「硝子の月」
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いっそ大声で笑ってくれればいい。自分の目が覚めるまで、馬鹿らしいと完膚無きまでに。 それは夢なのだと。 「夢か」 呟きは群集のざわめきに飲まれて消える。 押され押しのけながら伸ばした手が、こちらを振り返る女の手首をつかんだ。熱い。群集の熱気よりも尚。 (夢か) (これが) (――これが) この熱さが夢ならば、世界など溶けて消えてしまえ。 「グレン?」 呼ぶ声は戸惑いか、それとも促すだけの確認か。 なんでもいい。名を呼べばいい。何度でも繰り返し。 誰の思惑も知らない。自分はただ自分のために。 「グレン」 「――、ああ」 祈る。もしかしたら、産まれて初めて。 硝子の月が欲しい。他の誰でもない自分のために。
そして何故か、自分が『硝子の月』を目指そうと思った時のことを思い出す。
――ただ、見てみたいと思った。
それだけ。 スリを覚えたのは必要に迫られてだった。いつも貧しくて、幼少時代には腹一杯になった記憶など無い。 そんな生活だったのに、『硝子の月』に富を、権力を、その他いかなるものをも求めようとは思わなかった。 ただ自分が生まれ育った国にあるという伝説のそれを確かめてみたくなっただけのことで、何も変わらなかったとしても構わなかった。 けれど今は、何かを望みそうな自分がいる。 遠い伝説だったそれの存在が近付いて現実味を帯びてきたからなのか、もっと別な理由からなのか。 「遅いぞ」 女の声に我に返る。 「こんな人混みの中だってのに、お前が早いんだよ」 この群衆は、自分が『硝子の月』を求めているのだと知れば笑うだろうか。
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