2014年05月23日(金) |
バイクって、危ないから乗るんだよ。 |
てめえが中型二輪の免許を取ったのは、だいたい20歳くらいの頃だったと思う。普通は免許証を見ればいつ取得したのかすぐにわかるのだが、てめえは残念なことに「うっかり失効」を1回やらかしているので正確な取得日はわからない。まあ、だいたい20歳くらいの時。
沖縄での激務から解放されて、京都に帰ってきたときに、わずかな余裕を利用して念願だった大型二輪の免許も取得した。そんなわけで、てめえは二輪に関してはすべての車両を運転することができる。ハーレーにも乗れる。いつか乗ってやる。
「で、クルマの免許はなんで持ってないの?」
とよく聞かれるのだ。確かに、世の中には二輪の免許を持ちつつクルマの免許も持っている人が多いし、あるいはまったく運転免許の類いを持っていない人も多い。しかし、クルマの免許を持たずに二輪の免許だけ(しかも大型まで)持っている人は、てめえくらいの年齢になるとほとんどいないと思う。
なぜか。クルマは安全で便利だからだ。若いうちはバイクばかり乗っていても、大人になると必要に応じてクルマに乗るようになる。クルマに乗ることができた方が仕事の幅も広がるし、荷物を運ぶのも便利だ。何より、天気に左右されない。そして多くの人は、バイクに乗らなくなる。あるいは、レジャーでのみバイクを楽しむ。
バイクに乗っていてつらいのは、天気だ。雨のときに備えてレインコートは常に常備しているし、それでも急な雨の場合は全身びしょ濡れになることもある。ここでも書いたが、沖縄で研修していた時。わずかな時間ができたので北谷にラーメンを食べにいこうと思ったら、途中で雨でびしょ濡れになって、結局食べられないまま帰ってきたのだ。
どうでも良いが、名護から北谷は結構遠い。まじめに距離を調べてみたら、なんと50kmもあった。つまり、京都市から豊中市までの距離に相当する。これは凄い。よくバイクでラーメンを食べにいこうと思ったな。しかも何も食べずによく帰ってきたなと思うわ。何と言っても往復で100kmやで。
まあ、天気に関して言うと雨なんてかわいいもので、雪で凍結した路面とかはほんまに危ない。決してこけることのないクルマの比ではない。
そう、クルマはこけないのだ。二輪は用意に転ける。従って、居眠り運転や飲酒運転はあり得ないのだ。
多くの若者はバイクに憧れて免許を取る。二輪は運転していても楽しい。しかし、とても危ないのだ。体はむき出しだし、何かあれば大怪我をする。天気にも左右される。しかし本当に危ないのはそんなことではない。本当の二輪の敵はクルマである。
二輪を敵視するような幅寄せをするクルマがいる。そしてウィンカーも出さずに左折する多くのクルマ。この場合、巻き込まれて死ぬのはバイク乗りである。二輪にずっと乗っていると、明らかな殺意のあるクルマに出会うことはよくあることだ。殺意がなくても、何気ないクルマの操作が二輪の運転者を殺すことはよくある。同じ衝撃がバイクとクルマに与えられれば、どういう結果になるのかはアホでもわかる。逆に言うと、クルマに悪意があればバイク乗りの命は簡単に左右できる。もちろんその逆はあり得ない。
そう、バイクに乗り続けるということは危ないのだ。賢明な人間はあるときにそのことに気がついて、クルマに乗り換える。
「お前もあっち側に行くのか?」と中二病なことは言わないが、バイクは危ないから乗るのだ。危ないから、安全に乗ろうとする。それはクルマ乗りの比ではない。事故を起こしても、よっぽどのことがないとクルマ乗りはまず命に関わらないが、体が剥き出しであるバイク乗りはあっさりと死ぬ。だから、安全に乗るのだ。
ウィンカーもしっかり出すし、一時停止もしっかり止まる。前後左右の確認は生命線である。何かあれば、死ぬのは自分。安全に走ることのできないバイク乗りは自然淘汰されるのだ。
そのかわり、バイクはいろんな喜びを与えてくれる。
季節が変わるとバイクでの風景も匂いも体感温度も変わる。ツーリングしていて、山に入ると空気と温度と匂いが変わったことがすぐにわかる。海に近づくと、潮の香りをふわっと感じる。
暑い夏はひたすら向かいから熱風を浴び、寒い冬は完全防寒して凍結し得る路面に恐怖しながら、部屋や人のぬくもりを求めて走る。ほんまになんでこんなことをしているのだろうとたまに思うが、これが「バイク乗り」なのだろう。
