日記でもなく、手紙でもなく
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今はそうでもないが、以前日本酒だけは、ほんとに飲めなかった。香りがだめだったように思う。 ある時点で、体質が変わったらしく、それ以降は少し飲めるようになった。 それでも、比較的さらっとした感じのもののほうが、自分には合ってそうな気がしている。
アミューズ/2.28号で、特集が、最新地酒情報2001。
吟醸、大吟醸といわれた酒が、次々と登場してきた頃だと、その味の方向としては、淡麗辛口系が多かったのではないか。 ところが、8年ほど前に芳醇旨口系の酒としてデビューし、一気に人気が出たのが「十四代」という酒(細かくいえば、その中に、使っている米の違いや、大吟醸/純米吟醸の違いなどによって、かなりいろいろな種類)があるらしい。
うむむ、飲んだことがない、芳醇旨口系というのは、いったいどんなものだろうか.... 既に幻の酒になっているらしい。
この特集、鈴伝の地酒ベスト100つき。カメハメハではなく、カメカメハという酒が滋賀にあるのを知る(正しい銘柄名「亀亀覇」)。
2001年02月23日(金) |
ダイヤモンドとデ・ビアス社 |
ダイヤモンドというのは、美の究極と捉える人もいる代わりに、美の対局にあるものと考えている人もいる。 ダイヤモンドをつければ美しくなれる、なった気がすると考える人もいるかと思えば、美しい人なら、ダイヤでもガラス玉でも、さほど変わらないと考える人もいる。
ただ、ダイヤというのは、鉱物学的にいえば、一番硬度の高い石であると同時に、経済学的には(昔はその希少性から、20世紀の大恐慌の後は、そのシンジケートの徹底した管理により)それが時代や地域を越えて「価値ある石」=とりわけ換金しやすい宝石として位置づけられてきたのも事実。 「金」そのものは貨幣とほぼ等価だが、小さい純金を持っていても、小銭にしかならない。
ダイヤの違いは、まさにここにある。直径1センチのダイヤでも、かなりの値段がついている。さらに大きくなれば希少性も上がり、価格はぐんと跳ね上がる。 カッティングなどによって、更に価値が高まったりもするので、究極の宝石というような意味すら持ち得てきた。
歴史上、流浪の民であったユダヤ人が宝石を大切にするのは、持ち運びやすい形に資産を変えておくという知恵がそこにあったという。いまでも、もしNYのダイヤモンド・ストリートを歩けば、恐らく山高帽の昔と変わらぬユダヤの人々に数多く出会うことになる。 実は、そのような瞬間というのは、まさにその歴史と出会っていることになるのだが。
彼らの生活は恐ろしく質素ではあるが、日本人から見ると、日本人の生活から一番遠いダイヤを扱っている、という意味では、まさに象徴的な感じもひしひしとしてくる。
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ところで、過去においては、デ・ビアスという会社が、産出されたダイヤモンドを全部買いとり、その流通量をコントロールすることで、価格維持を行なってきた(行なえていた)。ところが、オーストラリアやカナダのダイヤ鉱山会社は、デ・ビアスの流通ルートとは別の販売網を確立したり、ロシアから裏ルートでダイヤが市場に出たりして、無競争から価格競争の状態に入ってきつつある。 そんな中、デ・ビアス社は、昨年の夏に、価格を維持するのは、「もう、やーめた」、と発表する。 これは、今までのダイヤ市場のことを知ってる人からすると、「大変」な事態だ。
象徴としては、ベルリンの壁の崩壊に近い感覚。 価格維持政策というのは、短期であれば可能だが、歴史的には直近の20世紀では、デ・ビアスの最大70年程度が限界だ、という経営学的事例として記憶されることになる。
しかし−−。ここへきて急に、デ・ビアス社は上場を廃止すると宣言。この背景には、上場していると、株主から、不良在庫抱えてるから、利益があがらないし、利益あがらないと配当も出なくなるし、そんなことやってるような経営陣は変えるべきじゃ〜、とか言われることになる。 現在の経営陣としては、これが辛い。行くも戻るも地獄とはこのこと。 なんとか現経営陣が頑張ろうとしても、市場の価格低下圧力は強まってくる。価格低下が進めば、不良在庫は一層深刻になる。
経営陣が変わる、たとえばどこかの銀行の人間が入ってきたとすると、不良在庫はできるだけカットしようと、在庫ダイヤは市場にばらまかれてしまうだろう。 こうなると、一気に価格が急落して赤字へ。 上場のままでは、身動きが取れなくなって来て、この際、上場を廃止してしまえば、内輪で経営ができ、過剰在庫が増えても、文句を言う人はいない、というような決断をしたものと思われる。しかし、時代には逆行してるようなパターンであることは間違いない。
まあ、減ったといえどシェアは6割を越す。(質の良いダイヤは限られるので)まだまだ価格に影響を及ぼすことができるポジションにはいられることにもなる。株主からあれこれ言われずに済めば、当然心労も減る、長生きもできる、と読んだかどうかは、私は知らない。 後は、市場に出てる株式を、デ・ビアスの会長であるオッペンハイマーさんが、昨年1年間の平均株価の1.7倍くらいの価格で、株式を公開買い付けするらしい。但し、このへんも、大規模な株の持ち合いをしている企業があること、その企業というのは、やはりオッペンハイマー家が創業者である(!)、というとんでもない関係があるので、なかなか怪しくも思われる。
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結婚○○周年記念のダイヤモンド、というTVのCMを覚えている人もいるかと思うが、これによって、日本のダイヤ市場も順調に拡大していたといういきさつもある。 今後ダイヤの相場が下がるという見方が増えているという話も出ているものの、とんでもない下がり方は、あまりしないようにも思われる。(ダイエーが不良在庫を、その1割の値段で売るという記事が今日出てたものの、ダイヤの場合、恐らくそんなふうになることはなさそう。)
安くなったとしてもダイヤはダイヤなのだろう、とも。腐っても鯛、というのと似ている?
