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□ 覚書
鎮守の森 宮脇昭 著 曹洞宗 板橋興宗禅師と著者の対談より
宮脇 : 私は以前、ハーバード大学で開催された「エコロジーと神道」という国際シンポジウムに招かれ、「鎮守の森を世界の森へ」と題して講演をしたことがあります。四日間の日程で、さまざまな講演を聴いたり、他分野の学者たちとも意見交換をしているうちに、あらためて仏教や神道の重要性に気づいたんです。 ヨーロッパでも、かつてはギリシャ神話の世界、つまり多神教があったわけですが、それをプリミティブだ、原始的だと言って、現在のような一神教に発展させてきた。でも、そういった一神教がたった二〇〇〇年で地球をだめにしてしまったんです。唯一神や人間が中心の教義や思想であったために、他の生き物や自然環境は征服し、利用するためのものだった。 板橋 : 人間様のために大自然を利用することが文明であり、進歩であると信じていた。 宮脇 : そうなんです。一方、プリミティブであんなのは宗教じゃないと思われてきた日本の仏教や神道には、自然との共存思想があった。八百万の神だとか、神も仏もごちゃ混ぜにしたような何かわけのわからん東洋の宗教が、自然と共に発展し、鎮守の森のような自然を育んできたのです。たしかシンポジウムでは、ナポリ大学の教授がこんなことを言っていたと思います。「四〇〇〇年の歴史を持つ自然と共生した日本の自然宗教が、ごく最近、一〇〇年足らずの間に、一部の人によって間違って利用されたために、今、多くの日本人が宗教に無関心である。鳥居とか、神社とか、鎮守の森と言っただけで拒否反応を起こす。これは非常に不幸なことである。日本人は四〇〇〇年続いてきた神仏混淆の宗教をもう一度見直すべきではないか」と。 板橋 : 同感ですな。外国の学者がそのように指摘したのですか。驚きです。仏教の「衆生」という言葉には、人間を含めた、生きとし生けるものという意味があります。人間を特別扱いしていないのですね。動物も植物も、そして人間もみんな一緒にして、「一切衆生」といっているのです。 宮脇 : しかし、その大切な思想も、今の日本社会では片隅に追いやられています。公立の学校教育の中で、宗教はほとんど触れられていないんですね。ミッション系や仏教系の私立校にでも入らない限り、宗教についての知識が足りないまま社会へ出ることになる。本当に不幸な時代だと思います。 板橋 : だからこそ、鎮守の森という存在が重要なのかもしれませんね。環境の保全やら宗教と自然の深い結びつきを学ぶには、本当に最適の場所です。
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