浅間日記

2006年05月31日(水) 学び舎の目標管理

埼玉県の公立小学校52校で、
いわゆる「愛国心」が通知表評価項目にされているのらしい。
2002年に学習指導要領が改訂され、新たな教育目標に従っての措置なのらしい。

これに関連して、内山秀夫慶応大学名誉教授の記事。少し抜粋。

…通知表に「愛国心」を盛り込む小学校が出ているのは、教育現場での「愛国心」の先取りであり、文科省の教育改革のねらいの過剰なまでの露払いである。

内山氏はまた、興味深い米国での事例を紹介している。また少し抜粋。

…それは第二次大戦中のアメリカでの話である。全米の州議会や学校当局が、国家への忠誠心を涵養するために国旗掲揚式を義務付けるべしと主張した。最高裁は、たとえ「世界大戦で国家が緊急事態にあるにしても、個人の意思に反する意思表示を強要する権限は国家にない」と宣言し、彼らは自由を救った。

そして氏は、日本の戦後60年、政治家は常に強要する権限を求め、国民はそれに従ってきたと述べている。

*

義務教育、特に小学校教育に、目標管理はふさわしくないのではないか、
というのが私の考え。

できるできないは、この年頃であまり問題ではない。
目の前の問題から逃げないで頑張ったか、自分の考えをもてたか、
十分に試行錯誤をしたか、繰り返しチャレンジしたか、

こういうプロセスをしっかり指導して、後の人生でどんな状況になっても、
その子の役に立つことを教えてくれ、と言いたいのである。

そもそも、子どもを評価するという突き放した姿勢は、
小学校就学年齢の子どもに対して不適当であるという気すらする。

小学校教諭という職域には、子どもたちに寄り添いつくすという情けを期待するのだが−二十四の瞳みたいに−、それは非常識なのだろうか。

でも、実際、教育現場に必ずいる「よい先生」は、おしなべて、
子どもを一方的に評価したり、ましてや何かを強要するという振る舞いを、
極力控えているようにも思う。

愛国心から話が逸れた。

学校が得意でない私は、そもそも論であちこちつっかかる。
どうも散漫、まとまらず。

2005年05月31日(火) 飴のエルドラド
2004年05月31日(月) 自給自足



2006年05月30日(火)

始まったとなれば、着手し、進行しなければならない。
という訳で、日がなPCに向かう。

傍らで、
6月中にエントリー手続きをしなければいけない、
いくつかの試験や集まりなんかについて、どうしようかと思い悩む。


2005年05月30日(月) 単細胞生物化
2004年05月30日(日) 言葉のない世界



2006年05月29日(月) 我が身にふりかかるとみるや、なりふりかまわず

ゆるゆるとした仕事がゆるゆると始まる。

*

「役場の人に怒られるのを覚悟でやりました」
橋脚がグラグラな橋を、住民達が勝手に通行止めにした話。
公道にロープを張って、通行できなくしたんである。

山奥のその又奥の小さな集落のことだから、役所の対応をまつ猶予はない。
このまま放置していたら、絶対に必ず、
「小さな集落の中の、よく知っている誰か」が命を落とす。

案の定、通行止めにしたあと間もなく、橋は大きく崩れ落ちた。
数年前の夏、本当にあった話である。

*

我が身に降りかかると自覚した危険を、そのまま放置するほど、
日本人はボケてはいないと思う。

それが「我が身に降りかかる危険」と、自覚することさえできれば。

*
そしてさらに、その危険を回避するやり方を決める権利が自分にもある、とわかれば、
今目の前にある危険を、相当なリアリズムでもって考えはじめるのである。

2004年05月29日(土) 内心の自由



2006年05月27日(土)

山の家へ。

雨が降れば寒く、晴れれば暑い。
困ったことである。

Aをおいて、小さい町で開催されたある大きい問題についての会合。
意見が異なる刺激的なセッション。
オブザーバの私は誰にも意見を委ねられず、
もどかしい思いだけ抱えて、山の家にもどる。

