連日、悪夢を見る。内面のグロテスクさが強調されているようで、夢を夢だと認識しながらも、起きてから束の間はその意味するところから離れられない。 『私はいまだに苛立っていた。鬱積した憎悪と敵意とをいまだ煮えたぎ らせていた。アルマ・グルンドなど怖くはなかったが、自分の怒りのす さまじさは怖かった。自分のなかに何物が棲んでいるのか、もはやまっ たくわからなかった。去年の春のテレフソン家での激昂以来、私は世間 から離れて暮らし、他人と口をきく習慣も失っていた。一緒にいてどう 接したらいいかわかる相手は自分だけであり、その自分はもう誰でもな く、本当に生きているとは言えなかった。単に生きているふりをしてい る誰か、死んだ男の本を翻訳して日々を送っている死んだ男でしかなか った』 強迫的な諸々から逃げるように(それすら強迫的なことなのかもしれないが)、自分が点在している場所を巡った。土地はまだささやかな安心感を僕に与えてくれる。自分本位なのは否めないが、僕は一緒に行った誰かよりも、その、行った場所にこそ愛着を感じてならない。短期的には同行者が景観に変化を与えるかもしれないが、中長期的にはそのような屈曲も霧消している。残り香はいつか消え、そのものだけがただそこにある。 『ドクター、私は無意識状態を求めているだけです。死じゃありません 。薬で眠らせてもらう。意識がないあいだは、自分が何をやっているの か考えずに済む。そこにいても、そこにいない。そこにいない限りにお いて、私は護られているんです』 弱っているのだろう。風景に意図的な操作が加わるがために忌避していた音楽は、外界を遮断する装置として外出時に常時手放せなくなっている。音量で押し込んだ皮膜の薄い頼りない自我と、見たくもないものを次々に見せる信用ならざる無意識を伴って、かつてそこにあった自分を拾い集めてまた一つに再構築しようと試みる。それはまるで故郷を回収する作業のようで、行っていることの浅ましさに着込んでも着込んでもただ寒さだけを感じる。 『何かを意のままにできるということが〈いのち〉の成熟なのではない。 そうではなくて、意のままにならないということの受容、そういう「不 自由」の経験をおのれの内に深く湛えつつ、何かを意のままにするとい う強迫から下りることを自然に受け入れるようになるのが、〈いのち〉 の成熟であろう』 あれは錯覚だったのだろうか。川に映る光を眺めていた。相対的に(並列に)存在していた諸相が重層的に内包されるような気がした。目を凝らすともう見えなくなっていた。 ----------------------------------------------------------- 渋谷クラブクアトロでイースタンユース、 スパルタ・ローカルズ「極東最前線 ~ファイトバック現代~」 シアターイワトでZORA 「エレベーターの鍵・灰色の時刻、あるいは最後の客」 早稲田松竹でアダム・シャンクマン「ヘアスプレー」 ジュリー・テイモア「アクロス・ザ・ユニバース」 東京都写真美術館で「ランドスケープ 柴田敏雄展」 INAXギャラリーで「水野勝規 展 -グレースケール・ランドスケープ-」 ギャラリー燕子花で「山中漆と九谷焼」 日比谷パティオで「テオ・ヤンセン展」 ギャラリーバウハウスで「横谷宣写真展『黙想録』」 ----------------------------------------------------------- 鷲田清一「死なないでいる理由」 アーサー・C・クラーク「幼年期の終り」 森見登美彦「夜は短し歩けよ乙女」 読了。
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