう。
週に2、3回、僕の家の近所で見かける。 近所のマンションにでも住んでいるのだろうか? きっと、アパートには住んでいないだろう。 あれでアパートに住んでいたら笑ってしまう。 そう思わせる力が彼女にはある。 そえにしてもどこに住んでいるのだろう? よく近所で見かけるのだから、近所に住んでいるのだろう。 まぁ、そんなことは僕には関係がないけど。
そういえば、彼女は小学生のはずなのに、僕の通う小学校では見かけない。 今までそんなことは、気にもしなかったが・・・。 というのも、確かに見た目の年齢から推測する分には小学生だろうと判断できるのだが、とても彼女の立ち姿、仕草なんかからすると、他の小学生と混じって机に座って勉強しているなんて、想像もつかないからだ。
彼女は日焼けを恐れているのか、常にこれまた白い、木星の上半分のような形の帽子を被っている。 だから、角度によっては、顔が見えにくい。 それでも、美人な顔立ちであることは、何故かわかる。 僕は、彼女がその辺りで見かけることが不思議でならない。 何でこんな何の変哲もない住宅街に彼女がいるのか? きっと白いドレスを着ていることが、そう思わせる面も大きいだろう。
ところで彼女と白いそれは、とっても似合っている。 それしか着ないのもうなずける。 本当にそれしか着ていないのかはわからないが。 そんな彼女。 きっと小学生くらいの年齢の。 だが、それは、見た目の印象から推測されるものに過ぎない。 本当は違うかもしれない。 しかし、僕にはそんなことはどうでもいい。
年齢なんて、単なる目安だ。 確か日本人は平均寿命が80歳くらい。 人は、自分の年齢を数えていくことによって、後どれくらいで平均寿命を迎えるかを確認することによって、いくらか死の恐怖を和らげようとする。 その為の年齢だ。 自分では年を取ることには何の抵抗もできない。 生きている限り。 人は多くの事に対して、抵抗ができない。 生まれることに対して。 死ぬことに対して。 その他、あらゆる要素が、1人の人間にまとわりつき、それに抵抗ができないでいる。 そういうものに、人は悩む。 生まれながらにして、人は悩むようにできているのだ。
何故生まれてきたのか? 何故死ぬのか? 常に何故?を考え、そしてそれに対して対策を立てようとする。 それでも結局わからないから、少なくともその恐怖を和らげようとして、死に向かう準備を人はする。 一体何のために生きているのか? 死ぬために生きるのか? いや、生きることは、死ぬためでさえないだろう。 生とは、独立した存在なのだ。 生と死を対のものとして考えることは僕にはできない。 死を認識することは、それを迎えた生命体にとってはできない。 それは、生きている人間か考えた、そういう状態に対する名前である。
死んだ人間は、自分が死んでいるとは思わない。 いや、思えない。 人は、勝手だ。 ここで言う<人>というのは、一般的に言えば生きている人間のこと。 人は、勝手に死んだ人間の事を死んだのだと言う。 そう決め付ける。 そう言うと、僕はきっと人から変な奴だと思われるだろう。 狂信家だと言われるだろう。 死んだ人間を死んだのだと思わないからである。 ただ、誤解しないで欲しい。 一般的に死んだ人間の事を、まだ生きている(精神的に)とは思っていない。 死んでいるも何もないのだと思っている。 つまり、敢えて先人の生み出した言葉を使うなら、それは<無>である。 所謂<死>というものなんて、存在しないのではないか?
人は、明らかに<死>なるものを怖れている。 だから、そんな未知ではっきりとしない、生だの死だのという考えさえも持てない世界に人が向かった状態のことを<死>と名づけたのだろう。 得体の知れないものに名前をつける。 得体の知れないものを、はっきりさせようとする。 弱い存在だ。 実に弱い。 人が生きているというのは弱い。 ただ、弱いのが悪いとは言えない。 そう定義できない。 そんなことは、どうでもいいこと。
わけもなく生まれ、わけもなく生きる。 そんな生命体たち。 そんな人間たち。 そんな僕。 僕には僕である理由がない。 だけど、僕は僕だ。 こういう僕。 こう考えているのも僕。 そしてきっとこう考えているのは僕だけ。 そう思うのは僕で、そう思えるのが僕。 どこからどこまでが僕? きっと生まれてから死ぬまでが僕。 そう考えるのも僕。 僕、僕と言っているうちにだんだんつまらなくなってくる。 僕が何で、何が僕か、なんて・・・そう、どうでもいい。 話が随分と長い間飛んでしまった。
そう、思い出した。 僕は、白いドレスの、その目立つ女の子・・・彼女を見る度、不思議になる。 彼女は本当にそこにいるのか・・・と。 は、いいや、そんなこと。 本当なんて・・・ 真実なんて・・・ 僕が何であるのかどうでもいいように。 彼女が変わっていること、彼女が何であるのかということ。 すべて考えない様にしよう。 そう、それを知ることを僕は怖れている。 彼女が白いドレスを着ているのが良い。 小学生かどうか疑わしいのも良い。 すべてがいい。 そう思える。 それが良い。 とにかく良い。 理由なんてない。 あったかもしれない。 でも、忘れてしまった・・・。 良いなぁ、あの子。 一体何が良いのか? 見ているだけで、良い。 ずっと見ていたい気もするけれど、それは叶わないこと。 そんな気がする。 僕はしばし、白いドレスの女の子に名前をつけないでおこうと思う。 あぁ、きっと僕は彼女を怖れるのを怖れている。 怖れた瞬間、彼女が消えてしまうことを・・・。 弱い。 実に弱い僕。 弱いのが悪いのか? それは僕にはわからない。
―END―
| 2003年09月24日(水) |
これからのことはわからないが・・・。(過去の映メモつき) |
昨日、「世界中がアイ・ラブ・ユー」という映画を観た。 ウッディ・アレン監督作品。 小林信彦という作家が<20世紀の洋画100>と題打って作品を並べた中に、リストアップされている。(2001年映画の旅/小林信彦著参照) へぇ、そんなに凄いのか、いつか観なければ、と思っていて昨日観た。
ある一家が中心のミュージカルである。 ミュージカルシーンに違和感を覚えなかった。 ふと、日常の中で唄を歌いたくなって歌う自分がいるものだが、この映画の登場人物らも、そういう気分になって自然に歌っているような気がした。 やはり人には人(他人)が大切になってくるのだな、と感じさせる映画。 軽いタッチで物語りはポンポン進むが、小説ではないが、行間を感じさせるのもいい。 あぁ、映画ってのは話の筋を大まかにすると軽いタッチになり、観客に行間を読ませるようになるのか、と思った。 大袈裟に言えば、人生色んな事があるが、それでもその分いいものである、とでも説教臭さ0点で語っている。 ウッディのトーク、面白い。 なかなかこんな雰囲気の映画はないと思う。 貴重だ。 素適だ。 その一家を中心とした小社会に、幸せの在処を見たような気がする。 そんなミュージカルコメディドラマはどうですか?
