解放区

2002年10月30日(水)

ある船に火災が発生した。船長は、乗客をスムーズに海へ飛び込ませるために、

イギリス人には 「紳士はこういうときに飛び込むものです」
ドイツ人には 「規則では海に飛び込むことになっています」
イタリア人には 「さっき美女が飛び込みました」
アメリカ人には 「海に飛び込んだらヒーローになれますよ」
ロシア人には 「ウオッカのビンが流されてしまいました、今追えば間に合います」
フランス人には 「海に飛び込まないで下さい」
日本人には 「みんなもう飛び込みましたよ」
中国人には 「おいしそうな魚が泳いでいますよ」
北朝鮮人には 「今が亡命のチャンスですよ」
大阪人には 「阪神が優勝しましたよ」
韓国人には「日本人はもう飛び込みましたよ」

と伝えた。



2002年10月25日(金) チゲ〜。

先日学校の学食で鍋が出ていたので、迷わずチゲを食べた。美味かった。やったー。寒いときには辛いものに限るですね(日本語変?)。まさしくキタ━━━(゚∀゚)━━━!!!! って感じ。

あまりに感動したのでこっちにも採録。そんなんばっかしやな。でもさるさるはてめえの携帯からは読めないので。

いわさきちひろ曰く
「人はよく若かったときのことを、とくに女の人は娘ざかりの美しかったころのことを何にもましていい時であったように語ります。けれど私は自分をふりかえってみて、娘時代がよかったとはどうしても思えないのです。…(中略)…生活をささえている両親の苦労はさほどわからず、なんでも単純に考え、簡単に処理し、人に失礼をしても気付かず、何事にも付和雷同をしていました。思えばなさけなくもあさはかな若き日々でありました。…(中略)…若かったころ、楽しく遊んでいながら、ふと空しさが風のように心をよぎっていくことがありました。親からちゃんと愛されているのに、親たちの小さな欠点が見えてゆるせなかったこともありました。」

いわさきちひろは偉大だ。とあらためて感じると共に、すっとこういう引用ができる人はすごいと感じた。このひと、学校では結構のほほんとしているのだが。

来週からはとうとう病院での生活が始まる。もっと忙しくなるのかな。
ガ━━(゜Д゜;)━━ン!



2002年10月23日(水) いやはや

ずっと溜めに溜めていた仕事にようやく手をつけたが、どうにも気分が乗らない。もう今日はおしまい。翻訳の仕事も全然進んでないし。っていうかやる暇がないし。は・・・。


先日の飲み会は楽しかった。最後数時間は誰かさんと「お○○○○!」とひたすら叫んでいた。下ネタ万歳。まじめな議論なんてヒマでヒマでエネルギーがよほど余っている奴がするものだ。っていうか、世の中の議論のほとんどなんてどうせ下らないに決まっている。どーでもいいことによーそんだけのエネルギーを使うことができるわホンマ。抽象性をひたすらこねくり回すだけの奴なんて、ほんまにヒマなんやろうな・・・。もっとやることありませんか? あなた。

どうせならば建設性のかけらもない話にひたすらまい進してげらげら笑っている方がよほどまし。オンとオフの切り替えのできない人にはなりたくねえなあ。

今日はもう寝て、明日やっつけましょ。

いわさきちひろの言葉、良かったなあ。ちょっとじんと来た。

嗚呼、来週からはスーツ生活。なんてこった・・・。


今日の言葉
「馴れ合いは好きじゃないから 誤解されてもしょうがない」
(終わらない歌:ブルーハーツ)



2002年10月01日(火) 近況

最近は、親しい友人と二人でbehavioral scienceの勉強会を朝からしている。「朝練」やね。部活かい。テキストは英語で、内容は心理学的・精神学的なものが多いので、知らん単語ばっかりにはじめは戸惑っていたが、最近はやっと慣れてきた。これまでは一人で勉強を進めてきたのだが、数ヶ月で5章くらいしか進まなかった。友人とは今一日2章のペースでやっつけている。おお。すげえ。人と一緒にやると、これまでもモチヴェーションがあがるものなのか。