2005年05月27日(金) 梅涼
2004年05月27日(木) 適正表示



2006年05月26日(金) 文を盗む

杉村何某議員が、誰かのブログの内容を模した、という出来事。
このこと自体はどうでもよいが、自分自身の類似の罪を思い出したので、
本日はその告白である。

*

小学校と高校の時分の2回、課題の作文で盗作をした。

初犯は小学1年か2年の時で、動機はいたずらとサボリである。
先生を出し抜こうというのと早く遊びにいきたい気持ちで犯行に及んだ。

そんな動機だから「パクッて」くる原文は、足さえつかなければ、
−驚くような偶然で、結局それは足がついたのだが−何でもよかった。

区の教育委員会が発行した「優秀作品集」を引っ張り出してきて、
他校の子が書いた作品を、適当にブレンドし、
模造品を作り上げるという暴力的な作業を、
友達数人でやらかした。

こういう末恐ろしい子どもが大人になって、
日々こうした日記を書いているんであるが、
これは正真正銘の、オリジナル書き下ろしである。

*

そして、高校の時分のそれは、もっと密やかで罪が深い。
田辺聖子氏のエッセイ文を、盗んだ。

牽牛織女の伝説について書かれていた一文が、
内容と文のどちらをとっても、私には宝石のように美しく、
それを自分のものにしたいという欲望を抑えられなかった。
もちろん誰にも言わず、ひっそりと遂行した。

提出後もどってきた原稿用紙には、盗んだ部分の数行に、
先生が赤い二重丸をつけて、よく書けていますとコメントされていた。

もちろんちっとも嬉しくはなかったし、
結局それは一文字も自分のものにはならなかった。

*

盗作の誘惑は、このように−過去の経験として−私にもわかる。

しかしやはり、人の文章や経験を自分から発したものにするというのは、
それは収納場所の間違いである。

他人の文章、他人の経験は、
あくまでも「他人から発せられたもの」として自分に取り込んでゆけばよいのであって、
そうした方が、結局自分の血や肉になっていくのだ。

*

もう少し言うと、だからこそ、−議員先生の件はコメントの対象外として−、
プロの文筆家の盗作というのは、例えその行為が一度であっても、
私は許容しがたい。

許せないというよりも、評価が萎えていく感じだ。

2005年05月26日(木) 修繕日
2004年05月26日(水) 学校の話



2006年05月25日(木) 滋養電池

曇天。

一昨年前の梅干を、Aが見つけてきたので開封。
初作だったから失敗と決め込んで、しまってあった。

塩抜きをして梅昆布茶にする。
ギラギラと照りつける、夏のお日様の味がした。

乾物というのは、一種の電池みたいな食糧で、
凝縮した滋養が得られる、この上ないものなんである。

夏の塊が全身にしみ渡っていくのを感じながら、
今年の大梅が出回るのももうすぐだな、と思うのだった。

2005年05月25日(水) 迎合文
2004年05月25日(火) 謝意



2006年05月24日(水) awardとアホウドリ

伊豆諸島鳥島でアホウドリの繁殖に長年貢献した長谷川博東邦大学教授が、
平成18年度山階芳麿賞を受賞した、というニュース。

山階芳麿賞というのは、財団法人山階鳥類研究所が創設した賞である。
この研究所は、黒田清子さんが御結婚前まで所属していた事で
その名前が知られているけれど、鳥類研究のオーソリティである。

*

野生生物の生態メカニズムを知るという研究分野は、
そのこと自体が絶滅の危機に瀕している。

別に知らなくても困らないからだ。
人工的な環境で生きられる時代にいまさら、と付け加えてもいい。

そうした研究にお金や人を投入することについて、
年を追うごとに、国民的なコンセンサスが得られにくくなってきている。

だからせめてこの山階芳麿賞も、もう少しワイワイ世の中が騒ぐ−芥川賞みたいに−、
ということになればよいと思うのだが、あまりそういう気配がない。

ワイワイ世の中が騒ぐためには、多分「自然の具体的な姿を知ることの意味」みたいなものを、「知らなかったら人間はどうなるか」という視点も含めて賞の主催者が一般の人へ伝える言葉をもたなければならないし、これが素晴らしい権威ある賞なのならば、ぜひそうしてほしいと思う。