ひとつこんなエピソードが。 ウッディ扮するキャラが、離婚した奥さんと自然な流れで言い合いをしているシーンがある。 そんな中、その元奥さんが、あなたは昔、精神分析医か作家になるかで迷っていたわね、と言う。 それを受けてのウッディ扮するキャラの返しが凄い。 <今は作家になって分析医通いさ>(確かこんなセリフ) 良いんだか悪いんだか。
―END―
ついしん 小林信彦は言う。 <小説が19世紀ののものだったように、映画は20世紀のものであった。これからのことはわからないが・・・。> 確かにわからない。 創造と崩壊・・・ いつの時代にもそれはある。 先の事はわからない。 わからない。
【映メモ32】 2003年8月18日 「ゴスフォード・パーク」を観た。 犯人に同情。
【映メモ33】 2003年8月24日 「なごり雪」(邦画)を観た。 宝生が出てたから観た。 悪くない映画だった。 ミステリの要素もあった。 その要素のオチが悲しい。
【映メモ34】 2003年8月24日 「桜桃の味」を観た。 自殺しようとする男の話。
【映メモ35】 2003年8月27日 「アイズ・ワイド・シャット」を観た。 良かった。
【映メモ36】 2003年9月8日 「座頭市」を観た。 久々に迫る映画だった。
【映画メモ37】 2003年9月未明 「カッコーの巣の下で」を観た。 ラスト、解せない。
【映メモ38】 2003年9月21日 「御法度」(邦画)を観た。 魅せる映画だった。
| 2003年09月23日(火) |
人的成美(じんてきなるみ) |
蚊取り線香の先にチャッカマンで火をつける。 まだ煙が出ていない状態の、火がついた蚊取り線香の先に、口から小さな勢いのある空気の固まりを送る。 すると途端に辺りにソレの煙が勢いよく上り、充満する。 ソレを見るのが好きだ。
最近家にいると、ふとももをよく触る。 そうすると落ち着く。 むろん、自分のものである。 むろん、をカタカナでムロンとすると、マロンみたいだ。 マロンより若干中高年に人気がありそうだが。 だから渋いんだろうね、ムロンは。 熱いお茶と一緒にね、食べたくなるんだろうね、きっと。
―END―
ついしん 自分が人間であることの理由などを考える、なんてことは贅沢なことだ。
| 2003年09月22日(月) |
手をポケットに入れながら |
「手をポケットに入れながら〜疑い〜」 夜、風呂から出た後の暑さから逃れるように散歩した。 夜風がほんのり肌を撫で、心地よさを感じた。 といっても、目的があった。 近所のコンビニに行ったのだ。
その途中、俺は手が所在無げにしているのを感じた。 そして試しにそれをズボンのポケットに入れてみた。 俺は、よっぽど似合う奴ならともかく、大抵の男はポケットにそれを入れた様はカッコ良くはないと思う。 だが、今は夜。 ほとんど人とはすれ違わない。 すれ違っても、暗くて相手の姿なんかまともに見えない。 だから気にしないで入れておくことも可能である。
だが、ここで一つ疑問に思ったことがある。 果たしてこのままポケットに手を突っ込んだままでいいのか? ハードボイルドの主人公気取っていいのか?と。 そう思ったわけなのだ。 俺は別にハードボイルドの主人公でない。 もともとそういうのが様にならない人間なのだ。 そもそも自分を<俺>と言うのにも気が引ける。 なので、私は一旦手をポケットから出した。
だが、やはり手が体に対して不安定であると感じた。 そして再びポケットに戻した。 やはり落ちつく。
手をポケットから出した状態だと、ブラブラするのが落ち着かない。 歩いている際、手だけ、体には必要のない部分のようにも思える。 だからなるべく、体と一体化させるため、私は夜には手をポケットに入れながら歩く。
私はハードボイルドの主人公でない。 良いではないか、ハード・・・の主人公でなくても、たとえ見えていたら格好が悪くとも。 本当はこうでもいいのでは?と疑うことは大切である。 自分が落ち着くならいいのである。(時と場合によるが)
私は一介の青年だが、夜、散歩するときにはポケットに手を入れる。 そういう男だ。
―END―
| 2003年09月21日(日) |
お忙しい中ありがとうございました。 |
昨夜、『百億の星と千億の夜/萩原望都(はぎわらもと)』を読み終えた。 秋田書店の文庫の漫画である。 森博嗣がファンの漫画家であるらしい。 が、僕も好きだ。 同じ萩原作品で現在単行本が刊行中の『バルバラ異界』はかなり良い。 『トーマの心臓』は、世間では傑作だとされているようだが、僕もそう思う。 描こうと思っても普通描けない類のものだ。 それくらいしか萩原作品は読んでいない。
で、『百億の・・・』は壮大なスケールのSFだ。 スペースオペラもので、これより壮大なものを描けるとは思えない。 他にそういう類のものを読んだことがないが、そう思わせる凄みがあった。 神の存在を身勝手なものとして描いてあるのに共鳴した。 神に救いを求めるのは間違いであることは、薄々・・・いや、はっきりと常々思っていたので、納得しながら読んだ。 是非皆様にも『百億の・・・』の世界を味わって欲しいです。
最近、考えがまとまらない。 何も考えていない。 そろそろ自立しなければ、と度々思ったり、突然の季節の変化に戸惑うくらいだ。 あと、映画よりも今は小説や漫画モードだ。
