モミジ、ギボウシなど (画像削除)
デラウェア
ブドウスカシクロバの幼虫退治(指で潰す)に日々追われています。 これをしないと、今年の収穫だけでなく、西日の遮断効果、来年の花芽形成にも大きな影響があるので、食事の時間も惜しんでブチュブチュ潰しています。 土地本来の樹種でなく、また品種改良という名の人為的交配によって生まれた種は、やはり人為を好み、手間を必要とします。
7月下旬まで続くのか、、、めんどくさいな。
Laelia purpurata var.aco
Laelia purpurata var.aco (画像削除)
□ 覚書
ニジンスキー 石福恒雄 著 より
彼は狂うことに恐怖を抱いていたようである。いままでの戦いが、無意味な狂気――狂気が無意味であるとしたら――のなかに果ててしまうことはあまりにもみじめだからである。彼は自分に迫りくる狂気をまえにして、 <私の狂気、それは人類に対する私の愛だ> と叫んだ。このことばはたしかにある意味で正しい。なぜなら、彼は狂気のなかでこそ神となり、全人類を愛しはじめたからである。彼は狂気のなかではじめてアウトサイダーであることをやめた。彼の手記の最後は <すべてが歓喜だ> ということばで終っている。
ニジンスキーが舞いおりて来たといわれたこの <別世界>、彼が 永遠に 飛翔して行ったもう一つの <別世界>、この二つは違うものなのであろうか。 宇宙、世界を意味するラテン語の mundus ということばには <深みよりの律動> という意味がこめられている。このことにも示唆されているように、宇宙は生きて躍動する運動そのものなのだ。宇宙は黙してはいても決して静的な、不動のものではない。宇宙は真底から <おどり> なのである。宇宙は <おどる> のである。しかしこの運動は物理的なものではなく、窮極的に分子や原子に還元できるようなものでもない。この運動はまた別なことばでいえば、<愛> ということができるものである。けれどもこの愛は、男女の愛のように、二人の上に閉ざされた愛ではない。人格的なものも、非人格的なものも、すべてを包摂しながら、すべてに開かれている愛である。この愛のなかですべてのものはその存在を保持し、成熟し、自らの存在を展開し、花開き、自己を開示することができるのだ。
こうしてみるとニジンスキーが舞いおりて来たあの <おどり> の世界、彼が永遠に飛翔して行った <愛> の世界は、同じ一つの愛と歓喜の世界だったといえるであろう。バレエとは、宇宙の根源的なおどりというリズムが、つまりあの <根源的な愛> が、美しく奏でられる時間なのである。 ニジンスキーの発狂は、実はこの <根源> への出立であった。
南西側 (画像削除)
東南側 (画像削除)
ギボウシの花
タブノキと、アオスジアゲハの幼虫
□ 横浜ゴム茨城工場植樹祭
□ 横浜ゴム三島工場植樹祭
梅の収穫。(約7kg)
覚書
ニジンスキー 石福恒雄 著 より
初心者にしても虚心坦懐に稽古に励むのと、虚栄と野心から訓練にうちこむのとでは大きなへだたりがある。前者は<その物自然と出す事>を心がけていれば、技術が完成の域に達するとき、彼女のおどりは存在の発露としてのおどりに生れ変る可能性がある。後者に対してはやはり世阿弥の<初心の人思うべし、稽古に位を心掛けんは返々叫ふまじ>の一言で十分である。そればかりか技術に熟達したときでさえ、この<初心>は忘れてはならないものなのである。最も救いがたいばかりか、後進のためにも、観衆のためにも害毒とさえなるのは<おどり屋>である。彼ら(彼女ら)は素晴らしい技術ゆえに、一見それと分らぬ仮面をつけ、見るものをあざむき、いつしかおどりの本質までゆがめてしまう。
南東側 (画像削除)
2階から
Sinningia sp.
スカシユリ
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