2005年05月24日(火) 話し合い橋
2004年05月24日(月) 絶滅の前に起きること



2006年05月23日(火) 大河への憧れ

埼玉のSさんと千曲川へ。

千曲川は、新潟県へ入るとなぜか信濃川と名前が変わる。
川の長さは367kmで日本一、流域面積は11,900�屬韮拡嵬棔�
つまり、社会や地理の教科書で定番になるような、横綱クラスの川なんである。

*

こういうヒューマンスケールを越えた地形の存在を
じっくり我が身に取り込むことは、私にはとても楽しい。

山奥の野生から、人間の暮らしの酸い甘いに至るまですべて身中に孕みながら、
まるで涅槃像みたいに、山と海の間に身を横たえている。

あなたの目の前にある姿は、私の全容ではない、という余裕が感じられる。

*
そうはいっても、アマゾン川やドナウ川とかミシシッピ川みたいに、
「大河」と呼べるようなものは、残念ながら日本にはない。
まあ、狭い島国だから仕方がないのだけれど、
そういう大河も、いつかじっくり見てみたいと思う。

2005年05月23日(月) 
2004年05月23日(日) 



2006年05月22日(月) 全天候型人生を迎える日

平成18年度の科学技術振興調整費に、本年度から新たに盛り込まれた
「人工降雨を中心とした渇水対策に関する研究」というのがある。
「安全・安心で質の高い生活のできる国の実現」という柱の元に助成される。

*

知らなかったが、人工降雨の研究は、終戦直後から行われていた。
そして既に日本では色々な場所−利根川上流など−で実験が行われているし、中国では既に実用されている。

原理としては、雲の中へ雨粒の核となる物質を散布する、という、
素人でも分かりやすいレベルのものである。
九州大学が、防衛大学と共同で、航空機から散布実験している。

*
ファーストインプレッション。
現代版の水戦争はもう始まっているのだ、という実感。
気象操作技術はさらにすすみ、天気は市場経済に支配されるだろう、という見解。
生態系はバランスを失い、地球環境問題はさらに深刻化して、
人間の心からさらに多くのものが損なわれるだろう、という、
私にしては稀な、絶望的心境。

*
気持ち悪さを我慢して、色々調べた。
散布する物質は、ヨウ化銀とか、液化した二酸化炭素や、
ドライアイス−要するにこれも二酸化炭素−である。

ヨウ化銀−中国ではこれが散布されているらしい−は、
人体や環境への毒性が明らかになっている。

ネットでMSDS(Material Safety Data Sheets)を見ればすぐわかる。
雨を降らせるために、危険な化学物質を空から散布するんである。

そして日本の最近の実験では、液化二酸化炭素が散布されている。
二酸化炭素は、誰でも知っているように温室効果ガスの一つであって、
その放出量を抑制するために、海底に液化固定する研究が行われている。
そういう時に同じものを空からばら撒いている。
つまり、浴槽の栓を抜いたまま、風呂に水をためようとしている。

*
人工降雨という技術は、予算もかからず、簡単に実行できてしまうけれど、
その研究成果が与える影響が予測不可能な、気持ちの悪い研究である。
そういう点で、遺伝子組換え技術やクローン技術と同じ感じがする。

予測不可能であることは、悪いことに、研究者の研究者たる部分を刺激する。
しかし、自然科学や生命倫理に関わる実験というのは、
一つの専門分野だけで、実施の判断をしてはいけないのだ。


もし「安全・安心で質の高い生活のできる国」を保障しようというのなら、
私の頭の上には一滴でもそんなものを降らせないでほしいと思う。

2005年05月22日(日) 金網デスマッチ
2004年05月22日(土) 個人主義



2006年05月20日(土)