そんなわけで、長年無事故でほぼ毎日二輪に乗り続けていることは、てめえの密かな誇りである。そして長年戦い続けてきたクルマの免許を取ることはないだろう。てめえは死ぬまでバイク乗りでいたいと思う。
2014年05月21日(水) |
祖父の人生と家族について/チェインギャング |
祖母は病状が落ち着きつつあり、個室から大部屋に戻ったらしい。自分の病状悪化をきっかけに、自分の血を分けた、しかし今までいろんなわだかまりのあった家族が密に連絡を取り合うようになったことについて、彼女は密かに喜んでいるだろうと思う。
今日は仕事が終わってから実家に戻り、色々と片付けをした。今まで散々片付けはしていて、てめえの小さなときのアルバムなどいるものはすべて持ってきたつもりだった。いらないものを処分してから家を解体して更地にして売る算段だったが、解体屋からは「どうせぶっ壊すので、家の中のいらないものはそのままで良い」と言われたのでそのままにしてある。
今日は実家に探し物もあったのだ。今まで散々必要なものを持ち出したと思っていたのだが、今日はとんでもない書類を発見してしまった。これをそのままにして、家もろとも破壊されなくて本当に良かった。
その書類は、最後まで帰化しなかった祖父の「帰化申請の手続き」だった。分厚く封筒の中にしまわれていたその中には、我が家の秘密が山盛り入っていた。
祖父と祖母の戸籍謄本。祖父のものは、もちろん中華民国のものである。戸籍の中に「阿片吸引」と「纏足」という項目があったのはさすがに戦前の中華民国だと思った。そして帰化申請書から初めて知った、彼の軌跡。
彼は国民学校を卒業して、しばらくは台北で働いていたらしい。そして台北で働いていた会社を退職し、一旗揚げようと日本に向かう。海路で尼崎から日本に入り、大阪の西淀川区でしばらく働いていたようだ。
終戦時に、彼は京都に移動する。日本国籍を喪失したそのタイミングで京都に移動した理由はなんだろうか。
そして、料理好きだった彼は四条高倉で中華料理店を開業する。多分、一緒に店をやろうと誘った友人がいたのだろうと想像するが、もちろん想像の域を出ない。住居は途中で左京区に引っ越した。そしてそこで祖母と出会っている。
5年でその店を閉じ、今度は錦小路東洞院で製パンを開業したらしい。この頃祖母と一緒になり、翌年に父が生まれた。
その後の話はてめえもよく知っている。
書類の中には、中華民国に対する「国籍離脱申請書」みたいなのもあった。
しかし、結局彼は帰化しなかった。
昭和20年8月。終戦に伴って日本国籍を突然喪失したのは、台湾・朝鮮・樺太の人々であった。世界中に華僑ネットワークを張り巡らせている中国人は、基本的にその住んでいる国に帰化することを躊躇わない。そして日本国籍を喪失した台湾人の多くは祖国に帰るか、あるいは日本に帰化することを選択した。
現在、日本国籍を喪失したにもかかわらず祖国にも戻らず、日本に帰化もしていない「特別永住者」はその99%が朝鮮半島出身者である。
実家から帰ってきて、てめえは惚けた親父に尋ねた。なぜ祖父は帰化しなかったのか? もちろんきちんとした回答は期待していなかった。
のだが、惚けた父はその瞬間真顔に戻り、「全然わからん。いったん申請書まで書いているにもかかわらず最後まで帰化しなかった理由は、彼自身の中にしかないと思う」と言った。てめえはだいたいその理由がわかる気がする。そして父は死ぬまでわからないだろう。
「しかし、なぜ生活が破綻するとわかっていて、祖父は母と同居したのだろ?」
それは時代だったからとしか言いようがないと思う。今ではいろんな選択肢があるが、昭和の時代はリタイアした老夫婦は長男と同居するのが当たり前だった。当時は介護保険もなかったし、老健などの施設もなかった。同居に関しては、母も全く反対せず、そういうものだと受け入れていた節があった。
そして予想通り水と油の祖父と母の同居生活は破綻した。
もし、祖父母が同居しなかったらてめえの人生はどうなっていただろうか。
おそらく普通に平和に育ち、うまくいけばそこそこの私大に進学して、教えるのが好きだったので教師にでもなっていただろうと思う。
どっちが良かったのだろうか? 祖父に追い出されてどん底の生活を送り。
