藤‘黒竜’
椿 ‘梵天白’ 金魚葉の変異がさらにすすんで、葉の主脈が先端で下方に分離し、その先に金魚葉ができるという珍種だそうです。
覚書
自分自身への審問 辺見 庸 著 狂想モノローグ――「かさねてきた徒労のかずをかぞえるな」 より
ぼくは湿土の闇のなかで顫動したり絡みついたりする自他の地下茎の動きを感じるのは好きですが、そうした隠微を思慮の外に排除するあらゆる種類の政治を厭わしく思い、憎みさえしています。市民社会はいうにおよばず、権力にも自称革命組織にも最後には愛人にも敵視されるような単独のテロリストのほうが、政治まみれの者より人としてまだましと考えたりします。誰にも指嗾されず指示もされない、何にも属さない単独者。全世界 vs 個。
椿 ‘月の輪’ 後ろはサクラソウ
黒松から垂れ下がる藤の房です。 蔓が電柱に絡んだり道路に伸びて歩行者のジャマになったりで、マメな管理が必要でしたが、苦労した甲斐があります。
ちょっと自慢できるわねぇ ←ターシャの声で
Dendrobium kingianum
セトウチギボウシ 病気でしょうか、それとも芽変りでしょうか。2系統の斑が混じっています。
覚書
自分自身への審問 辺見 庸 著 「鬼畜」対「良民」だったのか―――サリン現場十年目の回顧 より
法廷でふと想い出した一節がある。「暗く陰惨な人間の歴史をふり返ってみると、反逆の名において犯されたよりもさらに多くの恐ろしい犯罪が服従の名において犯されていることがわかるであろう」。スタンレー・ミルグラムが『服従の心理 アイヒマン実験』(岸田秀訳)で引用したC・P・スノーの言葉である。含意はひとりファシズムのありようにとどまらず、あまりにも深く、大きい。
チューリップ ‘アラジン’
覚書 (自分自身への審問 辺見 庸 著より)
オンライン・ネットワークで資金を次から次に移動させて収益をあげる方法は情報技術革命の産物でもありますが、旧型の資本家はこれについていけないということから若い起業家らのマネーゲームに眉を顰めるのでしょう。マネーゲームを「虚」、実体経済を「実」とすれば、虚実の闘いがはじまっているわけですが、資本の運動のアナーキーな本質からして、ぼくは「虚」の勢いが衰えるということはないと思います。ただし、マネーゲームの花園には悪の華しか咲かない。もっといえば、あらゆる市場には芥子のような花しか咲かないということです。旧型の資本家や国家権力はマネーゲームのルール違反を摘発すれば市場のモラルを維持できると考えているかもしれませんが、市場にはもともと言葉の本質的な意味でのモラルなんかあったためしがない。たとえば、証券取引法違反を摘発すれば市場が健全化すると本気で考えるとしたら、賭場の存在そのものを問わずに丁半博打や盆ふりのやりかたを云々するようなものであり、根源的な議論とはいえません。実際、マネーの取り引きがモノの動きの百倍もあること自体、世界規模の巨大な犯罪みたいなものです。これを停止することは高度資本主義の自殺を意味しますから断じてありえない。代わりに、一部のルール違反者を摘発したりして市場にモラルが貫徹しているような体裁をとる。資本主義の延命のために。しかし、ここにはいずれにせよ悪の華しか咲きようがありません。虚の花の狂い咲き。
藤が満開になりました。
牡丹 ‘白王獅子’
サガエギボウシに変わった葉を見つけました(右奥)。 芽変りのようですが、みるからに不安定な斑です。
覚書 (自分自身への審問 辺見 庸 著より)