かなり受け身だ。 受け身とは、悪いことなのか? わからない。 しばらくこんな感じなのだろう。 無理をしないのが一番だ。 『爆笑問題のススメ』で米山公啓が言っていたではないか、<無理をしないのススメ>を。
もし、僕が何かの舞台を観に行って、主催者に『お忙しい中ありがとうございました。』と言われたら、心の中で(忙しくないよ)と思うことだろう。 本当に・・・僕は忙しくないのが好きだ。 本来、今の自分が忙しくないのはおかしいはずなのである。 だが、ここではそのことは問題にしない。 とにかく、僕は忙しさとは暴力的なものだな、と思う。 まぁ、世の中暴力的なものに満ち溢れているが・・・ せめて、自分が自分自身に暴力を振るわないようにしようと思う。
御静聴ありがとうございました。(パソコンのある今あなたのいる部屋に音楽がかかっていないことを願う。いや、本当はどっちでもいいです)
―END―
ついしん それにしても、今日のこのタイトルは、日記タイトル一覧のページで見ると、何だかあやしげな雰囲気を持っているように思える。 何だか弱々しくて、今にも寿命が尽きそうな、老人のようなタイトルだ。 そう思う僕は少しやばいと思う。 やはり思わない。
ついしん2 さっき放送していた『御法度』(邦画)を録画したので、いつか観ようと思う。 前深夜にやっていた『はつ恋』(邦画、田中麗奈主演)も録画したのだが・・・頭2時間分空いているテープに『御法度』を録ろうとしていたが、録画解除し忘れて(今も解除していない)『はつ恋』潰れてしまっている最中。 アーメン。
そりゃ「四季 春」、書店に無いはずだわ! Yahoo!ブックスの売り上げランキング一般書店(総合)によれば7位にランクインしているし、新書・ノベルス部門では1位だもん。
―END―
ついしん 「斜め屋敷の犯罪/島田荘司」を買った。
読み終えました、「異邦・・・」(昨日の日記参照)。 いやー、まさか記憶障害の男が○○だったとは・・・。 この著者の本は、これで二冊目ですが(前に「占星術殺人事件」を読んだ)、時の流れを感じさせるのがうまいなと思います。 あと、比べるなら森博嗣のミステリより生々しいとも。 重量感があって、犯人も魅力的で(二作とも)、申し分ないです。
―END―
ついしんの詩 「先生」 ここにあった式を勝手に微分したのは誰だ? 私は許した覚えはないぞ!
「改訂完全版 異邦の騎士/島田荘司」を買い、読んでいます。
―END―
ついしん 当分は島田で行こうかと思います。 もしくは違うミステリか。 それとも森博嗣が薦める本か(森博嗣のミステリィ工作室参照)。
道路を横断する際、心がけていることがあります。 それは垂直横断です。 道路が伸びている方向に対して垂直に渡れば渡るほど、歩きならば歩数がかかりません。 その分、滞路時間が少なくて済みます。 よって、轢かれにくくなります。 だからそれを心がけています。 ただし、これをやると、目的地までの距離は伸びます。 でも、轢かれるよりはマシです。
―END―
ルネ・マグリットという画家を知っていますか? 私は知っています。 知らなきゃ書けません。
彼の絵に『ピレネの城』というのがあるのですが、これを見てビックリ!! なんと・・・
ミスチルファンの人なら『あぁ・・・!!』となります。 参考HPは↓の場所です。 http://village.infoweb.ne.jp/~fwit1238/magrtt/magrtt0.htm そこに行ったら、上部の[7]という部分をクリックして下さい。
―END―
| 2003年09月15日(月) |
ずっと涼しくて、それから逃れられない季節 |
何でうちの近所の本やには、「四季 春/森博嗣」がないのだろう? 売り切れたの? 森博嗣のノベルスが置いてある棚の右端がガラガラなのが、気になる。
今日、「百億の昼と千億の夜/萩原望都」を買った。 まだ読んでいない。 帯に<人間とは?神とは?存在とは?壮大な時空間を舞台に描く日本SFの金字塔。>と記されているので期待せずにはいられない。
相変わらずローペースで「占星術殺人事件/島田荘司」を読んでいる。
今日は昼寝し過ぎたなー。
―END―
聞きたいときは聞くから!! (某電化製品販売店での私の心境)
―END―
| 2003年09月13日(土) |
点が線で結べると誰が言った? |
そのー、何というか・・・ 人は自分と違う存在なわけだから・・・ えー、まあさ・・・ それでいいんじゃない、と思う私がいるんですけれど・・・ それでもそれでいいのか?って思う僕もいるんだが・・・ ということで、どう考えても人格が一つであるとは言い難くて・・・ 困っております。
例えていうなら・・・ そう、いくつものブラウザが自分には備わっていて・・・ どのもので見ようか、と迷うわけなんです。
新しいブラウザがあるんだけれども・・・ 新しいからいいとも限らないわけで・・・ というか、飽き性なんで・・・ そういう点で新しいそれを使わない時があるだけの話なのかもしれません。
でも、自分のどのブラウザが飽き性の要素を持っているのか、というのがまたややこしいわけでして・・・ それはどのブラウザにも共通しているのかどうかもアヤフヤでして・・・ 飽き性の要素が自分の中に多く点在しているにもかかわらず、同じ事を繰り返していたりする事があるのはどういう訳なんでしょうか? こんなことを思っている私は、ある特定のブラウザの私なんでしょうか? 共通意識なんでしょうか? 互いのブラウザに相互性のあるものなんでしょうか?
