寛解期なのだろう。帽子を目深に被って歩かなくとも済むことや、店で壁に向かって食事をしなくても良いことにほっとする。憎悪の時期には、ただでさえ人を選ぶ性格がさらに亢進し、初対面で奇異な印象を与えることを嫌い、かつ、旧知の間柄では気の毒に思われることを恐れ、再会に二の足を踏むようになる。こめかみに心地良い疼痛を感じるような、白熱したやりとりは随分と久しく、人払いの期間が長ければ長いほど、相対的に人と関わる力も衰えて行く。引きつりのたびに視線を拾い集め、突飛なものを目の当たりにしたような表情に出会うと小さく絶望し、視線がかち合わなかったことを認めると安堵するような行為を反射的に繰り返していれば偏屈になるのもむべなるかなで、いっそのこと誰にも気付かれる心配のない透明人間になりたいと切迫した気持ちで願う。憎悪と寛解の加熱作用と冷却作用は、ゆっくりと性格を打ち据え、老いの到来に希望を見出すいびつな精神構造を刻んで、やがて鏡のなかにくたびれ疲れ果てた顔を見出す。 『彼らはいったい何をしているのか?彼らはいったい何を考えているの か?我々はみんな死ぬのだ、誰だろうと一人残らず。何たるばか騒ぎよ !そのことだけでわたしたちはお互いに愛し合うようになっても当然な のに、そうはならない。わたしたちはつまらないことに脅かされたり、 意気消沈させられたりし、どうでもいいようなことに簡単にやっつけら れてしまう』 『老いるというのはとてもおかしなことだ。忘れてはならないのは、自 分自身に向かって、自分は年寄りだ、自分は年寄りだと、絶えず言い聞 かせ続けなければならないということだ』 いつもどこか冷めている。どれほど宴もたけなわであろうと、頭の片隅ではそれを冷静に観察している自分がいる。穿った見方(斜視)は道義に反するとの思いから、極力おもてに出さないようにしてはいるものの、年相応に振る舞おうとして過剰適応になるのにも疲れ果て、ますます若さが疎ましくなるばかりで仕様がない。実年齢との齟齬に歯噛みをしたのは一度や二度ではなく、窮屈な若さ(実際、もうそれほど若いとは言えないのだけれど)、乃至、この持て余している身体を振り切って駆け抜けて行けたらばどんなにか良いだろうとたびたび思う。けれど、所詮そんなものは早く大人になりたいと背伸びする中高生となんらかわりがなくて、大人には大人の(老年には老年の)生き難さがあることを見ようともせず、いたずらに希望ばかり抱いてしまうのは、つまるところ自分の若さを再認識するだけで、現状から前に一歩も進んでいないことに思い至り、始めて次の一手を打ち出すことができる筈なのだ。結局、老いることで何かから放免される筈もなく、悪態をつきながら今日も若さ(バカさ)を抱えて生きる。 『彼はおおよそ二十分間にわたって、朝食のことも忘れて、アレクサン ドラに向かって、今世紀のこのパワフルな後半部にあって物事をどのよ うに見るべきか示そうと試みる。彼女も試みる。彼女はこれまで常に進 歩的な気性を持ちつづけていた(ときどきは改良主義程度にもなったけ れど)。でも今は、彼の話に耳を澄ませながら、太い愛の肉棒の向こう に、孤独な老年と寂しい死をはっきり目にすることができた』 お囃子が聞こえる。まるでそこだけ暮れなずむことを拒むかのように、空を燃え立たせて色を失う気配がない。ひきかえ、この屋外プールは照明設備があるとはいえ所々に夜を滲ませ、嬌声もどこかひっそりとして侘しい。プールサイドを歩く人影はまるで亡霊のようで、光と闇の淡いに融け込んでそのまま姿を消してしまうようだ。いっそ僕も消えてしまおうか。たゆたう夜に潜ると、どうしようもなく安らぐ。けれど、この水はどこにもつながっていない。コンクリートで厚く塗り固められている。 『鳥たちよりもさらに夏おそく 草むらのかげで悲しげに ちっちゃな群れが挙行する 人目につかぬミサを。 聖餐式は見えず 恩寵の到来もゆるやかで ミサは物思いに沈んだ惰性となる 孤独を拡大しながら。 八月が燃えつきようとする頃 真昼というのにたいそう古めかしく この幽霊のような聖歌はわき上がり 寂滅を表象する 恩寵はまだ取り消されたわけではなく 輝きに影はさしていない だがドルイド的な変化が現れて いま「自然」をたかめる』 ----------------------------------------------------------- TOHOシネマズで宮崎駿「崖の上のポニョ」 明治大学博物館「刑事部門」 オカムラデザインスペースRで「風鈴 伊東豊雄+takram」 G/P galleryで「上田義彦『骨と石器:BONES and STONEWARES』」 自由学園明日館 旧朝倉家住宅 ----------------------------------------------------------- 佐藤亜紀「天使」 グレイス・ペイリー「最後の瞬間のすごく大きな変化」 上橋菜穂子「虚空の旅人」 エミリ・ディキンソン「対訳 ディキンソン詩集-アメリカ詩人選(3)」 読了。
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