自分はこの家に子として一人でいて、大変孤独である、
という意味のことを、もうずっと、Aから告白されている。

いずれ神様が妹やら弟を連れてくる、と説いたのは数年前。
神などいない−少なくとも私には−という「答申」を得たのも数年前。

年端も行かないAに、こんな孤独と失望を抱えさせていることについて、
親としてそろそろ耐えられないのだが、少しややこしい問題でもある。

子どものいない夫婦は、家庭の空虚と対峙しなければないが、
子どもが1人の夫婦は、家庭の薄っぺらさに対峙しなければならない。

そういうケースがある。

2005年05月20日(金) 
2004年05月20日(木) 油断スイッチで幕があがるとき



2006年05月17日(水) 罪にすることができる

鴻上尚史氏の「ドン・キホーテのピアス」。

今まさに成立しようとしているトンデモナイ法律、というタイトルで、
共謀罪と改正道交法のことをとりあげている。

演出家という職業は、人間と人間の関係がつくりだす空気を
重くしたり軽くしたり、自在につくりあげるプロなんである。
だから、社会という舞台に漂う空気に対してもカナリアのように敏感なのだ、
と思いながら読む。

「…問題は、『警察は、それを罪にすることができる』ということです。…この法律で、この国はますます息苦しくなるでしょう。」
その通りだと思う。

「あなたが、もし小泉自民党政権に、前回の選挙で投票したのなら、
この法律を作った一人は、あなたです」
これも、その通りだと思う。

鴻上さんは、小泉自民党政権を批判するのと同じぐらいの気持ちで、
前回の選挙で自民党に投票した人への批判的な気持ちを、文章に込めている。
そして同じような思いを発言する人は、沢山存在する。

これは悪い方向ではなくむしろ良い方向を向いていることだと思うけれど、
国民一人一人の投票結果が、民意のベンチマークとしてこんなに取りざたされる選挙も、珍しい。

2005年05月17日(火) 芯折れ鉛筆
2004年05月17日(月) サマワに降る雨



2006年05月16日(火) 天変地異・狂気

ベラルーシを舞台にしたドキュメンタリー。
平地林が続く場面で、深い森を抜けると僕の村がある、というナレーション。

彼の地ではこれが深い森なのか、と嘆息。
おそらく、長野県民は皆そう思うだろう。

平らな深い森というのは、どうも実感がもてない。

私にとって森が深まるというのは、谷の狭まりと尾根筋の高まり、
そういう地形の変化とセットでなければ不自然なんである。

*

日本の地面は、大陸のように−地質年代が古い広い土地、といってもいい−揺るぎないものではない。
赤ん坊か子どものようなものである。

つい最近のマグマや、つい最近の火山灰が固まったものがほとんどだから、
不安定なドロドロやジャリジャリやボロボロでできている。
その上構造線が網の目のように走っていて、始終ギシギシ動く。
雨が沢山降って、土砂は始終移動する。
武田信玄には悪いが「動かざること山の如し」など、大間違いである。

海底をみればこれまた、マントルダイナミクスの渦中にあり、
地殻の火に極めて近い場所にある。

*

この国の私達は、実はそういう気配の中にいる。

海の底から富士山のてっぺんまで、諸行無常であることや、
噴火や地震の天変地異を、痛いほど知っている。

そして間違いなく、自然のその狂気のエネルギーを、民族性に内在させている。
私はそう思う。

そして同時に、そういう精神性を制御する智慧を備えている。
それは郷土文化や、自然物に対する素朴な信仰や、人と人が交わす礼節などに、ちりばめられている。

2005年05月16日(月) フリーランス時短



2006年05月15日(月) マクマーフィの最期

態度を教育目標に据えるのは間違っている、という主旨の新聞記事を読む。

昨日の日曜討論でも、やたらと「態度」という言葉が繰り返されることに
不快な違和感を感じていたから、溜飲が下がる思いでこの記事を読む。

ある態度に内在する子どもの気持ちや状況を踏まえて指導するのが教育であり、
上辺だけの「良い態度」が横行すればそれは教育の退行である、というようなことが書かれている。

*

どんな方向を向いた態度であれ、
それを達成することを目標として人から管理されるなど、
あってはならないことだ。

そんな教育などというのは、もうまるで、「カッコーの巣の上で」ではないか。
彼の映画の、徹底的に管理された精神病院の中で、従順でない態度のために
ロボトミー手術をされ、廃人になってしまう可哀相なマクマーフィは、
最後、インディアンの患者に殺されてしまうのだが、それが唯一の救いであった。