そもそもいくつものブラウザがあるのだとか、人格が一つにまとまっていないと思うのが間違いでしょうか? 僕には・・・ 少なくともそうは思えません・・・ だけど・・・ 世間はそれを・・・ 許してくれるでしょうか? 家族はどうでしょう? 恋人にはせめて・・・ やはり僕は孤独なままなのかなー・・・
私に・・・僕・・・あたし・・・俺・・・私には・・・ 本質というものが・・・あるのですか? どこにあるの・・・ですか? これはなん・・・です・・・ぁ? 私はだ・・・れ・・・・・・・・・
―END―
| 2003年09月12日(金) |
いつも残っていくのは懐かしい記憶だけ |
ドラマ「Stand UP!!」が終わった。 結果的にミステリ形式の面もあったドラマだった。 見た人は分かるが、千絵の過去に何が!?という点で。
何か楽しかったなー。 青春の様をデフォルメされて描かれていて、滑稽な演出やカメラワークだったけど、それがストーリーに似合っていた。 そして、シビアな話になると抑え目の演出やカメラワークになるから、その分ソコがグッと来るしかけになっているのも良かった。
つまり青春時代の行動ってのは、客観的に見ると滑稽なのだろう。 演出が淡々としている場合、青春している主人公らは異様に見えるが、このドラマは演出自体が異様なので、初めから見る人を選んじゃうドラマである。
だけど、主人公らがはしゃいでいる様子を、同じ様にはしゃいでいるカメラワークで捉えているので、視聴者は、このドラマで描かれているものを客観的に見るように仕向けられているのかもしれない。 簡単に言うと、演出とカメラワークのテンションが同じ作品なのである。 だから、そのテンションが好きじゃない人は、きっと見ない。 でも、好きな人はかなり好きだと思う。
一方、ドラマというのは演出が変わっていても、カメラが冷静な場合が多い。 すると、視聴者は客観的なフィルター(カメラの視点)を通して見ることになるので、割かしどんな内容のものでも好き嫌いに関わらず、見ることができるのだ。
僕はどっちのパターンのドラマでも見るけど。
―END―
どぅわー・・・「トップランナー」味噌捏ねた〜(見損ねた)。 最悪! 俺最悪!! 再放送いつ? 調べるさ、とりあえず。
―END―
体調が悪い。 ダルい。
―END―
| 2003年09月09日(火) |
監督:北野武、主演:ビートたけし |
「座頭市」よ、感動をありがとう。
友達と2人で観に行ったが、観終わった後、一言も感想を漏らさないでいた。 僕が誘ったわけだし、友達も少しおかしいと思っただろう。 が、僕は本当に感動すると無口になるか、『凄かったね、凄かったね』を連発する質なので、言葉数が少ないのは感動していた証拠。
何がそんなに良かったのだろう? 最近、心の底から感動できる作品がなかったので、それも手伝って感動したと思う。 実は、ベネチア国際映画祭で監督賞を獲った、と聞いて期待値が上がったので、その分感動できるかどうか、不安に抱きながら観に行った。 それでも最後のあのタップシーンの迫力に感動した。 あの抑圧からの開放を表現したシーンは圧巻だった。 明らかに映画館で観ないと損だ。
ストーリーはシンプルだった。 その分、時代劇としての異色性が目立って良かったと思う。 何が異色だったかは、具体的にはあとに触れる。 ギャグシーンも、無理矢理笑わせようというのでなく、座頭市の世界の日常の中に合うものだったので良かった。
目の見えない市の瞼に、ダナルカナル・タカ扮するキャラが描くというギャグがある。 ベタとも言えるが、これは、目の見えない人ならば、本当は笑い飛ばせないほど辛いもののはずである。 一歩間違えれば、『バカにするな!』と怒る人もいるだろう。 だが、寝泊まりしていた家のおばさんに『気味が悪いよと』と笑われたのに対し、市は『ふふふ、見てみたいものですね』と笑って返した。(苦笑いには見えなかった) そこに、市の強さを感じた。 そして、笑いとは、ギャグとは力強いものだと思った。 ベタなものでも、市というキャラの瞼に目を描いたからこそ、生きるギャグだったと思う。 他にもギャグが挟んであったが、殺伐とした内容の物語の中だからこそ、それぞれのギャグは一息つけるものとして機能したので良かった。
噂通り、アクションの切れも良く、最近のハリウッド映画におけるワイヤーアクションなどに飽きた我々にとっては、新鮮に映った。
世間では、どうやら姉妹の回想シーンが長いのが不満、という声があるらしいが、ああいうゆったりとしたシーンがあってこそ、アクションシーンなどがより爽快なものとして映るのだと思うので、僕はそこはオッケーだった。
