解放区

2014年04月24日(木) Woman




ウーマン(Woman)は、1980年に発表されたジョン・レノンの楽曲である。アルバム『ダブル・ファンタジー』に収録されている。ジョンの死後にシングル・カットされた。ビルボード誌では、1981年3月21日に、週間ランキング最高位の第2位を獲得。ビルボード誌1981年年間ランキングでは第16位。全英では週間チャート第1位を記録した。

冒頭で聞かれるジョンの囁き "For The Other Half Of The Sky." (「空のもう半分のために」)は、「世の女性陣に向けて歌いましょう」といった呼びかけである。毛沢東の詩を引用しているとされる。(Wikipediaより引用



(For the other half of the sky...) 



Woman, I can hardly express
My mixed emotions at my thoughtlessness
After all I'm forever in your debt

愛するひとよ、なんて言っていいのかわからない
気持ちはぐるぐる渦巻いて、考えもまとまらない
結局、いつもあなたに負けっぱなしなんだね


And woman, I will try to express
My inner feelings and thankfulness
For showing me the meaning of success

愛するひとよ、なんとか言葉にしてみたい
この湧き上がる気持ちと、感謝の言葉を
「うまくいく」ってことの意味を教えてくれたよね


Ooh, well, well
Doo, doo, doo, doo, doo
Ooh, well, well
Doo, doo, doo, doo, doo

Woman, I know you understand
The little child inside of the man
Please remember my life is in your hands

愛するひとよ、わかってると思うけど
男なんて小さな子供のときのまま
てめえの人生なんて、あなたの掌の上で踊っているだけ

And woman, hold me close to your heart
However distant don't keep us apart
After all it is written in the stars

愛するひとよ、あなたの心のそばにいさせてほしい
どれだけ離れていても ずっと一緒なんだよね
結局、全ては星の中に描かれているの

Ooh, well, well
Doo, doo, doo, doo, doo
Ooh, well, well
Doo, doo, doo, doo, doo
Well

Woman, please let me explain
I never meant to cause you sorrow or pain
So let me tell you
again and again and again

愛するひとよ、言わせてほしい
つらい思いはさせたくない
だから何度でも言いたいの
何度でも、何度でも。



I love you, yeah, yeah
Now and forever
I love you, yeah, yeah
Now and forever
I love you, yeah, yeah
Now and forever
I love you, yeah, yeah
Now and forever


愛してる。これからもずっと。



2014年04月21日(月) らーめん。

「ラーメンって、もともと北の方の異民族の食べ物なんですよ」

と、てめえの中国人の後輩は言った。先週末の飲み会。彼はなぜか一人ぽつんと飲んでいたので、てめえはテーブルを移った。

「僕はね。ラーメンが好きなんですよね。それも日本のラーメン。豚骨がたまらない」
「おお、中国には豚骨はないのか!」

と、酔ったてめえはいつものように適当なことを言った。

ないですよー、北の方の、牛を食べる民族の食べ物なので、基本的に牛肉の出汁ですね、と彼は言った。

「いずれにしても、漢民族の食べ物じゃないんですよね」

と、漢民族の彼は言った。「異民族」と言う言い方が漢民族っぽいなと思ったが、漢民族の面白いところは、元にしろ清にしろ、異民族の支配を認めたことがあるということ。いわば、アメリカがフランス人や日本人の大統領を認めるのと同じ(ではないけどね。もっと威力がある)。この辺が中国の奥深さだと思う。



そんなわけで、あらためてラーメンのルーツについて勉強してみた。

麺料理については本当にいろんな由来があるので、ここでは麺は捏ねて引っ張って延ばす「拉麺」のみについて扱うこととする。


もともとは、中央アジア全般で食べられていたラグマンが由来とされている。中央アジアはイスラム教の人が多く、したがって自然と用いられるのは「牛」だった。イスラム教に豚は禁忌だからな。

ラグマンは延ばした麺を和えて食べる和え麺だったが、これが中国で牛肉のスープを得て、牛肉麺となった。これが蘭州拉麺である。

以降、中国全土そして台湾にも上陸したと思われる。


ここで不思議なのは、日本における豚骨の出汁。どこからそうなったのか? 中国から沖縄に持ち込まれた時点で、「豚+カツオ出汁」になっていた理由は?