2001年02月14日(水) |
Valentine Day |
朝は、少し曇っていて、JR駅前まできたら、小雪がちらちらと。
ヴァレンタイン・デイ。会社で少し高そうなチョコをいただく。ネットの友人からは、手作りeカードをありがたくいただく。
午後友人から電話が一本。 「チョコレートもらった?」 「うん、一個」というと、 「何ももらってないなら、あげようかと思ったの」と、そのおばさんは言う。
ええい、相変わらずひとこと多いやつめ。 「でも、電話わざわざありがとう。嬉しい」と言ってから、切る。
思い残し症候群というのがあって、小さい子どもの時、親から愛情を注いでもらえなかった時に、成長過程や大人になった今も、過食症とか拒食症とか、集団不適応とか、内に完全にこもってしまう、あるいは、もうどうにでもなれという感じで、他人に対してものすごく攻撃的になってしまう、などということが出てくるという。
香川大学の(たぶん臨床心理の)先生が、その思い残し症候群を治療するというのをTVのニュースでやっていた。
親にやって欲しかったことを書いてもらい、その先生が(場合によりその奥さんが)その人の親代わりに、それをしてあげるという治療。大きい大人を子どもみたいに扱うので、先生もなかなか大変な作業。ミルクを哺乳壜で飲ませてもらったり、おむつを替えてもらう、あるいはご飯を食べさせてもらう、おんぶしてもらう、一緒に遊んでもらう−−等。
26歳の女性も出てきたけど、先生に親代わりでそれらをやってもらう。親にしてもらうことを、そこで再トレースして、生まれ変わる。 子どもの時親に甘えられず、それが尾をひきずっていて、そんなふうにしてもらうと、まさに子どもに戻っているようで、本人はとても気持ち良い表情の映像が映し出されていた。
その治療を受けた人が、今自分の子どもと遊びながら、「もし治療を受けてないと、結婚して子ども産んで、今こうして自分の子どもと遊んでいるというのは、想像できない」という話は、説得力があった。 だから今、子どもにそんなことをしてあげられる、子どもにそうしてあげたいと思う自分がいる、みたいなこと。
親の愛情というのは、子どもの心を育てるにも、ものすごく大きな影響を与えている、というのがそれを見てるだけでも、ほんとうに良くわかる。 TVカメラが入っているのだが、親にしてもらいたかったことをトレースしてると、本人はもうその気持ち良さのほうが上回ってしまって、カメラなんかもう全く関係ない感じで振る舞っている。
もちろん、こういう治療だけで済む場合は限られるかもしれないけど、心の問題って実は何だろうか、みたいなことを、また少し考えたりも。
興味深い内容の多い「地球に好奇心」(NHK-BS)再放送は、中国京劇の(ひょっとしたら最後の)女形をやってる人の話。今回、とりわけ興味深く見ることができました。
京劇の女形というと梅蘭芳(メイ・ランファン)の名前は、私でも以前聞いたことのある人ですが、その息子さん(名前があまり見かけない字だったので失念)が、梅派の女形を継いでいます。 しかし、なかなかその後継者が出てこないし、なりたいと考える若手もいないという状況、あるいは京劇そのものの人気も、新しい娯楽におされ、かなり苦しくなっている状況と併せながら、梅派の演技を若い世代に伝えたいと考えていて、その人の現在の日常や、今も舞台に立つ姿などが、本当によく描かれていていました。
後継者のほうは、次の2年で出てこなければ、また次の2年と、根気よく待つということです。
文化大革命以降、女性の役は女性がやるという動きが一般化していく中で、男が女性を演じることで、女性らしさをどう表現するか、その知識や技能を、実は若手の<女性>の役者に伝えていっているところなども、後半部分に出てきていました。 女性の役者にもそれがわかってもらえれば、また男性の女形が、そこから継承できるかもしれない、ということです。
梅蘭芳は、仏像の手の形から、手や指の形と動きで心の動きを表現し、完成させていて、その記録が記念館にきちんと残されているのを見ると、やはり少しもったいないように思ったりもしました。 日本の歌舞伎の世界は、これを見ると、まだずっと幸せなのかもしれません。
演技の世界では、確かに「女らしさ」みたいなものを、客観的に捉え直してみないと、具体的な動きとして表現できない、というのはよくわかる理屈です。ただ、それと同時にもう一つ私などが思うのは、その上での「妖しい美」の世界というのもありそうな感じがすることです。 例えば楊貴妃なんかだと、女性がそれを演じるのであれば、確かに「美人」の楊貴妃は、とことんまで出てくるかもしれませんが、「妖しいまでの美しさ」をどこまで出せるか、それを男性が演じることで、観客は息をのんでそれを見る、という構図が成立しやすいところもありそうです。
宝塚のトップスターというのは、男役の場合が圧倒的に多いというのも、考えてみるとわからなくもありません。美男子の主人公を女性が演じてるわけですけど、女性から見た、そうあって欲しい男のイメージが、そこに具現化されて見えてくる−−みたいなことでしょうか(違うか?)。 宝塚のこのシステムも、なかなかへたりませんし、一時期なんかより、それを支える層は拡大しているようにも思えたりします。
梅氏が、やはりすばらしい役者がいないと、京劇は廃れる、ということを言っていました。 今の中国に、やはり中国の玉三郎が必要なんだろうなぁ、そんなふうに私には思われた番組でもありました。
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