つまり、自発的な態度が法の下で制限される社会など、生きる意味も希望もない。

2005年05月15日(日) 



2006年05月14日(日) 当然とは何か

障子の張替えは果てしもなく続く。いささかうんざりである。
思うように綺麗にいかないのが、それに拍車をかける。

傍らにラジオ。日曜討論を聴く。教育基本法改正についての論議。

自民党の甘利氏という人の、
「もうこれは、あまりに当たり前のことですから」という発言。
愛国心に関する部分についての発言である。

この人は、当たり前という概念が如何に脆いものであるか分かっていないか、
そうでなければ、討論の場で論理的に説明することを放棄している。

当たり前なこととそうでないことなど、いとも簡単に引っ繰り返る。
今日の非常識が明日の常識となることは、起こり得る。

脆いだけではない。それは人々の思考を止めさせる危うさを備えている。

常識です、だの、当たり前のことです、というのは、キャッチセールスの常套句であり、
これで、年寄り方が、馬鹿ほどもする健康食品や布団を買わされている。

*

政治家がこういう物言いをした時、
為政者でない者は緊張感をもって受け止めなければならない。

2005年05月14日(土) 慕情の日
2004年05月14日(金) 三倍速の一日



2006年05月13日(土) politeであること

新聞に、辻井喬氏の連載。

ここ半世紀ほどわが国に失われていたのは共同体だったのではないか、
というところから、氏の思索が始まる。

村落共同体などの地域共同体は、戦時中、軍閥と財閥の連合政府により権力の末端組織として徹底的に利用されてしまった。

その結果、敗戦後の社会に、共同体に対する忌避の感情がみなぎってしまったのは当然である、と氏は分析する。

共同体は個の成立を妨げ、社会を前近代的な状態に引き留めてしまう現況と長らく考えられてきた。しかし、そろそろ個人の自立を妨げない共同体、共同意識の可能性について、冷静に考える時期が来たのではないか、と結んでいる。以下抜粋する。

「この共棲思想の根本は、自分とは違った価値観をもった者の存在を認める、彼らにも存在し活動する権利があると承認するという態度、あるいは思想、哲学ではないか」

*

信州のこの辺りでは、まだ「自立を妨げる共同体意識」が健在で、
私をしばしば困惑させる。そんな時、だから田舎は嫌だな、と意地悪く思う。

一方で辻井氏の言うように、共に生きている、理解しあう、分かち合う、という感覚は、
現代社会に必要な幸福感として、迎え入れられるだろう、という気もする。

という訳で、すれすれの所で熟考し、辻井氏の主旨を受け入れる。

*

礼儀や誠意というのは、共に生きるためにある。

人との距離感が、もう一生会わないし関係ないし、などという捨て鉢のものであれば、
礼儀は不要だし、ゆっくりと時間をかけて人を理解することもない。
必要なのは瞬間的に−金や見た目で−関係の優劣だけを決める、マントリング行為だけである。

礼儀や誠意は、人間ならではの所産である。思いやりも同様である。
私達が望むのは、動物の群れか、それとも人間の社会か。

*

地方のコミュニティというのは、「一生会わない」などという距離感を作ることが難しい。主要都市ならともかく、町村レベルではまず不可能である。

そのことは、politeであろうとする人と、too familiarに陥る人の両方を創りだす。

幸福も不幸もその中にあるのだが、しかし、マントリング行為よりはましかもしれない。

2005年05月13日(金) どこまで東京
2004年05月13日(木) 資質と備えの話



2006年05月12日(金)

強い日差しの中、所用で彼方此方奔走す。

川沿いにある、饂飩屋のような茶店のような、馴染みの店で一服。
おばさんに熱いコーヒーを淹れてもらって、一息つく。

川向こうの桐の木は、紫色の花が満開である。
放心して珈琲をすすりながら、窓枠ごしにそれを眺める。

この辺りは古い町だから、屋敷だった土地に残っているのだろう。
結構な桐の大木が、味気ない月極駐車場の隅っこなんかに生き延びている。

春と夏の間、藤みたいな豪奢な「絵札」にはなれないけれど、
かつて存在した、丁寧な暮らしぶりの記憶をとどめるように、
静かに優しく花を咲かせるこの淡い紫の桐花が、私は結構好きなんである。

