「硝子の月」
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「そうだわ、うちにお泊まりいただきましょう」 「お嬢様!」 屈託無いアンジュの言葉に、リディアの声は悲鳴に近い。ティオは多少の同情を覚えた。 「なぁに?」 「『なぁに?』じゃありません!」 「だってうちはお部屋がたくさん余っているわ。建国祭のこの時期に宿を取るのは大変なのでしょう?」 「そういう問題ではありません! だいたい、旦那様には何と説明なさるおつもりですか?」 「そうです。そこまでご好意に甘えるわけには参りませんわ」 リディアに続いてルウファが恐縮そうに辞退すると、アンジュは涙を浮かべて彼女を見る。 「どうかそんなことをおっしゃらないでください。私、もっと旅のお話を伺いたいのですわ」 どうやらすっかり彼女を気に入った様子である。 「ねぇ、リディアからもお願いして。お父様には私から謝りますわ」 「っ……」 荷台側で従者が言葉に詰まると、御者台の男が溜息をついた。 「諦めろリディア。お嬢様がこう言い出したらお前の負けだ」 おそらく長いこと彼女等を見守ってきたのであろう男の言葉には深い含蓄があった。 「……お客人、お嬢様の仰せです。どうぞ屋敷にご滞在ください」 溜息混じりの少女の言葉に、ルウファが小さくガッツポーズを取ったのを、ティオは見逃さなかったのだった。
「やっぱりそうでしたか」 一方のアンジュは、そんな水面下のやりとりには全く気付かずにふんわりと笑う。 「今年の建国祭は盛大らしいですよ。私もとっても楽しみで。 ああ、もしよろしかったら、お祭りではご一緒させて頂いてよろしいかしら?」 「――は?」 驚いたのはティオたちばかりではなかった。リディアは声こそ上げなかったものの、明らかにぎょっとした顔でアンジュを見ている。
「ぶしつけですが、ファス・カイザにはどういった御用で?」 リディアは切れ長の瞳でじっとルウファ達を見つめた。 男装のよく似合う中性的な美貌には、穏やかな口調と裏腹に静かな威圧感のようなものが感じられた。当人は笑顔を浮かべているのだが。 「ええ…実は」 『伝説の硝子の月を探しに…』なんてシラフで言えるわけがない。さて…。 しかし、ルウファが刹那の逡巡を見せる前にアンジュが口を挟んだ。 「リディアったら。この時期に首都に行くなら建国祭に決まってるじゃない」 質問に隠れた意図なぞ、まるで気付かないのだろう。アンジュは不思議そうに忠実な従者を見つめる。 「へえ? 建国…ぐえ」 「ええ、そうなんです。第一王国の記念すべき式典ですものね」 アンジュ達の死角から入った肘打ちを見て、グレンに同情するのと同時に隣に座らなくて本当に良かったと心から思うティオであった。
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