この映画は不満に思う点もなく、緊張感が全編に渡ってあり、その間にさっき言った回想シーン、ギャグシーンが織り込まれていて最高の映画だと思った。 勝新版のソレを観てないが、勝新版が好きだった人は確かに受け入れられないのだろうと思う。 ただ、北野監督は、勝新版を真似て創ったわけではないので、是非皆さんには別物として捉えて欲しいと思う。 勝新版を観てないのに、双方が別物だとわかる理由がある。 金髪のあんま(市)、農民のタップダンス。 そんなものが、今までの時代劇に登場したとは考えられないからだ。 ただそういう点が違うというだけでなく、そういう点に、違うものを創ってやるぞ、という監督の決意が現れていたのだろうと推測できるから、別物だと思ったのだ。
―END―
「座頭市」に興味がある人は、テレビ愛知にて金曜放映の「たけしの誰でもピカソ」をご覧あれ。
「暴力的デザイン」 ニュービートルに憧れている。 黄色のがいいと思う。 ところでドイツ車は、本当に頑丈なのだろうか? たとえ頑丈だとしても、衝突時のショックを吸収するような設計になっているのだろうか? よく知らない。
ニュービートルはとても丸みを帯びた形状をしている。 その丸さに微笑ましさを覚えるが、と同時に僕は暴力的な一面もあることに気がついた。
もし、あの車の屋根に人が落ちてきたら?ということを想像した。 バイク事故が起きると、吹っ飛ばされてボンネットや屋根に落ちるということもあるだろう。 そういうケースの場合、運悪くニュービートルに落下してしまうと、なんだかズルっと地面に滑り落ちそうな気がする。 人の形状や重さのことを考えると、現実的でない想像なのは想像できる。 だが、他の車より、滑り落ちそうな気がするのである。
せっかく落ちてきた人が地面に強打せず、車のボディがクッションの機能を果してくれて助かっても、つかの間滑り落ち、後続の車などに引かれたら悲しい。 だから、ニュービートルを街中で見かける度、<暴力的デザインの車だ!>と思う。 ニュービートルはまるで、見かけは優しそうでも底意地の悪い、そのギャップに驚かされる女性のような車だ。
―END―
| 2003年09月07日(日) |
渾身の名言(私的の名言13) |
「黒澤明の名言」 日本映画をよろしく頼む
これは、北野武(ビートたけし)に宛てられた手紙に書かれていたらしい。 97年、北野監督が「HANA−BI」でベネチア国際映画祭金獅子賞を受賞した1年後、黒澤監督は亡くなった。 おそらく同賞を受賞後に寄せられた手紙だと思われる。 この名言は、黒澤監督から北野監督への贈り物だろう。
そして北野武監督は、今回9/6日に閉幕した第60回ベネチア国際映画祭のコンペティション部門の受賞結果で、監督賞、通称銀獅子賞を受賞した。
―END―
ついしん 同映画祭の過去の受賞作品を見ると、日本人の名前を探すのが難しい。 今回はコンペ部門で20作出品されている。 そんな中、銀獅子賞(監督賞)を取ったのは、並大抵ではない。 まず日本代表になるのも容易でない。
ところで、今回は9.11の影響を受け、シリアスな内容の作品が多かったらしく、その中で「座頭市」は異色の存在であったらしい。 そんなことも、今回の受賞に一役買った理由だと思われる。
現在9/7、a.m.1:22。 ベネチア映画祭のコンペティション部門に出品された、北野武監督作品「砂糖一」の結果が待ち遠しい。 なんで<ざとういち>って打って変換したら<砂糖一>なんだよ! 正しくは「座頭市」。 もうすぐ結果が分かるみたいなんだけど。 さっき「スマステ」で「後二時間後くらいに・・・」って言ってたから。
Yahoo!ムービーのユーザーレビューを見ると、実にバラバラな評価で面白い。 ベネチアの方での下馬評が滅法良いのに比べ、既に観客として観た人たちの意見のバラバラさは素直で、それぞれの意見に納得がいった。
あぁ、映画祭の結果を待つっきゃない。 そして観るっきゃない!! (9/6公開)
あと、阿修羅のごとく/森田芳光監督が、モントリオール世界映画祭で受けが良かったらしく、これも嬉しい。 これもコンペ部門というものに出品されているらしく、結果はまだらしい。 それにしてもいつの間に「阿修羅のごとく」って完成してたの? 日本公開いつ?
※森田芳光監督作品:「の・ようなもの」「家族ゲーム」「それから」「失楽園」「黒い家」「模倣犯」etc…
―END―
ついしん 如何にして僕の期待値の高さを、映画館で観る「座頭市」は上回ってくれるのだろうか?
「ダーZの名言」 3日前でも母の日っしょ!
これは、母の日の3日前に僕が、友人へ言ったものである。 その日、その友人と母の日のささやかなプレゼントを某大型スーパーで探していた。 以下が、スーパー内での会話である。
ダー:今日買ったら、面倒だからもう今日あげちゃおうかな 友人:母の日じゃないじゃん ダー:そうだけどさ・・・ 友人:・・・ ダー:3日前でも母の日っしょ! 友人:(笑) ダー:何? 友人:いや、<3日前でも母の日っしょ!>ってのは凄い ダー:そう?確かに・・・(笑) 友人:○○(本名)が『知ってるつもり?!』に紹介されたら<澤田氏が残した名言にこんなものがあります>って言われて<3日前でも母の日っしょ!>って出るよ ダー:(笑)
―END―
ついしん さてはて、上のは名言なのでしょうか?