ACLSのワークショップ。運営メンバーの一人なので、毎日たくさんのメールをやり取り。疲れるが、結構面白い。

今度WHOの出している本を和訳するプロジェクトチームに入った。まずはweb上で公開するらしいが、出版されたらてめえにも印税が入るのかな。入ってもわずかやろうなあ。和訳は楽しいがとても疲れる。どうナチュラルな日本語に仕上げるかに頭が痛い。

感染症についての勉強会で講師をやることになった。ちゃんとできるかどうか不安なので、明日は友人を用いての予行演習。っていうか、準備する暇がない。予行演習しながらイメージをつかんでいくしかないな。

とか言ってたら、なんと今日から居候(´∀` )がやって来るらしい。ガ━━(゜Д゜;)━━ン!

こんな感じでやんす。なんとなく近況など。
ではまた。



2002年09月12日(木) ビクトル・ハラ

ビクトル・ハラVictor Jara(1938-1973)は,シンガーソングライターで,チリではビオレータ・パラVioleta Parra(1917-1967)とならび「新しい歌」運動の旗手の一人だった。

 ハラは,チリ南部のチジャン地方ニュブレ県に生まれ,民謡とギターが得意だった母親によって歌に目覚めた。やがて,首都サンティアゴへ出た彼は,チリ大学で演劇を専攻する傍ら,「クンクメン」と名乗る民俗音楽研究グループに加わり,チリの南部や中部に,宗教的あるいは世俗的な民謡を訪ね歩いた。

 大学を卒業した後,ハラはしばらく劇団を率いて活動。1965年には年間最優秀の演出家として表彰されている。しかし,彼は次第に音楽家への道へ傾斜していった。そして,このころからハラは単に伝統的な民謡をうたうだけでなく,民衆の哀歓を語り,社会の不正に対して抗議の姿勢をとる歌手としての姿勢を鮮明にしていく。このような歌い手としての姿勢はハラだけのものではなく,当時(そして現在も)貧富の差が非常に大きかったラテンアメリカ全体に見られたもので,「新しい歌(ヌエバ・カンシオン)」運動と呼ばれる。

 1966〜7年頃から,ハラは本格的にソロ歌手としてうたい始めた。1969年には,チリのカトリック大学が主催した「新しい歌の祭典」で,彼のうたう「耕す者への祈り」が大賞を獲得した。続いて1971年に今度は年間最優秀の作曲家としてレコード大賞に輝いた。


 しかし,1970年に社会党のアジェンデを大統領とする人民連合政権が誕生した頃から,ハラたちは右翼からの攻撃を受けるようになってきた。

 人民連合は,社会党を中心に右はキリスト教民主党左派から左は共産党にいたるまで,幅広く進歩勢力をまとめ,社会主義の実現をその政綱に掲げていた。そのため,アジェンデが大統領に選ばれると,選挙で誕生した社会主義をめざす政権として,世界中の注目を集めた。また,「新しい歌」運動は,人民連合と互いに協力関係にあり,政権誕生のために大きく寄与した

 人民連合政権は,チリの主要産業である銅鉱山を米資本から取り戻して国有化したり,その一方でミルクの無料配給で乳児死亡率を低くするなど,貧しい一般民衆のための政策を次々と実施した。そのため,それまで甘い汁を吸ってきた大資本,そして彼等と協力関係にあったアメリカは,政権転覆をたくらみ,陸軍のピノチェット将軍を援助してクーデター計画を進め,また,ハラたちの「新しい歌」運動に対する執拗な妨害を繰り返したのだ。

 そして,1973年9月11日。ついにクーデターが起こった。アジェンデ大統領は殺害され,ピノチェットが政権についた。ハラは軍部によって拘束され,サンティアゴ市内のボクシング・スタディアムへ収容された。そこで過ごした二日間,彼は歌をうたって仲間たちを励まし続けた。そのため,二度とギターを弾けぬよう両手首を折られ,顔を切りさいなまれ,最後に弾丸を撃ち込まれて絶命した。35歳だった。


http://www2.justnet.ne.jp/~mzn/jarahis.htm


ビクトルハラの曲はここで聴けます。


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い・よんひー [MAIL]

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