というわけで、麺料理についてはいろいろ知りたいことがある。嗚呼、てめえはいつの日か引退したら、ラーメンの由来を調べる旅に出たいぜ。そして世界中の麺料理を食べてみたいと思う。



2014年04月20日(日) セウォル号の事故について。

今日のはいろいろ思うところがあり長くなりました。


てめえは沖縄に在住していた期間中、主に奄美に行くときに幾度となく船を使って移動した。故郷に墓参りに帰る時、あるいは奄美大島に赴任した友人のところに遊びに行くときなどに利用したのだ。那覇まで戻って飛行機で移動するよりは本部港から船で移動する方が便利だったからだ。バイクも載せられるしね。

それが「なみのうえ」号だったわけで、何度もお世話になったのでその内部の詳細までよく覚えている。


その「なみのうえ」号が日本での現役を終えて、韓国に売り飛ばされ「セウォル」号として就航していたという事実を、今回初めて知った。

てめえもよく知った船であるが、外装も変えられ改造されたその姿に往年の姿はなかったので、初めは全く気が付かなかった。

てめえはいつも移動に際しては、バイクと一緒に移動していた。バイクで船に乗り込み、絶対に動かないように固定してもらってから客室に案内されていた。固定方法は独特で、船員に代々伝わる特殊な結び方で固定されていた。これは絶対に解けないのだ。

外力では絶対に解けないが、あるコツで簡単にほどける。そんな結び方を彼らはたくさん知っていた。

てめえは救急隊の方と一緒に仕事をしたことがある。沖縄の救急隊は海での救助も担当しているので、船における特殊な結び方を知っている。てめえは何種類か教えてもらった。

「これ、絶対解けない結び方やし覚えてね。でも、海の男たちはもっと秘伝の結び方があるらしいさぁ」と、彼らは笑った。

なんでそんな事を書くのかと言うと、きちんと荷物を固定していれば、こんなことにならなかったのだろうと思っていること。今回の事故では、おそらく荷物の固定が適当だったのだろうと思う。それで旋回した時に荷物が解け、遠心力がかかった結果転倒したのだろうと思っている。

「急旋回で荷物がほどけた」と言っている人がいるらしいが、てめえも知っている結び方では絶対に解けない。

ということは、その結び方を知らなかったのか、その結び方をしていなかったの二択である。バイクや車やその他の荷物をきっちり固定できるように船が作られていたことは、何度となくバイクと共になみのうえ号に乗ったてめえは知っている。



今回の事故に関してはあまりに突っ込みどころが多すぎてあきれるばかりだが、残念ながらこれがかの国の実情なのだろうと思った。こんな危ない国には二度と行かないことをあらためて固く決意したぜ。

ていうか一回目に行った時からその気持ちは変わらないぜ。てめえはいろんな国を旅行したが、二度と行きたくないと思った国はただ一つだけ。てめえが最も嫌いな「卑屈さ」を纏っている国。

そしててめえのルーツの一つである、かつ温厚な民族性の台湾人がほぼ唯一嫌っている国。そう、はっきり書くが台湾人は韓国人が大嫌いである。理由は今日は述べない。グーグル先生に聞けば回答はごろごろ転がっている。

どうでもよいがベトナム人も韓国人が大嫌いだが、これは台湾以上の深刻な理由があり、ベトナムは韓国に「謝罪と賠償」を求めても良いと思う。ていうか個人的には求めてほしい。

なぜそんなことをしないか。ベトナムがなぜアメリカにも韓国にも戦時賠償を求めないかは、韓国民は良く考えた方が良いと思うぞ。


さてセウォル号に戻る。


1.乗員が乗客を見捨てて真っ先に避難した。

救護を放り投げて乗員が逃亡。これがどれだけひどいことか、てめえは本当に空いた口が塞がらない。乗員の義務って何なのか。真っ先に逃げ出したキャプテンが異常に言われているがそれだけの問題ではないと思う。修学旅行中の高校生を誘導することなく、キャプテンを含む乗組員は真っ先に逃げた。

船長だけが逃げたのなら個人的問題かもしれんが、乗組員みんなが逃げていれば、これは集団としての問題と考えざるを得ない。

乗組員は、最後まで乗客を誘導した一人が亡くなった以外は全員助かっている。救命率29/30。対して、乗客は行方不明者を入れると救命率は約30%で、これはタイタニック号事件に匹敵する。

タイタニック号事件が起きたのは1912年で、100年以上も前。しかも夜中で、大西洋のど真ん中。時代を考えてもこれだけ悲惨な事件になったことは理解できるが、それから100年以上たった21世紀の今日、しかも朝の9時に、領海内で起きた事故でタイタニックに匹敵するってどういうことでしょうか?