>>> 「八ヶ岳高原ホテルの社長の名言」 あのホテルはお前が必要なんだよ
これは『高原へいらっしゃい』の最終話よりのものである。
八ヶ岳高原ホテルが他社に売却され、今まで働いてきて、思い出のつまったそのホテルから従業員らと共に去ることを決めた、支配人であった主人公。 実は、主人公と料理長だけはそのホテルに残ることが許されたのだが、主人公は、他の従業員も残れないのなら、私は辞めますと言った。 他の従業員も残るという意見は許されなかった。 そうしてそこで働いていた皆は、去った。
しかし、一年後、再び主人公や従業員らは戻ってきた。 他社に経営権が譲られてから、そのホテルは名を変えたが、売り上げが半減し、結局は潰れたのである。 そして社長が買い戻し、再び八ヶ岳高原ホテルは再開されたのである。 そこでこの物語は終わった。
社長は、このホテルにはやはり、主人公が必要であったのだと深く思い、他社に譲ったことは間違いだったと言う。 そして上の名言である。 ソレを聞いた時、やっと、社長は<ホテルに一番大切なのは人であるということ>に気がついたのか・・・と思うと、安心と同時に開放感を覚えた。 常に<ホテルに一番・・・>ということを意識してきた主人公の願いが叶った瞬間でもある。 また、いい映画やドラマでは、決まってエンディングに開放感が味わえるのだと再認識した。
>>> 「キャスター・トロイの名言」 One of yours,Sean?
これは、映画『フェイス/オフ』での、雇われテロリスト演じるニコラス・ケイジのセリフであり、ショーンと言う名の刑事に向かって言われたものである。 そのテロリストは、ショーンの部下である女刑事を人質にとり、見せしめに逃走中のジェット機から突き落とす直前にこれを言ったのだが、部下のことを<One of yours>と表現するなんて、洒落てるな〜と、思った。
ちなみに日本語字幕による訳は、<お前の部下だろ?>である。
>>> 「宝生舞の名言」 私はゴミ箱になりたい (1998年初版発行『私はゴミ箱になりたい/宝生舞』主婦と生活社刊より)
これは、宝生女史のフォトエッセイ集のタイトルでもあり、その中の一編のエッセイのタイトルでもある。
どうだろう、まるごとそのエッセイをココに載せるのはダメなのだろうか? エッセイ集に載っているエッセイと、ココに載せられたエッセイは、同じ物と言えるのだろうか? まず、字体が違うと言える。 そしてエッセイ集では、2ページに渡って載っているが、ココでなら1ページに収められるので、その点でも別物だと言える。 と理屈を捏ねてもしょうがない。 訴えられても困るので、やはり載せないことにする。
そのエッセイの中には、こんな一文がある。
<そして、マイは相談者と同じ気持ちになって 一緒に強くなっていきたいな>
つまり、聞き上手な人になって、聞いたことを自分にも生かせるようにしていきたいのだと思う。 よく考えると、ズルいゴミ箱である。 女史自身も白状している。
<人の悩みとかグチから学んで、 マイは少しの成長につながらせたい。 まるで同じ経験を乗り越えたかのように。 そうやって、少しずるい・・・でも役に立つゴミ箱になりたいな。>
そう考えると、女優という仕事もゴミ箱のようだと思える。 様々な役を演じることは、それだけその人物の人生の断片を経験しているとも言える。 女史は、そんなゴミ箱のような女優を目指しているのかもしれない。 だが、ある雑誌のインタビューでこんなことを言っている。
<応援してくれる人には悪いけど、自分の仕事があまり好きになれない>
また、そのエッセイの冒頭ではこう表現している。
<ゴミ箱になってあげたい。 パパ、ママ、お姉ちゃん、恋人、友達の。>
他にも、違う項目のエッセイではこんなことも。
<・・・『あした』という映画を作るため、2ヶ月間、ひとりでホテル住まいをした。それまで『いつかこの業界を抜け出してやる!!』と思っていた私が、明らかにここで変わった。>
このことをトータルして考えると、女史はたまたま女優という仕事をしているだけで、時が来たらあっさりと辞めるのではないか?と僕は踏んでいる。 ファンなら覚悟しておいた方がいいだろう。
「蚊取り線香の煙」 蚊取り線香の煙の匂いが好きである。 ソレが焚いてある部屋に入った瞬間の心地よさは格別である。
ある時、その煙をしばらく見ていると、まっすぐと同じ形を保ったままソレが昇っていた。 動いているのに止まっているように見えたのである。
人の形も、ほぼ一定の形に保ったままのように見える。(が、常に髪の毛や爪は伸びているのだろうし、子供は身長が伸びている。それに大人でも食べると体重は増える。でもソレは、長いスパンで見た場合の変化であり、この際は問題にしない)
たとえば、画家の前でポーズをとっている女性がいるとする。 彼女はきっと、じっとしていることが求められていて、実際にそうしているだろう。 けれど本当は、さっき言った真っ直ぐと立ち昇る蚊取り線香のように、動いていないように見えて、実は常に変化に富んでいるのかもしれない。 そう思うと、何だか面白い。
「柔らかい」 柔らかさについて考えていたら、ティッシュペーパーは本当に柔らかいのだろうか?という疑問に行き着いた。 確かにクシャクシャと丸められるから、柔らかいのかもしれない。 だがその柔らかさというのは、ソレが机の上に広げられている場合における、横方向に限って感じられるものではないだろうか? 硬くて床と平行で、凹凸のない机の上に広げられたソレを、極端に言えば真上から指で押してみても、ティッシュペーパーに柔らかさを感じることはできない。 だから、トータル的に言えば、ティッシュの柔らかさは、そう柔らかくないのである。
「出し惜しみ」 出し惜しみは、価値の高騰に繋がる。 つまり、飽きられないようにするための工作である。 ただ、たまにしか舞台のオファーがない俳優は、才能を出し惜しみしているなどとは、少なくとも思われない。 が、その俳優が仕事嫌いの資産家で、わざとオファーがたまにしかこないように工作していたら凄い。
―END―
| 2003年09月03日(水) |
Take Off Now |
「怖いこと、もの」 親父狩り やけど 集団 流行 南国 時間 交通事故 女 主観性 ・・・ おばけや超常現象なんて、全然怖くないっちゅーの。 上のに比べれば。
「レナードの朝」 そういう映画がある。 簡単に言えば、難病(確か脳の障害系)を患った患者が、ある薬で奇跡的に回復するが、それもつかの間で、次第にその薬の効き目がなくなっていき、結局元に戻ってしまうという話である。 この映画は、素直に受け取るなら、現実は厳しいということを言いたいのだろうか。 ひねくれて考えれば、難病が治って社会生活に復帰したって、何にもいいことなんてないよ、ということを言っているのだろうか。 何だか絶望感だけが余韻として残る映画であった、という記憶がある。 これがドキュメンタリーでなく、役者に芝居をさせたものにしたことの必要性があまり感じられない。 ただ、ドキュメンタリーにしたくても、できなかった、という可能性は大だと思われる。 カメラが病院内に入ることが許されないことが予想されるからだ。 きっと、そういうことだろう。 この映画はドキュメンタリーではないにしろ、ドキュメンタリーのようなものとして捉えるべき映画だと今では思う。
「提出物」 ふと、提出物のことを思った。 中学生や高校生の時、提出物を期限までに出さない人間であった、と自らのことを思い出した。 今でもやや、そうである。
提出物が期限までに出せない、という性格を、意識して直すべきなのか? 意識することが苦ならば、そうしなくてもいいのか? もちろん仕事をしていく上では、それを意識することは最低限のことだろう。 ただ、それ以外の時間を過ごす中でまで、それを意識することが苦痛なら、無理に直そうとするのはどうなのだろう? それも一つの個性である、ということにするのは許されないことなのだろうか?