2005年05月12日(木) 



2006年05月11日(木) 家が鳴る

強い風と雨の夜。

この家は古いから、窓枠やなんかが直ぐにガタガタ震える。
雨も、ボツボツと屋根を叩き、家の中に鳴り響く。

Aは怯えるし、Hはうるさいと言うけれど、
私は、なんだか楽器みたいな家で、楽しいと思う。

2005年05月11日(水) 
2004年05月11日(火) もう春ではない日



2006年05月10日(水) 3時間と一生

仕事の緊張感をもってして、人と会う。
実に久しぶりなことである。

帰りがけに、加山又造展。

*

自分の精神世界を余すことなく投影するのが、芸術作品だと思っている。
だから、それを歩留まり高く作品に投影することができる芸術家の、
その作品を通しで鑑賞することは、意味深い。

挑戦的である青年期、試行錯誤のもとに新たな境地を開く壮年期、
気負いなく、晴れ晴れとしている老年期。

鑑賞者の私は、ほんの2時間か3時間、生涯を通した作品と向き合うだけで、
何だか一生を生きたような気分になってしまう。

屏風絵や銅版画なんかの、いずれの作品も、この作家がある時期に放った、
密度の濃い時間とエネルギー−思いと言ってもよいのかもしれない−が詰まっていて、
それが生々しいほどに匂い立つ。
人の思いというのは、物理を越えて存在する。

*

そして、幾人かの芸術家がそうであるように、
この人も、終戦直後の作品は、絶望的に暗い。
生き残ってしまった罪悪感のようなものに満ちている。

2005年05月10日(火) 夢ログ
2004年05月10日(月) 命の著作権



2006年05月09日(火) 放送網の占拠

NHK改革などを議論している竹中平蔵総務相の「通信・放送の在り方に関する懇談会」が今月末にまとめる報告書で、NHKが保有しているチャンネル数を減らす方針を固めた、というニュース。
削減するチャンネル数は「2つ以上」と発表されている。

*

NHKが保有しているのは、次の8チャンネルであり、
この中で、ラジオ1波と衛星1波の削減が想定されている。

地上波テレビ総合
地上波テレビ教育
衛星テレビBS1
衛星テレビBS2
衛星テレビBSハイビジョン
ラジオ第一
ラジオ第二
FM

*

公共放送網を減らすというのは、公道を突然廃止するようなものである。
そして放送は、革命とか国の大事があるときに、放送所が占拠されたり死守したりするように、民主主義とか自治と密接な関係にある公共インフラである。私はそう認識している。

そして公共放送は、何といっても、
あの、洗脳をしかけるようなアドバタイズメントに汚染されずに
深みのある情報を入手できるという意味で、優れているんである。

*

小さな記事だけではよくわからないけれど、
コーポレートガバナンス(企業統治)の強化などというNHK改革の方向性は、
間違っていると思う。

第一、改革の本来の目的である、NHKの相次ぐ不祥事や受信料不払い増加と、
一体何の関係があるというのか。

様々な不信感と、気持ち悪い影を落とすニュースである。
不便になる、というようなレベルではない。

2005年05月09日(月) 筋力不足
2004年05月09日(日) さらば黒ヒョウ



2006年05月08日(月) 教育騒乱

教育基本法改正案に関する、古山明男という方の記事。

この法案は既に閣議決定され、国会での審議が見込まれている。
そして、教育の目標として「愛国心」や「公共の精神」をねらいとする
文言が含まれることで、現在、議論の渦中にある。

古山氏の文章を、一部記す。

「…教育基本法を改正する案が国会に出てきた。教育を根本的に見直すというのが謳(うた)い文句だが、根本的に見直したとは、思えない。つまり、戦後60年がたって、文科省が教育を指揮する仕組みそのものを検討する時期に来ているのに、いまだに文科省が指揮するやり方だけいじっているのである。」

