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私は彫物を入れている訳ではありませんが、この伝統芸術が大変好きです。
心というモノは一体カラダの何処にあるのでしょう。
私はとても竹が好きです。
「観る」。これは「見る」とは違います。
「心眼」。よく剣術などの世界で使う言葉ですね。
「味」。味覚という意味の他にもこの言葉は色々と使いますね。
私の故郷は東京、文京区の千駄木という所です。その中でも台東区、谷中と接している地域で東京大学がある本郷などとは趣きが違い、江戸下町情緒が色濃く残っている町でした。過去形なのは私が子供の頃とは随分と様変わりしてしまったからです。この町に少しでも興味を持たれた方はリンクページにある「谷根千ネット」を覗いてみてください。まあ、それはともかく、やはり故郷というモノは良いもんですね。私は田舎が無かったので子供の頃、御盆やお正月になると友達が親に連れられて田舎に帰って行くのが何だか不思議でした。しかし、いざ自分が生まれた町を離れて暮らしてみるとその気持ちがやっと解りました。現在暮らしている那須高原はゆったりしていて空気もキレイ、四季折々の楽しみがありとても快適です。でもたまに、あの雑然とした下町が恋しくなります。それと一人暮らしをしていた六本木界隈もとても懐かしく思われます。これが望郷の念というのでしょうが遅ればせながらそういった気持ちになる自分が少し気に入ってます。
創作、そして創造。これは誰でもがやっている事です。私共の様な芸術に携わる者だけでは決してありません。会社勤めのサラリーマンの方だって、仕事に創造力と独自性を持ち込む事によって大きな仕事に結びついたり、例えば流れ作業をしている工員さんだってその方独自の方法で作業が早くなったりします。ですからどんな人間も生きている限り創造し続けている訳です。プータロウにしたって「きょう一日どうやって乗り切ろう」とか必死に思い巡らしているんです。ただ皆さんはそれを自覚していない。私から見ればそれはもったいない事だと感じます。日々創造している自分に気付いた時、普段の生活、サラリーマン生活や主婦生活やプータロウ生活がもっと楽しく感じられるハズです。どうですか?気付いてみませんか?
心は鞘。誰の心の中にも刀が納まっています。勿論私の心にも。いつでも抜ける様に、そして良く切れる様に手入れを怠らず、決して錆付かせず、納まっています。しかし鯉口を切り、同時に柄に手を掛ける事はあっても余程の事が無い限り抜く事はありません。そこに確かな「義」を感じた時には息もつかずに抜くでしょう。「抜かば斬れ、抜かずば斬るなその刀」。そう、抜いた限りは斬らねばなりません。ですから余程の覚悟が無ければ抜けません。何だか話しが恐ろしい方向に向かってきましたが、これはあくまでも心の刀の事です。心の有り様です。私達の日常の中では様々な出来事が起ります。楽しい事、嬉しい事、悲しい事、辛い事。我慢しなければならない事。そしてタマには無理難題を押し付けられる事もあるでしょう。しかしそんな事は小さい事であり、侭有る事です。ですからそんな事で心の刀を抜く事は勿論、柄に手を掛ける事もなりません。そしてそんな時こそ冷静に物事を見極められる様に心を鍛える事が肝心であると考えます。剣の奥義に達した人は刀を抜かずに勝負を決したと言います。そこまでの心境に達するのは無理でも心を鍛えていけば、例えば愛する者を守る時、心の刀を抜かずに相手を制する事が出来る様になるのかも知れません。ただ、その心境になる為にはやはり「義あればいつでも抜くぞ」という覚悟の積み重ねと心に刀が納まっているという自覚、そしてその刀を錆び付かせないという事なのではないでしょうか。