自らの癖、性格で、生活していく上で支障をきたす程のものなら、自然と直そうとするだろう。 ただ、他人を意識し過ぎて直そうとまではしたくない。
アイデンティティーとは、どこまでがそれなのか、分かりづらい。 それが形のないもの・・・つまり流動的なものと分かっていていも、自分なりに拘ろうとする。 いや、拘っているのではなく、ただ習慣でそうしているだけなのかもしれない。
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「決定!!興味のある女性芸能人ベスト5&次点」 1位:宝生舞 2位:乾貴美子 3位:真鍋かをり 4位:乙葉 5位:小池栄子 以下次点 ・緒川たまき ・宮崎あおい ・はな ・鈴木杏 ・麻生久美子 ・中谷美紀 ・ベッキー ・上原多香子
「8/31のこと」 某地下鉄駅の近くに、イエジェネが来るという情報を得た友達がいた。 彼はイエジェネのファンで、僕は誘われて彼女たちのミニライブを観に行った。
いつも思うが、普段テレビで観る芸能人を至近距離で見ると、実像になめらかな印象を持つ。 イエジェネも例外ではなかった。 ドットが目立たなくなったことや、奥行きが増したことが原因で、つまり、自分が受ける視覚的情報が、実像により近づいたことがなめらかさを生んだのだろう。
実際に見たことはないが、以前、テレビである俳優の等身大の蝋人形を見た。 本人と比べると(テレビの中で)、蝋人形の方がなめらかな印象であった。 ということは、蝋人形というのは、実像より更にリアルな存在を求めて創られるものなのだろうか? 確かに、実際の人間よりも、妙に生々しく思える瞬間を、蝋人形は体現している気がする。 いつか、タッソー蝋人形館に行ってみたいと思う。
「9/1のこと」 建築士志望の友達と、名駅付近へ出かけた。 建築士なんて、憧れる職業だ。 エンジニアと芸術家の間のような職業で、魅惑的だ。 実際はつまらない仕事もあるのかもしれないが、それでも奥が深そうな、多面的な職業だと思う。 時代のニーズを追うだけでなく、時代を引っ張っていける感覚もありそうだ。 さっきも言ったが、エンジニアと芸術家の間、というのが実に凄いことだと思う。 他には、CMプランナーの仕事もそうかもしれない。 その両方のバランスをとることは難しいかもしれないが、それがそのまま、建築士という職業の面白さになっているような気がする。
彼にとって、建築に関することは、それ自体が一つの趣味であるらしい。 趣味を仕事にするメリットには、それに必要な資金がある程度確保されること、成功すれば名前が世に知れ渡ることなどがあると思う。 どんな仕事にも、それなりに面白さは見つけられるかもしれない。 ただ、仕事の内容が趣味である場合、それはラッキーなことかもしれない。 仕事というのは依頼主からの制約が付き物だが、それがあってこそ、アイディアが光る場合が多い。 制約がある方が、それを掻い潜ろうとし、必然的に工夫するからである。
ただ、趣味を仕事にした場合、それ以外にももう一つくらいは仕事以外の趣味があるといいと思う。 つまり、誰からの制約も受けない趣味である。 それに一つ制約があるとしたら、それは自分自身以外に他ならない。 実は自分自身を納得させることが一番難しく、それでいて快感である。 それは、まるで自分自身という制約から逃れるようにして行われるものと言える。 人は一体、何になりたいというのだろうか? 自分自身にさえなりたくない、という気もする。 簡単に言えば、人は常に未知なるものに心引かれ易い存在なのかもしれない。
一方、僕は、なんとか自分という存在を一つの形に保たせたいという欲求もある。 それが一瞬のことでもいい。 一瞬でもいいから自分の姿が投影されたものを形成したいと思う。 次の瞬間、それが崩れていってもいいから。 崩れていくその様も、そういう形だとも言えるが。 人の存在は、形になったと思ったら気に入らなくてこね直し、その末にやっと一つの形が出来上がる陶芸作品のようなものだ。 僕の中にも、既にいくつかの作品があるのかもしれない。
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| 2003年09月01日(月) |
ソーセージ、1日何本までいいの? |
「優しい魔女になりましょう」 この世で魔法が使えるものは、使えるもの同士集まっている。 その集団の中でも、<優しい魔女>達と<悪い魔女>達というグループに分かれている。 魔女の世界では、<悪い魔女>の方が主流である。
魔女の集団は、魔女でない集団・・・つまり僕ら一般人の集団と同じ星で暮らしている。 同じ星で暮らす以上、お互い共存という形を取らなければいけない。 一般人の集団は、ある程度魔女集団を恐れている。 何か魔法で、自分達(一般人集団)いつの日か総攻撃を仕掛けてくるのでは?と思う一般人も多い。 だが一方、魔女集団らは、一般人が自分達に近づかないこともあって、むしろ寂しく思っているくらいだ。 中には異文化コミュニケーションをしたいのに・・・とボヤく魔女もいる。 そんなわけで、魔女集団らは一般人と戦う必要性を感じていないし、怖れてもいない。 実は魔女らは、確かに魔術なるものを使えるのだが、本人らはあまり魔術を使いたがらない。 物凄く疲れるからだ。 よって疲れると辛いので、魔術は滅多に使わないのである。 移動ももっぱら一般人と同じで車が主流である。