しかも、タイタニックでは乗員もかなり亡くなっているはずだが、今回はほとんど生き残った。これは海の男として最低だよな。

まあこれ以上は言わないわ。明らかな人災であるということ、それが個人的な問題ではなさそうというということだけ指摘しておく。

2.大統領が視察

「お前はこんなところに来る以上の仕事があるだろ!」という罵声が被害者家族から飛んだそうだが、全く同意する。大震災の時に原発に視察に飛んだ管直人を思い出したわ。原発が爆発したのはその後だったよな。現場にとっては迷惑以上の何物でもない。

3.日本の支援を無視

領海内の事故だから難しい問題があるのだろうということは理解するが、それ以上に感情的になっているとしか思えない。

困るのは誰なのか、もう一度考えてみたらどうだろうか。といっても感情的になった方には逆効果でしょうね。自国民の生命よりもプライドの方が上なんですね。


ほかにも突っ込みどころはあるが、もういいです。てめえ的には、よく知っている「なみのうえ」号が変な風に改造されて荷物もちゃんと固定されず、変な操縦をされてあっけなく沈んだことが最も悲しい。

あと、被害者の多くが子供だったということも悲しすぎる。子供には国籍関係なく責任はない。しかし子供を見捨てて真っ先に大人が逃げるって、ああそうなんですね。


追記

三豊百貨店崩壊事件

三豊百貨店(サムプンひゃっかてん)は、大韓民国のソウル特別市瑞草区にかつて存在した百貨店。
1989年に開店。6年後の1995年6月29日17時57分(KST、日本時間同)、営業中に突然、5階建ての建物の両端の一部を残し、跡形もなく崩壊。死者502名・負傷者937名という世界的にも例のない大惨事を起こした。


聖水大橋崩落事故

聖水大橋(ソンスおおはし)は、大韓民国ソウル特別市城東区聖水洞と同市江南区狎鴎亭をつなぐ漢江に架かる橋。1977年4月に着工し、1979年10月に完成した。

しかし、わずか15年後の1994年10月21日に橋の中央部分およそ50メートルが突然崩壊。通行中の乗用車や漢星運輸(韓国語版)所属の16番市内バスなどが巻き込まれ、32人が死亡、17人が重軽傷を負った。

原因は施工段階での手抜き工事で、建設会社と市側の監督責任者が刑事訴追された。また、当時のソウル市長李元鐘が、当時の大統領金泳三によって更迭されている(後に忠清北道知事になり、2006年まで職務を行っていた)。


追記その2

どうやら原因はまさかの「過積載」。まさに想像の斜め上状態で、さすがにてめえもこのエントリーを書いた時点で「荷物量の問題」であるとは想像できなかった。

荷物を適量積んでいたという暗黙の前提で考えた結果が「きちんと固定していなかったのでは?」だった。過積載だったら、そりゃあバランス崩しやすいわな。



2014年04月19日(土) 太郎さん

記事自体がいつ消えるかわからないので、引用させていただく。ちょっといろいろ考えさせられた。

どうしてこういうことになったのだろうか? もともと施設にいた方や、自宅で介護されていたとしたら、おそらく捜索願が出ているはずなので、身元も判明しているだろう。そもそもそういう場合、持ち物にはおむつも含めて必ず名前を書いているはず。

徘徊する方々は意外とすげえ遠くまで行っていることがあり、都府県を二つ三つ越えることも稀ではないが、もちろんそれくらいまで範囲を広げての捜索はしているだろう。


とすると考えられることは?

家族が介護放棄した?

もともと独居で、外出したまま帰れなくなった?

あるいは介護していた人が何らかの急病や事故などに遭遇した?

いずれにしても、このようなケースは今後も出てくると思う。しかし行政がその気になれば身元はわかると思うけどな。


<認知症男性>身元不明のまま仮名で2年 大阪の路上で保護

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140419-00000006-mai-soci


 2年前に大阪市の路上で警察に保護されたが、名前や住所など身元が全く不明のまま、仮の名前が付けられ介護施設で暮らす重い認知症の男性がいることが分かった。男性は自分の名前が分からず、該当する行方不明者届もない。専門家は「高齢化が進み、今後このような人が増えていくのでは」と危惧している。

 大阪市は男性に対し、保護された場所にちなんだ名字に「太郎」という仮の氏名を付けた。福祉の保護を受ける手続きなどで必要なためだ。容姿などから70歳と推定して仮の生年月日も決めた。現在推定72歳になったが、入所する同市内の介護施設の職員には「実際はもう少し若いかもしれない」との見方もある。

 記者は4月上旬、介護施設を訪ねた。「お元気ですか」と声をかけると、太郎さんは「ああ」とうなずき笑顔を見せた。判断能力が不十分な人を守る成年後見人に、市長申し立てで選任された山内鉄夫司法書士らによると、太郎さんの要介護度は3。言葉を発するのが難しくトイレも介助が必要だが、足腰は丈夫でひとりで歩くことができる。