陶芸家としての私は伝統工芸作家という位置に居ます。しかし現代まで脈々と受け継がれてきた伝統技法も先駆者が居たからこそ誕生し、今まで続いてきたからこそ伝統と成り得たのです。確かに日本の焼き物の大変革期は桃山時代です。そこから学ぶ事柄は非常に膨大で多岐に渡っています。かつて私も山に入り、当時の窯跡を探し、法律を犯してまでも勝手に発掘し、陶片を持ち帰り焼き直してみたり、色々とやりました。しかし現代に於いて伝統工芸作家として活動する私にとって伝統をなぞるだけでは何の意味もありません。「自分が伝統の先駆者たれ」。そう思って作陶しています。しかしこれが非常に苦しい。でもそれを補って余りある楽しさがそこにはあります。折角新しい材料がどんどん開発されているなかで、そういったモノを活かさない手はありません。伝統はただ守るのではなく創っていくモノであると考えます。新しい道を切り拓く事程私の心を震わせる事はありません。
「縁」元々は仏教からきた言葉です。何事に於いても総ての根源は縁であるという考え方です。例えばひとつの種があったとします。でもそれだけでは花を咲かす事は出来ません。土があり、水があり、陽光があって初めて種は
人それぞれに色々な価値観や美学を持っています。また個人の中にも沢山の美学が混在していると思います。そのひとつにカッコイイ、カッコワルイとう判断基準がありますね。例えば、「この仕草はカッコワルイからやめとこう」とか…。今、問題になってる不法投棄。カッコワルイと思いませんか?
風狂と言えば一休禅師の代名詞ですがこの域まで到達する人はやはり天才なのでしょうね。散文「自由」で書いた様な、絶対的な自分の価値観を生まれながらに持ち、自然にそれに従って生きているのでしょう。サルバドール・ダリ、アルチュール・ランボゥ、パブロ・ピカソ、などなど芸術界でも数え上げれば切りがありませんね。他人に迷惑を掛けまくっても何故か愛され、心震わせる作品や言葉などを残し、自由奔放に時代を駆け抜けて行った天才達。天才と気狂いは紙一重とはよくそれを表した言葉だとは思いますが、私は実際はこの2つは多分に重なっていると思います。ゴッホが自分の耳を切り落としましたが、これが現代の日本だったら精神病院に入れられてしまうでしょう。同じ芸術を志す者として自分を振り返ってみると全く自信を無くしてしまいます。何だかんだ言ったところで常識の中で生きている自分を見付けて愕然とします。せめて心に狂を持っていたいと願っても結局は自分は自分でしか無いのですね。風にまかせて、狂うにまかせて…。まあ、こんな事を考える事自体が風狂からは遠く離れているのでしょうが…。
今までチョット堅い内容が続きましたのでここで少し柔らかめのを…。粋。東京では「いき」と読み、京都では「すい」と読みますね。解釈も微妙に違う様です。私は東京の下町で生まれ育ったものですから粋な大人になる事を目標にしていたもんです。でも今だ到達しませんが…。「江戸っ子は五月の鯉の吹き流し、口ばっかりではらわたは無し」なんていう都々逸があります。2つの意味に取れますね。1つは「江戸っ子は何にも出来ないのに口だけは達者だ」。もう1つは「口は悪いけど肚の中は清らかなものだ」。私は2つめの解釈を支持したいですね。でも、これ両方共合ってるんです、実は。話しがテーマからずれてしまいましたね。そう、粋についてでした。男のキモノを例に取りましょう。鰹縞の木綿の単衣をゾロっと崩して着流し、雪駄を半履きで裏打ち金具をチャリチャリ鳴らしながら歩く。これは粋ですね。でも京都でコレをやったら大変な不粋者です。だから私は京都でキモノを着た事はありません。難しいですね。料亭などで大金を使いお大尽遊びをする。これは野暮ですね。要するにお金の問題じゃないんですね。最後に一言粋について。「粋なんてぇ事をくっちゃべる程、オイラ野暮天じゃぁねえよ!」