ところで、<悪い魔女>と<優しい魔女>の違いは何か? 簡単に言えば、<悪い魔女>達は、一般人たちに自分達の存在を悪く見せたがる人種なのである。 というわけで、<優しい魔女>らは、その逆である。 では何故、<悪い・・・>らは悪く見せたいのか? 偏(ひとえ)に自分達の領域が荒らされたくないからである。 自分達の気づいてきた文化がに、違う文化が混ざって欲しくないからである。 単純に自分達が住んでいる土地が、一般人らの観光名所になるのを嫌がる人も多いという。 どうやら<悪い・・・>らは、内向的で閉鎖的、物静かな種族であると思われる。 つまり、<優しい・・・>らはその逆である。 ただ、<優しい・・・>の中には、確かに<悪い・・・>らが言うことも一理あり、自分達の文化は守っていかなければいけない、という人たちもいて、複雑である。 その反対で、<悪い・・・>の中にも、そろそろ自分達は、一般人に対して悪ぶるのも限界なのでは?と不安に思う人たちもいるらしい。 何故悪ぶるのが限界なのか? どうやら、一般人らの間で、最近、どうやら魔女らは思っているよりも悪い人種じゃないかもしれない、という噂が立っているらしく、いずれ悪ぶっているのがバレるのではないか?と推測されるからである。
一般人たちにとって、魔女とはどんな存在なのか? 一般人の多くは、魔女を怖れているが、一方であまり普段から意識していないのも事実らしい。 一体魔女集団とはどういう集団なのか? 故意に創られた手段ではないのか? 魔女側の視点から語られる、魔女と一般人との物語。 タイトルは『優しい魔女になりましょう』。 略して『優魔女』。 そんな物語の構想が、ダーZの頭の中にあるとかないとか・・・
「願い」 願いが叶うかどうかなんて そんなことに興味ある人間がこの世にいるのかい? いないことを願う
「秋嫌い始まりの思考」 秋が嫌いである。 秋に生まれたくせに。 あと、冬に生まれた人に天才が多いらしく、11月生まれの僕は『ち、惜しいな』と思う。
秋の気候ってのは、夏、クーラーが効いている部屋にずっといるようなものである。 ずっと涼しい。 この、絶え間なく涼しい感じが苦手である。 たまにテレビで見る分にはいいが、実際会ってみるときっといい気分のしない、気取った美人女優のような季節である。(宝生舞は違うと思う。そう思えるのが魅力の一つであるのだ)
そんな季節がもうやって来る。 いっそ、早く冬になってほしい。 そうすれば、朝起きてすぐにストーブにかじりつくという快感が味わえる。 ただ、ずっとこの暖かさの中に包み込まれていたいといつも思う。 つまり、冬は外に出るのが異常に億劫だ。 だから、冬休みというのは最高だ。 そういった意味では、大人になりたくない。(冬休みを手放したくない、という意で)
ちなみに春も嫌いだ。 花粉の影響も多少ある。 頭がボーっとするので、考え事がまとまらない季節だ。 しかし、秋ほど嫌ではない。 ボーっとしている分、神経が敏感でない。 つまり、他の季節時よりバカでいられるから多少楽だと思える時もある。 それでも、ボーっとしていることが続くと、そのことに飽きてしまい、次第に鈍感な自分が不安に思えてき、イライラすることもある。
今は夏。 夏は結構都合がいい。 外は暑いが、夏は涼しい。 このメリハリがいい。 それに、何かと社交的であることが強要されるこの世の中、冬よりも夏は行動するのに都合がいい。(精神的に)
基本的に好きな季節はない。 ただ、どの季節にもメリットとデメリットがある。 それを把握していれば、いいと思う。 というか、それを把握すること以外に、季節への対策はない。 春はできるだけ花粉から身を守り、夏は心を鎮める。 秋は厚着をし、冬は更に防寒対策を徹底する。 四季はあらゆる手段で人をてこずらせ、季節の移り変わる瞬間にだけ、前の季節から逃れられるという夢を見せる。 人は地球の寄生虫だというが、地球も人には優しくない。 そして今後は特に、優しくないことを知っておかなければ、大変なことになるだろう。
地球には、人やその他の生命体に、自分の所に住んで欲しいなんていう意志はない。 人は、できれば地球に住んでいたいという意志を持つ。 まるで人は地、球に片思いをしているようだが(というか、今のところ他に恋をするような相手がいない)、どうすれば両思いの関係に発展できるのだろうか?(少なくとも、多くの人にとっては両思いになることが発展的なことだと思えるだろう) 意志のない相手なのだから、やはり人は人なりに、さも地球が人間を愛してくれているのだと錯覚できるような状況になればいいのだろう。 そう思える時がやってくるのだろうか? そんな状況になることを今は願うのみだ。
―END―
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