中学から高校生活を過ごした公営住宅は、小さな台所に六畳二間で風呂場には浴槽もなく、一つの部屋をリビング扱いにしてもう一つの六畳の部屋に薄い布団を三枚引いて家族5人で寝ていた。寝室扱いしていた部屋に勉強机も置いていたので、足は机の下に突っ込んで寝た。寝返りもうてない状態だったし、時に体を這う気配で夜中に起きると、台所からやってきたゴキブリがてめえの体を這っていた。
高校生になってしばらくたった時。夕食時に、てめえは風の噂で聞いた話を何気なく母にした。
「医者かパイロットになったら、死ぬまで金に困らないってほんまか?」
本当に何気なく聞いたつもりだったのに、母は顔を真っ赤にして怒った。
「あのな、金のことを考えて仕事を選んだら、あんた最低やで。ええか、うちは確かに貧乏や。でもお金があったからと言って幸せかというとそうではない。お金があると、不幸ではないことが多いけど、幸せはお金では買えないんや。今うちは貧乏やけど、家族がそろってなんとかご飯は食べているし、ひしめきあってはいるけど夜寝る布団もある。しかもみんな元気や。おじいちゃんに追い出されたときのことを思い出してごらん、あのときと比べると私は、今の状態はこれ以上ないくらい幸せや。だからあんたも、お金のことなど考えずに好きな道を選んだらええ。」
母の気持ちはわからないでもなかったが、若いてめえは卑屈さの固まりだった。そのパワーがあったからあり得ないくらいのガリ勉にも耐えたし、皮肉なことに今の自分があるのだ。そして今の立場になって初めて、自分が卑屈であったということに気付いたのはこれまた大いなる皮肉だろうと思う。
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チェインギャング:囚人や奴隷が鎖で繋がれて強制労働させられていた。その繋がれていた人々のことを言う。
僕の話を聞いてくれ 笑いとばしてもいいから ブルースにとりつかれたら チェインギャングは歌いだす 仮面をつけて生きるのは 息苦しくてしょうがない どこでもいつも誰とでも 笑顔でなんかいられない
人をだましたりするのは とってもいけないことです モノを盗んだりするのは とってもいけないことです それでも僕はだましたり モノを盗んだりしてきた 世界が歪んでいるのは 僕のしわざかもしれない
過ぎていく時間の中で ピーターパンにもなれずに 一人ぼっちがこわいから ハンパに 成長してきた なんだかとても苦しいよ 一人ぼっちでかまわない キリストを殺したものは そんな僕の罪のせいだ
生きているっていうことは カッコ悪いかもしれない 死んでしまうという事は とってもみじめなものだろう
だから親愛なる人よ そのあいだにほんの少し 人を愛するってことを しっかりとつかまえるんだ
だから親愛なる人よ そのあいだにほんの少し人を愛するってことを しっかりとつかまえるんだ
一人ぼっちがこわいから ハンパに 成長してきた 一人ぼっちがこわいから ハンパに 成長してきた
2014年05月20日(火) |
腹を括ったことについて。 |
祖母のことについて、どんどん話が進んでいる。
もしも亡くなった場合のことについては、ほぼ話がついた。てめえの家の近くの寺で祖父共々永代供養していらうことになった。
仏壇は小さなものを買い直し、てめえの家に移す。
その後、てめえの実家を売り飛ばす。実家の名義は、父と叔母と祖母である。父と母に確認したら、おそらくそれぞれ1/3ではないかとのこと。実際にローンを細々と払っていたのは父なのだが、金銭的な問題で揉めるつもりはないので、売れたらその配分に従おうと思う。
いろんな人から、金銭的なことはちゃんとしておいた方がよいと散々言われた。でもてめえはもうどうでもよい。お金にこだわる人生はもう送りたくない。
今までの人生で悟ったこと。お金で解決する問題は、正直なんとでもなるのだ。本当に大切なことはお金では解決しない。
そう、解決しないのだ。子供の親権も解決しないし、愛する人の心もお金では買えない。そういう意味では、お金で解決することというのはどうでも良いことのことが多く、解決できるのであれば解決した方がよいのだ。わずかな取り分を争うことに意味があるとは思えない。
今日は母に色々と相談した。母は祖母に色んな思いがあるらしく、途中から話にならなかった。
ただ「あの家に植えた木の一つに思い入れがあるので、それだけは植え替えたい」と言った。
母は祖父との確執があったが、祖母とはなかった。途中から話にならなかったのは「祖母に申し訳ない」という気持ちかららしい。
