| 2005年04月29日(金) |
声とフローチャート。 |
しつこいようですが、僕はシナリオライターとして駆け出しました。 で、そこで色々と注意されているうちに何となく思ったこと。
僕の文章は「声とフローチャート」でから出来上がっているのではないだろうか。 例:道に迷った時の会話。 「誰もおわんなぁ」 「じゃあ、誰かおったら聞いてみようか」 これは小説で使うには悪い例文らしいです。 「誰」と「おる」が連続で出てくるのでクドイ、かつ自然な流れではないと判断されるらしいです。 でも、実際に会話してたら普通ですよね? つまり、僕はその次元を無理やり文字に落とそうとしているので小説としては齟齬が生じるわけですね。
あと、地の文が説明的過ぎる、と。 それは完全に科学論文の書き方を引きずっています。 ○○は●●であった。よって●●は××である。 みたいな構造の文章を使ってしまうわけです。 しかも、論文では同じ対象は必ず同じ言葉を使います。 同じ言葉が繰り返すからとコロコロと言い回しを変えたりしません。 ってゆうか、言葉を変えると志向する対象が変化するので、それは別の物だと主張しても小説の世界では通用しないようです。 同じ対象を別の言葉で表現する事は出来ないと、僕は心の底で思っているので、繰り返し同じ言葉を文中で使います。
で、結論からいうと僕は、 �.侫蹇璽船磧璽氾�な思考で構造を組み立て �∪爾亡陲鼎い謄掘璽鵑鮃柔�する ことでシナリオを組み立てようとしているみたいです。 声というのはつまり、実際に人が会話で発する声です。 僕は考え事をする時に必ず声を出します。 音声を発しなくとも、脳内では必ず声を出します。 思考を複雑な構造から単純な構造へと純化していく作業がすきなのです。 それを声を出すことによって、明瞭なイメージとして定着させていく事が出来ます。 だから、僕は最終的に声に頼ります。
それはさておき、もしかすると僕はドラマやアニメなどに適した動的なシーン構成を行っているのかもしれません。 文字には現れませんが、僕がシーンを構成する時にはかならず時間の概念を考慮しています。 おそらく、そのために熟読するに耐えないのかもしれません。
どちらにせよ、目的と手段の間に齟齬が生じているのは僕の技術が未熟なせいではあるのですが。
| 2005年04月16日(土) |
ギャルゲー志向はじめました。 |
タイトルどおり、ギャルゲー志向はじめました。 と言うか、気付いたらしてました。
やたらと同じ台詞を言わせる=口癖を作りたがる。 やたらと同じ言い回しを使う=日常を演出したがる。 やたらとワンパターンを好む=それがギャルゲーだから。
つまり、僕が力を入れているのは「いかに日常から脱出するか」であって、そのためにはまず日常が存在していないと意味がない。 そして、プレイヤーに日常感覚を植えつけるには、繰り返しがもっとも効果的だと思っている。 学習の基本は繰り返しである。 つまり、何時間も、何日間も同じ台詞を聞かされ続ければ、意識せずとも覚えてしまうというわけだ。
で、慣れた頃にガラっと展開を変える。 ようするに僕が考えるギャルゲー起承転結のうちの転ですな。
起:日常の中でキャラクターによってインパクトを与える。 承:日常を繰り返して、世界観をプレイヤーに焼き付ける。 転:安定した世界観をとんでもなく崩す。 結:最後は大団円。
これが僕の考えるギャルゲー起承転結。 なので、日常会話で台詞にボキャブラリーが少ないのは気にしない。 「またこれかよ!」と、キャラのアホさ加減に笑ってくれればいいのだ。 勝負どころはそこではないのだから。 だから細かい言い回しにこだわるな。 ちゃんと物語を練れ。
という考え方の僕が書く文章は、文章を書く人にはめっぽう受けが悪いようで。 たぶん、小説化養成とかのスクールなんかに行ったらボコボコにされそう。
| 2005年04月15日(金) |
言葉の次に来る言葉。 |
まず最初の段階として言葉がある。 人間はまず言葉を持って世界を構築する。 そして、次の段階として言葉の向こう側にあるものを見る。 言葉そのものではなく、言葉が記号として志向する対象そのものを見出す。
つまり、それは小説も同じはずだ。 まず、言葉があり、その次の段階として言葉を通じて伝えるメッセージが生まれる。 言葉はメッセージを伝えるメディアとなる。
だが、僕が求めているのはそこではない。 僕が求めるのは存在の確認ではない。 僕はそれの存在を確信している。 ある人はそれを「スピードの向こう側」と言った。 存在が内包する真実。 それは存在するものではない。 真実が存在するなら、それは掴めるはずである。 認識できるはずである。
だが、僕は真実を未だ明確に認識できない。 つまり、それは言葉による志向作用では捉えきれない。 方法論が間違っているのだ。 あるいは、もはやそこに言語の限界が存在するのかもしれない。 だが、存在するのならたとえ限界であっても到達可能なはずだ。 捉えきれないのは方法論が間違っているのだ。 もはや言語を基調とした思考全般に拠る事が根本的に不可能を孕んでいるのかもしれない。
僕が求めるのはその先にある言葉だ。 もはや言葉では到達出来ない真実という仮称を与えられた何か。 そこから戻ってきた先にある言葉。 アルターの森で新たな力を手に入れたカズマのように。 僕はそれを求めている。
今、僕はシナリオライターの仕事をしているのだが、そこで取引先から表現が説明的すぎるとか、語彙が少ないなどの指摘を受けてしまった。
そこの会社はテキスト単体で小説としても通用するようなシナリオをあげてくれ、と要求しているわけだが、実は僕は小説が書けないという罠。
僕はなるべく言葉で表現したくない、と個人的に頑張っている。 言葉ではなく構造で表現したいのだ。 なるべくテキスト量を圧縮し、構造を簡潔に述べたい。 おそらく僕の文章構成法が科学論文のそれをベースにしているからだろうと思うが、神の宿らない細部を散りばめる事に快感を覚えるような小説は書けない。
つまり、核心に触れない部分のテキストは適当に状況説明だけしていればいいし、そうでなければギャグで笑わせれば良い。 プレイヤーだって、どうでもいい部分は適当に読み飛ばしている。 だから、そんな部分のテキストは同じ言葉が頻繁に続いていようが、説明的な文章の羅列であろうがかまわない。 物語の構造さえ揺らぎのないものであれば、誰が書いても面白いのだ。 と思っているので、僕には小説が書けない。
まぁ、仕事として成立させる技術を身につけないとならないので、僕は神の宿らない細部だけで構成されたどこにも意味を見出す価値のない文章を生産し続けるのだが。
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