日記でもなく、手紙でもなく
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今朝TVのニュースを見ていたら、日本でも炭疽菌騒動の話。 白い粉が落ちていて、真ん中はまあるく粉がない状態を誰かさんが見つけて、これは、すわ炭疽菌と考えたそうですね。 実は、大福を落として、その本体だけは拾い上げ、白い粉がその周囲に残ったということらしいのですけど。
同様の話が、女性の白粉だったか、ファンデーションだったか、化粧をしていた女性が、パフをやはり落としたらしくて、やや茶色がかった粉が地面に残っていたそうです。
病こうこう(膏肓)ということばを思い出しました。 TVでは、こんな状態なのだから、そんな粉はちゃんと拭き取っておくべきだ、というコメントをしていましたけど、果たしてそうすべきかどうか。変な形で拭き取られているほうが、私には逆に怪しい感じがしてしまいます。
大福を落とすほうも、落として拾い上げられた後の白い粉を見て騒ぐほうも、どっちもどっちという感じですが、それを新聞にとりあげてみたり、TVで騒ぐほうが、私には苦々しくも思えてくるのです。本当に、小学生のホーム・ルームみたいにしか見えてこない....
深夜のニュースを見た後、ケーブルTVで何かやっていないか、番組表を見ると、<時代劇専門チャンネル>で、「雨あがる」をやっていて、ちょうど始まったばかりの時刻だった。 ついつい最後まで見てしまうことに。
主役・寺尾の役どころは、出仕の道を探している浪人役。武道はなにしろ抜群なのだが、なかなか勤め先が決まらず、その奥さんと一緒に旅を続けている設定。 旅の宿で一緒になった町人たちにも、腰の低い対応をしているところが、結構役にはまっている。
長雨が続き、川が渡れなくなって、宿泊客の気分が徐々にすさんできたときに、奥さんからもかたく禁じられている賭け試合をして金を作り、宿の全員で酒盛りをすることになる。これが、後々尾を引き、全体のストーリーと関連する。 大名駕籠に乗って宿に戻ってくるシーンや、最後に近いところで、それまでは夫唱婦随を絵に描いたような奥さんが、啖呵をきるところなど、印象に残される場面が多々出てくる。 2000年に制作された作品。当然、良い雰囲気で自然が残っている、あるいは当時のような街道が残っている場所をうまく見つけて撮影できているから、この映画が成立しているのだろうが、それにしても撮影場所の見つけ方と、(編集上での)つなぎ方にも感心する。
ラストの余韻が心地よい。 全てを語らずに、美しい海の見える山なみの道で浪人夫婦が立ち止まる。賭け試合をしたという理由で、浪人を召抱えることを一度は止めたものの、奥方に一言言われて考え直した殿様の指令で、配下の武士がその浪人を馬で追いかけるシーンが、2回ほど入った後で、キャストのクレジットが流れていく。
原作を知らなかったのだが、そのクレジットの最後で、ああ、やはり周五郎の作品だったか、と頷いてしまう。 うまく見られてラッキーだったと思わせる作品。
炭疽菌ばら撒き騒動も、テロと断定されつつあります。 それでも今までは、アメリカ合衆国内の騒ぎと、対岸の火事のように見ていたところがあるように思います。
ところが、これがケニアに飛び火し、どうも同じようなテロ絡みのものらしいし、それだけではなく更にアルゼンチンにも不信な郵便物があって、炭疽菌の疑い濃厚という記事をみかけたりもします。
こうなると、一気に不安が広がってきます。 対岸の火事どころか、明日はわが身かもしれません。日本には、ワクチンも用意されていない、というようなことも、一層不安感を高めてしまうことにもなります。
たまたま、昼に別の会社のSさんとお茶を飲んでいたとき、そんな話もでてきました。 「Sさんのところ、自分の席まで、アメリカのほうから、封書とか定期刊行物とか結構届くでしょう?」と聞くと、待ってましたとばかり、「だから、急にこれはヤバイと思って、どうしようか――と」。 「やはり、使い捨ての手袋と、マスクを用意しておくとか――」 「いや、その前に郵便物を触る人が誰もいなくなるかも。」
やはり、ケニアへの飛び火記事とかを見ると、誰しもそんなふうに感じてしまうようです。 <日本は狙われない>という保証はどこにもありませんし、そこがまさにテロが本来的に持っている問題の核心です。テロ根絶というのは、並大抵のことでは不可能だということも、やはり心にとめておかなくてはいけません。
持久戦というよりも、神経戦みたいな気配に変わり始めているような兆候を感じます。
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