「じゃあ一度一緒に見舞いにいこうや」とてめえは母を誘ったが、それは拒否された。生きているうちに会っておかないと、その後に後悔するかもしらんよ、とてめえは言ったが、どの面下げて会えるのか、しかも痩せ細った祖母に、申し訳なくて会えないと母は言った。
2014年05月19日(月) |
今日こそMacbook airの話を。 |
などと書きつつ、別の話から。
ここのところ叔母と頻繁にやり取りしていて、今まで放置されていた問題が一つ一つ解決されそうな感じ。急速にいろんな話が進んでいくのが正直怖いが、放置していた責任の一端はてめえにもあるのでこの流れに乗ってしまうことにした。
祖母は意識状態もはっきりしないが、こうして最後に、自分の血を分けた人々をまとめようとしている。考え過ぎかもしれないがそういう意思を感じる。
そんなわけで、長年の懸念であったてめえの実家がようやく売りに出せそうだ。さよなら故郷。家を売ったらもう、帰ることもないでしょう。
目指していた道は現在停滞中。6月までに一本仕上げて、というのはもはや不可能になってしまった。「書く」のと「読む」のは本当に大違いで、以前のてめえなら「あかん、才能がないわこれは」とさっさとあきらめていたと思う。しかし今回は違うぜ。とことんあがいてやる。
ようやくMacの話。正直これは神マシンだ。もう、windowsを使う気が全くしない。ただしwinでしかできないこともあるので、PCはそのまま持っておくけどね。
いろんな電子機器を購入し使用してきたが、これは3回目の感動であった。
1回目。iPhoneである。
正直な話、スマホに全く興味がなく、携帯電話はたまに電話と主にメールができればよいやと思っていた。本当に全く興味がなかった。その一方でiPodは愛用していたのだからすげえ矛盾している。当初はiPhoneはSoftbankしか扱っていなかったということもあるだろう。どうでもいいがてめえは「関西セルラー」時代からのau愛用者で、ezwebのサービス開始にも立ち会っている。そんなわけで、てめえのメールアドレス(しかし、これも今後意味をなさなくなるだろう)はとてもシンプルである。今では絶対無理なくらいシンプル。携帯の会社を変えるなんてまったくあり得ない話だった。
そうこうしているうちに、てめえの携帯電話がアホになりそうになったのだ。そして、タイミングをわざわざあわせてもらったとは全く思えないがなんとauがiPhoneを扱うことになる。何かの縁かもと感じたてめえは本当に何も考えずに機種変更をした。
相次ぐ機種変更にうんざりしていたのだろう、auショップの店員は気怠そうに「なにか問題が起きても、うちでは見ないことになってますのでアップルのショップに行ってね」と言った。
ところがこれが素晴らしい出会いだったのだ。驚くべき操作性。そしててめえの認識不足を恥じるばかりだが音楽が山盛り入ったのだ。用は「電話もネットにもつなげることのできるiPod」であった。電子機器にこれほど感動したことはなかった。
2回目。Apple TVである。
よくわからんまま「なんだか面白そう」という直感だけで購入したのだが、これもまたすごかった。iPhoneの中身をテレビのモニターで見ることができる。youtubeも、大きなテレビモニターで再生できる。それくらいの認識で導入したが、それだけではなかった。使用頻度から言うとHuluと契約したことが大きいが、今はそれ以上にiTunes matchの恩恵を受けている。そう、なんとてめえの音楽ライブラリーがテレビで再生できるのだ。これも凄い上に、再生履歴もすべて同期される。
つまり、リビングで作業するときは、パソコンのiTunesを使用せずにテレビで音楽が聴ける。その分メモリも使わない。やっほー。
3回目。このMac book airである。
いやあ凄い。凄すぎて言葉にならんわ。トラックバッドも神だし、操作性の素晴らしさ。他のデバイスとの同期。もう、ヤバすぎ。あかん、今日は力つきたのでこの辺で。
2014年05月18日(日) |
Macbook airが到着! の話はまた今度。 |
祖母の容態は落ち着いてきたが、入院してからずっと傾眠傾向が続く。発熱も落ち着いたし、ずっと投与されていた酸素も外れた。しかし呼びかけても反応は鈍く、ずっと眠ったままである。もともと脳梗塞も患っており、ほぼ寝たきり状態ではあった。まあ"natural course"というやつですね。言い換えると「老衰」ですね。