自由。それは自らの由に依ってという事です。般若心経の一節に有名な色即是空。というのがありますが、これを現代風に解り易く説明すれば、まず、「色、即ち是空なり」の意味はこの社会は虚ろい往くものと観ぜよと受け取れます。要するに時代、時代によって世間の常識やルールなどというものは変わってゆくのだから、そういった事柄に縛られず、自分の価値観を持ち、それを信じよ。という事です。自らの由に依って判断し、自らの由に依って行動する。社会の常識やルールに流される事無く…。ただこれを勘違いすれば只の自分勝手という事になります。自分さえ良ければ他人はどうでも良いという事になります。我々は普段、自由という言葉を簡単に使っていますが、実は非常に奥深い言葉ですね。「私は会社や家族の中で自由が全く無い」、「私には自由な時間が無い」などという言葉をよく耳にします。しかし本当にそうでしょうか?現実の社会の中でもシッカリと自分というものを持っていれば、それは自由なのではないでしょうか。
今、少年犯罪はどんどんエスカレートし大きな社会問題になっています。しかし私はこう考えます。いつの時代の子供達でも大きな可能性を秘めており
今まで色々な国を旅し、様々なすばらしい出会いがあり、また現実を突き付けられる事もありました。アジアに限らず世界中で子供の売買が行われています。子供に恵まれなかった欧米人の御夫婦に買われていく肌の色の違う子供達。その子達はまだ良いんです。良識ある御夫婦であれば子供にキチンと事態を説明し、教育を施し、責任を持って育てているからです。しかし一方で戦争の道具として買われていく子供達がいます。大人達の勝手な思惑で戦争を起し、戦力増強の為に子供達を買う。しかもまだ7、8才の子供達です。その子達にとって勿論戦場は恐怖の場でしかありません。ライフルを構え人を殺す事がその子達に科せられた唯一の生きる道なのです。でもそんな事は7つや8つの子供に出来るはずがありません。恐怖で動く事さえ出来ないでしょう。そこで大人達は考えました。そしてある飲み物を子供達に与えました。そのドリンクとはミルクに爆薬を混ぜたモノです。それを飲むと一種のトランス状態に陥り恐怖感が無くなるそうです。そして子供達は戦場を訳の解らぬまま駆け巡ります。そして多くの命が使い捨てられていきます。まさに戦争の道具です。一発の銃弾と何等変わり無い扱いです。皆様、この現実を認識してください。微力ながら私はこの問題に関わっておりますが皆様にも協力してくださいとは申しません。ただ認識して頂きたいのです。そして普段の御自分の生活をもう一度振り返って頂きたいのです。食べ物を粗末にしない。物を大事にする。そういった事が今の私達日本人がもう一度考えなければならない事だと思います。あなたは胸を張って生きていますか?あなたは誇れる自分でいますか?
クリスマス、ハロウィーン…日本人は何でもお祭りにしてしまう。と批判する人々がいます。しかしこれは日本の誇るべき平和的な文化だと私は考えます。この根底には遥か古えに空海が日本にもたらした密教思想が生んだ神仏習合の伝統が脈々と流れております。密教はそれまでの仏教とは違い、何でも大らかに受け入れて来ました。例えばお稲荷さん。京都の伏見稲荷は神道系ですが愛知県の豊川稲荷は密教系で元はインドの悪神ダキニ(狐に跨がり死者の魂を食べる神)を仏教の守護神として祀ったお稲荷さんです。この様に平安以降、日本文化には色々なものを受け入れるという下地が根着き、一般の庶民も知らず知らずの内にそういった文化思想の中で生きてきて、それが現代に於いてもシッカリと息ずいているという訳です。日本人は節操が無い、宗教意識が無いと批判する欧米人が殆どです。しかしどうでしょう。彼等の国々に目を転じてみれば、宗教意識があまりに高い為に同じ宗教の中で解釈の違いからテロ行為などの殺し合いをしている国があります。いったいどちらが人間的でしょう。ですから私はこの日本の愛すべき節操の無さが大好きです。あなたはどう思われますか?
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