 2012年3月11日午前8時前、日曜の朝だった。同市西部にある住宅街の歩道でしゃがんでいたところを警察に保護された。水色のダウンジャケットにグレーのスエットズボン、黒の運動靴。身なりに汚れはなかった。お金や所持品はなく、名前を尋ねても「分からん」と答えた。

 保護された際にはズボンの下に介護用の紙パンツをはいており、保護前に介護を受けていた可能性がある。介護施設の職員も「介護なしで生活ができるレベルではなかった」と話す。

 その日のうちに大阪市による緊急一時保護の手続きが取られ、太郎さんは市内の保護施設に入所した。規定の保護期間(14日間)を過ぎても身元が分からず、同年3月末から現在の介護施設に入った。

 介護施設は通常、本人の経歴や病歴、家族構成などを踏まえてケアにあたる。例えば夕方に歩き回る人がいれば「子供の夕食を作るため家に帰ろうとしているのか」と理由を推測し、不安を取り除くよう努める。だが、太郎さんには保護前の情報がない。山内さんによると、30ほどの施設が入所を断り、受け入れ先は容易に見つからなかった。

 太郎さんは特殊なケースなのか。認知症介護研究・研修東京センターの永田久美子研究部長は「超高齢社会では人ごとでなく、同様のケースが身近で増えることは確実だ。これまでも太郎さんのような存在と対面しているが、実態把握も対応も進んでいない。一刻も早く本名を取り戻し家に戻れるように、国や自治体が本格的に対策に乗り出すべき時期だ」と話している。【銭場裕司、山田泰蔵】



2014年04月17日(木) 夕凪の街、桜の国。

とてもとてもとても大好きな漫画。購入してからだいぶと経つが、折に触れ大切に読んだ。おそらく、何百回も。

Kindleストアで電子書籍になっていることを最近知り、すぐに購入した。これで、死ぬまでてめえのkindleちゃんの中に入り続けることになる。そして、iPhoneでも読むことができる。

最近、この物語を読む度に涙が止まらない。そして、死ぬまでそうだと思う。



大人になってから、涙なんて出なかった。担当の患者さんが亡くなっても、悔しくて悔しくて残念で、でも涙は出なかった。いつしかそれを受け入れることが仕事になっていった。そうでないとこの仕事を続けていくことは難しい。そして淡々と死亡診断書を書く。人が亡くなることは大変なことだが、受け入れないと先に進めない。

社会人になって初めて涙が出たのは、大学の同級生かつ同僚が自ら命を絶った時。あの時、葬式の場で、てめえは周りを憚らず号泣した。自分でもそんなことになるとは思わなかった。

彼が埋葬されたとき、墓の前で再度涙が出た。それが二度目。


三度目の涙は、患者さんが亡くなった時。ずっと診ていた人で、最後は癌の末期だった。身寄りが全くなく、本人には癌の末期であることは伝えていたが少し理解の乏しい人で、本当に理解されているのかわからなかった。

そういった場合、通常は家族に詳しく説明するのだが、その家族が彼にはいなかった。

「急変した時どうするの? 方針決めてもらわないと困るんですけど」と、ナースはひたすらてめえを責めた。でも彼は、自分が死ぬ時どうしたいか? ということを理解してくれないだろうということは分かっていた。急変時の対応を彼女たちが急ぐのは、自分の仕事を減らしたいからである。てめえは全てを自分で受け入れることを決めた。

何かあったら休日でも深夜でも自分に連絡してほしいとてめえは言った。それきり、ナースからの催促はなくなった。


ある日の午前3時頃、てめえの携帯が鳴った。来るべき時が来たのだろうな、とてめえは電話を取った。

すぐに病院に向かう。彼の意識は朦朧としていて、来るべき時は近いのだろうということがすぐに理解できた。

意識が混濁していた彼は、てめえの到着と共に目を開けた。その時の彼の顔は、一瞬正気に戻っていた。

「おれ、死ぬんか?」

死ぬんか。人間の最後の疑問を思いっきりぶつけられたような気がして、てめえは一瞬うろたえた。

「ええ、お迎えが近いようですよ。」

何とか言葉を発しててめえは彼の手を握った。そう言ったきり、再度彼の意識は混濁した。

それからしばらくして、彼は息を引き取った。あらゆる延命治療は、てめえの判断で行わなかった。今後彼の親族を名乗る人が現れて、治療を放棄したと訴えられても飲み込む覚悟をして。

てめえはいつものように死亡診断書を淡々と書いた。もう朝は明けようとしていた。


全ての書類仕事を終えて、個室に移された彼の部屋に行った。顔の上に掛けられた布を取ると、まるで眠っているように安らかな彼の顔があり、てめえは思わずその場で号泣してしまった。

てめえが患者さんのことで涙したのはこれが初めてで、たぶん最後だと思う。


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い・よんひー [MAIL]

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