学校教育の責任者は教育委員会とされているにもかかわらず、
文部科学省が院政体制でもって実質的に管理し、
教育現場は子ども達ではなく霞ヶ関を向いている。
そのシステムに問題があるのだ、と古山氏は主張している。

*

個性尊重教育も、ゆとり教育も、学力向上教育も、文部科学省がそう言ってきたから実践している。

教育現場に漂う主体性のなさを、子ども達が肌身に感じないわけがない。

その証拠に、ある日突然教科書を黒く塗りつぶさせられた、
戦後の子ども達の証言がいくらでもあるではないか。


もう少し言うと、基本法と名のつく法律の、理念に関する条文部分は、
刺身のツマみたいな存在感であるもの−「国民の健康と福祉の推進に寄与する」様の−と常々思っていたのだが、

最近の法案のそれからは、何か同意できない思想を押し付けられるような、
嫌な存在感を感じる。

2005年05月08日(日) Ping9



2006年05月07日(日) 男合宿

家に戻る。

インドへ行く仲間と合宿みたいなことをしていたHも、家に戻っていた。
KさんもH君もOちゃんも、休日はなかなか集まれない仕事をしているから、
この連休の数日間で、具体的な計画を練ることができたのらしい。

やはり、一緒に同じ時間を過ごすということは大事だ、とH。
色々な相互理解が深まるんだ、と、真面目な顔をして報告する。

馬鹿言ってんじゃないよ、
と心の中で思い、遠慮なくそういう表情をする。

そのカッコいい台詞の上に「家族が」をつけて、
もう一度言ってくれ、と思う。

男連中で集まった後、大抵この男は、
こういう変な一途さを家に持って帰って来る。
嬉しそうに、張り切って。

それがもう、私には、
プラモデルやら昆虫採集に夢中になる小学生にしか見えなくて、
悪いと思いつつ、何か意地悪な気分を抑えることができない。

2005年05月07日(土) 悪の研究
2004年05月07日(金) 不機嫌スパイラル



2006年05月06日(土)

山の家。ゲストの方々は、皆帰り支度。

蓬を摘んで草餅もやったし、
ワラビもウドもタラノメも沢山摘んだし、
竹の子もなんとか顔を出した。
桜もウメも桃もヤマブキも、節操なく一度に開花した。

遅い春だったから、野遊びが楽しめるか心配だったけど、
よかった楽しかった、また来るねと言ってもらえたので一安心。

2005年05月06日(金) 姿を現すとき
2004年05月06日(木) 200年前の育児放棄



2006年05月05日(金)

再び山の家へ。来客多く賑わっている。
山へ行って、間伐した後のカラマツ林を片付ける。

小枝、中枝、大枝にきっちり仕分けして積み、そのうえ、
林の中を箒で掃くまでして綺麗にするTさんの山仕事を見た後だから、
ちょっと真似をして丁寧にやってみる。

Aは、沢沿いでフジヅルのブランコに乗って遊んでいる。
絡まっているヤマザクラには災難であるが、
ツルを伐るのはもう少し後になりそうだ。

2005年05月05日(木) ヒール宣言
2004年05月05日(水) 少親化社会



2006年05月04日(木) いつまでもこどもの日

ラジオを大きな音で流しながら、障子の張替え。

Aと二人で、障子紙をはがす。
最近は障子紙はがし液なる、便利なものが売っている。

「明日の子どもの日にちなんで…」と言うのでラジオに聞き耳を立てたら、
「今日のテーマは「子どもっぽい大人」です。」ときた。

がっくり、である。馬鹿にもほどがある。
せめて「大人っぽい子ども」にするべきだろう。

大人が、大人として自覚することができない。
それが少子化の最大の問題だ。

大人は引っ込んでいてくれ、と頭に血を上らせながら、
障子紙をバリバリ、とやりたいところを、

後々面倒なので、我慢してそうっとはがす。

2005年05月04日(水) 沢筋
2004年05月04日(火) 


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