IT成金のなかには、この世のなかにお金で買えないものはないといい放った青年もいたようですが、たしかにこれは半面の真理でしょう。ただし、彼らには自分の精神のあらかたが資本に絡めとられているという、本質的貧しさの自覚がない。内面の貧寒とした風景は、しかし、いまの社会のうそ寒さと釣り合うようです。市場とは富だけでなく同時に途方もない貧困とこれにともなう悲劇を産みだす無慈悲な場であるという事実を深く内面化しないかぎり、お金まみれになるということの「人間であるがゆえの恥辱」に気づくこともないのでしょう。「人類の貧困を生産する作業に加担して、骨の髄まで腐っていないような民主主義国家は存在しない」とフランスのある哲学者は指摘しましたが、留意すべきはわざわざ「民主主義国家」と述べている点です。民主主義と資本の運動は必ずしも対立するものではなく、前者が後者の運動を円滑にしている面もあるということではないでしょうか。
椿 ‘羽衣’ 普通の羽衣よりも色の濃い花(特に外側の花弁)が咲きました
覚書 (自分自身への審問 辺見 庸 著より)
こうした今日的世界では、前述の笑いとチープなシニシズムこそが悪い種子のようにあちらこちらに伝播していきます。含み笑い、冷笑、譏笑、嗤笑、憫笑……。くっくっくっ。ふっふっふっ……。そう笑っている者は人間ですが、腹話術師のように笑わせているのは人間ではなく、資本ではないかとぼくは思います。人間がいまほど資本の幻想に操られている時代はないし、資本の魔手から逃れる出口あるいはそのヒントは現在の視圏のどこにも見当たりません。先鋭なエコロジストたちも、エコロジーをもほぼ完全に商品化しえた資本の無限大の胃袋を前にしては顔色なしです。前世紀の後半にフーコーら先鋭な思想家、哲学者たちは「人間」という概念は時代遅れだとか「内面の時代」は終ったとかいいだしましたが、ひょっとしたら現在を予感していたのかもしれません。たしかに人類史上これほど内面の貧弱な時代はかつてなかったし、資本万能の時代もありませんでした。ハイデガーが言った「神性の輝き」を放っているのはいまやキャピタル(資本)と市場だけではないですか。人間がその意思の力で資本の暴走を阻止しようとする運動も逆に資本に蚕食されて、いまや瀕死の状態です。これが破局の源であり、世界規模の失意のわけなのです。
覚書 (自分自身への審問 辺見 庸 著より)
狂想モノローグ――「かさねてきた徒労のかずをかぞえるな」
体調を悪くするほど腹を立てていたのは、しかし、別のことだったような気がします。それは、一言でいえば、この国独特のどこか安手のシニシズムのような空気でした。あれはいったい何なのでしょう。含み笑い、冷笑、譏笑、嗤笑、憫笑……。くっくっくっ。ふっふっふっ……。この国では、人として当然憤るべきことに真っ向から本気で怒ると、恐らく誰が教えたわけでもなく戦前からつづいている独特のビヘイビアなのでしょうね、必ずどこからかそんな低い声調の笑いが聞こえてきます。何もしない自分を高踏的に見せたいのでしょうか、それとも、何も怒らない絶対多数の群れにいるという安心感からでしょうか、何の意味もない口からの放屁のような笑いなのでしょうか。ぼくはあの笑いが生理的に嫌いで、ときには淡い殺意さえ抱いたものです。 結局、ああした笑い、それによって醸される空気(そこはかとない蹉跌感。かつてぼくが書いた「鵺のようなファシズム」とも関係があるかもしれません)が厭さにデモに行ったりしていたのかもしれません。いい歳をして本当は何もそんなにいきりたつことはなかったともいえます。第一、政治状況についてのべつ口角泡を飛ばし、紋切り型の正義ばかり主張するような輩をぼくは最も苦手としていました。わかりやすい正義と悪の模式のようなものを示して、他者を教導したり諭したり鼓舞したりするのを、仮にそれが大枠でまちがっていないにせよ、どうもどこかいかがわしいことのように感じてしまいますし。反動の政治でも革命の政治でも、政治であるかぎり信用できないのです。ぼくはかつて「人間をひと株の樹木に擬するとき、地下茎のない、幹や枝だけの立像としてしか語らないのが政治や社会制度である。人間身体の根茎が、まつりごとにいっかなまつろわぬものであることを、政治は嫌い、故意に存在を無視する。土台、相容れないのだ。」(「地下茎の反逆」、『眼の探索』所収、朝日新聞社刊、角川文庫)と書いたことがあります。いまでもそう思います。
