
しもさんの「新聞・書籍掲載文」
しもさん
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1995年01月22日(日) ■ |
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役割拡大する世紀の大発明(36歳) |
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朝日新聞 朝刊(テーマ 戦後50年・テレビ)
私の小さいころ「テレビっ子」という言葉があった。 おじいちゃんに子守されていた子供は「おじいちゃんっ子」、 おばあちゃんに子守されていた子供は「おばあちゃんっ子」、 そしてテレビに子守されていた子供を「テレビっ子」と 使い分けていた記憶がある。 前記ふたつの言葉はいまだに使われるが、 「テレビっ子」だけが最近聞かなくなった気がする。 なぜか? 答えは簡単である。ほとんどの子供が「テレビっ子」だからである。 もちろん、育てる親も「テレビっ子」が大半であろう。 「テレビで育った親」が「テレビを見ないで、勉強しなさい」と 言うのには無理がある。 「本を読まない親」が「本を読みなさい」という論理と同じように 子供に対して説得力がない。 問題は、今世紀の大発明となったテレビとの付き合い方であろう。 現在角界で活躍している、若者から中高生の中にも、「テレビっ子」はいる。 「巨人の星」を見て野球選手にあこがれ、 「新日本紀行」を見て日本の各地に思いをはせた。 「紅白歌合戦」で歌手になろうと夢を見たはずである。 そして実現した。 そんな彼らを見ると、テレビが「人づくり」に貢献していると思えて仕方がない。 CATVも含め、マルチメディアの動きが進む中、 テレビが果たす役割はこれからも拡大すると予想される。 このすばらしいハードを使いこなせば、莫大(ばくだい)な情報が手に入る。 肝心なのは、あふれる情報から、自分に必要な情報だけを整理する選択能力である。
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1995年01月20日(金) ■ |
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自然の脅威を目の当たりに(36歳) |
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静岡新聞 朝刊(読者のことば)
テレビ画面は、地震の被害の大きさを報道している。 ズタズタにされた神戸市の街並みは 「チェチェン情勢」を特集していた画面と変わらないのに驚いた。 今度は、関西が自然を襲った。昨年は東北、その前は北海道。 どうも周りから、じわじわ攻められている気がしてならない。 静岡県民なら、一度は感じる恐怖ではなかろうか。 ふと、何十年も前に見た小松左京さんの「日本沈没」が脳裏をよぎった。 最後は富士山の大爆発。 そんなばかな・・と思いながら、ちょっぴり不安になる自分がいる。 ノストラダムスの大予言も浮かんできた。 あらためて「自然の力」を思い知らされている。 「地球にやさしい」「人にやさしい」という言葉を耳にするが、 今まで好き勝手に「いじめ」ておいて、 今更何を言っているんだという人が思い出される。 今回の地震を含めた地球環境、最近のいじめを含めた教育環境も、 口先だけの討論でなく、危機感をもって本気に行動しないと もっと大変なことになる。それからでは遅すぎる。 できることから、できる時間から、そして出来る人から・・。
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1995年01月19日(木) ■ |
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被災地援助に全力あげよう(36歳) |
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朝日新聞 朝刊(声)
多額の税金を、どんな目的で何に使うのか、 国も地方も、もう一度考えてみる必要がありそうだ。 今、一番必要なのは、地震で被害にあった地域の復旧に、 出来る限りの税金を使うことではないだろうか。 いくら自治体が「ゆとり」や「文化」 「豊かさの実感」などを掲げても、 寝たい、食べたいという生理的欲求や、今までのような、 雨風をしのぐ家や危険から自分を守る安全の欲求が 満たされない限り、絵に描いたモチとなる。 本当に優しい国民は、 税金の大半を地震の被災地に使っても文句は言わないし、 税金以外のボランティアや義捐金という形で 助けあおうとする意識をもちあわせている気がする。 今こそ、国や地方に限らず、安全な状態の国民が、 危険にさらされている国民の力になる努力をしたい。 いつ立場が逆転して、 自分が危険にさらされる側にまわるかわからない。
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1995年01月10日(火) ■ |
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心の言葉に聞く耳を持とう(36歳) |
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毎日新聞 朝刊(ふおーらむ)
今年は「聞く耳を持ちたい」と思う。 それはまさしく、昨年起きた悲しい出来事に端を発している。 このコースは危険だ、走りたくないよ、とつぶやいた アイルトン・セナ。 いじめはつらいと叫んでいた大河内君の自殺。 彼らの死は、本当は救えた死ではなかったのか、 今一度考えてみる必要がある。 本人達の心から発せられる言葉に、だれ一人真剣に受け止め、 耳を貸さなかったために起きた事件ではないだろうか。 娘も今年は小学五年生になる。 顔を合わせる時間が減ってきた分、 彼女の考えていることがわからなくなってきたのも事実である。 少なくとも、娘の主張に対しては、 素直に「聞く耳を持ちたい」と思う。
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