藤が咲き始め、クマバチが耳障りな羽音をたてています。
牡丹の蕾(白王獅子)
ハナイカダ(雄木)
覚書 (自分自身への審問 辺見 庸 著より)
思想なのか“心ばえ”なのか
あれは彼の思想がそうさせていたのか、それとも持ち前の性格とか、古い言葉で言うなら、“心ばえ”というものがそうさせていたのか、と。脳出血で倒れる前には、心ばえが一系列の思想の契機になり、翻って、思想が心ばえの背骨になる――くらいに理屈っぽく思っていたこともありましたが、いまは、人の心ばえって稀に、請け売りの思想とやらが尻尾巻いて逃げるほど深くて強いものがあると、割合単純に考えるようになりました。人は思想を愛するのではなく、自他の躰や内面を裏切らない心ばえをこそ安んじて愛し、自らの体内にもいつかそれが静かに芽生えてはこないかと待ちつづけるのではないでしょうか。
ツマキチョウ(?)
牡丹
覚書 (自分自身への審問 辺見 庸 著より)
根源の恥辱 爛熟した資本主義のシステムはそこに生きる者に人間的恥辱をそれとして感じさせないか、あるいはちょっと感じたふりをさせるだけの「擬似感覚細胞」をかぎりなく増殖させていくとぼくは見ています。これは"恥知らず細胞"と呼んでもいいかもしれません。この前、世界的に有数の企業のトップが、いま必要なのは誠実や勤勉ということではなく、眼に見える業務成果なのだ、という意味のことを何憚らず語っていました。それをテレビで見ながら、ぼくは「人間の魂の奥深くまで、善と悪は入れ替わり、ひそかな妥協を交わす」というボードリヤールの言葉を想い出しましたが、求められているのは人の一般的徳目ではなく経済成果のみだということは、先人たちの悲観的な予言どおりなのかもしれません。
去年の夏にチューリップを随分減らしたおかげで、地植えの球根(放置組)にちゃんと目がいくようになりました。 自立して咲いている風情は見ていて本当に気持ちが良いです。 これからも全体的に鉢植えを減らす方向でいこうとおもいます。
ローメンテナンスガーデンは、美しさを犠牲にしてなりたつものと思われがちですが、自然の力をフルに活用するため人間の想像を超えた美的効果をしばしば放ちます。 それは園芸家が自然から「芸」を享受する瞬間でもあります。
チューリップ・バーケリー ‘ライラックワンダー’
桃花キランソウ(Yojiさんより)
モチノキの花(雄花)
シャガ 淡青色の花と常緑の艶やかな葉は、日の当る場所でその美しさを発揮することはありません。 日蔭を清々しい空間に変えます。
本日の収穫(蒔いてから6ヵ月後のはつか大根)
サヤエンドウの花
実生で増やしたギボウシです。
ふつうの個体は見向きもされないことが多いですが、斑入り品種を庭に繁茂させるとかえって奇妙に目立ってしまい、煩いことが殆どです。 希少種、変異個体ばかりを集めて鉢で維持管理することもけっこうですが、園芸家の基本はその文字が表すように「庭園」をつくることにあります。
青春18切符の旅(日帰り)
本八幡 ― 西船橋 ― 西国分寺 ― 高尾 ― 石和温泉
モモが満開でした
クサノオウ
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ゲイソリザ Geissorhiza inaequalis(?) プリムラ・ポリアンサ と。
椿 ‘羽衣’ 江戸時代からずっと人気の高い品種だそうです。
ムサシアブミ
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2階から東側を写す
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ハナイカダの蕾(雄木)
椿 ‘紺侘助’
近くの川にて
ソメイヨシノ
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