これで食事がとれれば、退院も可能だろう。しかしこれだけ眠り姫状態が続いていれば、その望みは非常に厳しそうだ。てめえは同様の患者さんを山盛り診てきた。
この後だが、状態が落ち着けば、ST(言語聴覚士)の嚥下評価から、必要あれば嚥下造影検査を行い、嚥下機能に問題がなければ食事が開始となる。しかしこれだけ覚醒が鈍ければ食事どころではないだろう。
嚥下の問題、あるいは覚醒の問題で食事がとれない場合はどうなるか。選択肢は3つである。
1.胃瘻造設を行う。
食べられないから胃に穴をあけて栄養を注ぎ込もうという作戦である。これは有効な場合もあるが、多くは有効どころか悲惨な結末を迎えることが多い。
有効な場合というのは限られている。てめえの考える胃瘻の適応は、しっかり覚醒していて自分の意志で胃瘻を希望されており、かつ自分で栄養を注入できる人である。
てめえの医師人生の中で、この適応に合致する人はたった一人だった。若い女性で、喉の癌があった。摘出術ではなく放射線治療を希望された結果、その副作用として嚥下障害が生じ、食物を飲み込めなくなったために胃瘻を作った。
と書くと非常に簡単なようだが、そこに至るまでにいろんなドラマがあった。飲み込めないということを受け入れられない彼女。ほかの方法もいろいろ試したがだめだった。この方は他にも問題が山積していて、その全てを解決するのに2年の入院を要した。
胃瘻も作り、自分で注入する練習も行い、他の問題も一つ一つ解決して退院の日を迎えた。2年入院を許可したというのは非常に異例のことであった。通常は3ヶ月を超えると病院に入る収入が激減するように制度が設計されているため、3ヶ月を超える入院は通常許可されず、3ヶ月を超える場合は他院への転院をお願いすることになる。しかしこの方は病状的に問題が多く、とても他の病院に依頼できる状態ではなかった。
2年の入院を経て、無事退院となった。退院前に、本当に自宅でやっていけるのか、試験外泊も行った。「家に帰るまでの間に何かあれば怖い」という、彼女と彼女の家族の希望で、てめえも家まで付き添った。外泊時に家まで付き添ったのは今のところ、これがただ一例である。
退院時にも付き添った。もしかすると、すぐに病状が悪化して再入院になるかもしれない。「もし何かあったら、優先的に受け入れするのですぐに連絡を下さいね」とてめえは言い残して病院に戻った。できることはすべてやったという自負はあった。
どんどんと話がずれるが続ける。それから数年、彼女が再入院することはなかった。自宅で元気にされているとの話を聞いた。おしゃれ好きな彼女は、退院して真っ先に美容院に行ったそうだ。生活を楽しまれている様を聞いて、胃瘻を作ってもよかったと思った。
あまり詳細は書かないが、そんな彼女も別の問題が生じて入院となり、残念なことにその問題を解決することなく他院で亡くなられたそうだ。今年のGW中の出来事だった。
話を戻すが、そうでない人に胃瘻を山盛り作ってきた。結果は悲惨なものだった。悲惨なことになるのはよく知っているので自分からは全くお勧めしなかったが、ご家族が強く希望されることが多かった。欧米ではむしろ、宗教的な観点から胃瘻には否定的である。これは文化の違いとしか言いようがないが、そういう意味では宗教はいい役割を果たしていると思う。
覚醒もできず、自分で嚥下できないかたに胃瘻を作ると、ほぼ全員が栄養剤を胃から食道に逆流され、誤嚥性肺炎を繰り返された。その度に、つらい思いをされただろうと思う。そんなわけで、自分には絶対に胃瘻造設はさせない。
2.中心静脈栄養を行う
医学的には選択肢としてあり得ないのだが、「胃瘻はイヤ」だが「そのまま見捨てたくない」というご家族の希望を汲んで選択することもある。しかしこれも悲惨な結末を迎えることが多い、というよりは悲惨な結末しかないので全く選択したくない。「胃瘻」にはしぶしぶてめえも同意してきたが、中心静脈は絶対に選ばない。
3.そのまま看取る。
これが最も自然だろうと思う。数年前まではこの選択肢しかなかったし、これからもそれで良いと思う。そしててめえはこれを選びたい。
父が倒れてから、代わって祖母をみてきた叔母とも今日話をしてきた。上記の話をしたが、まったく同じ考えだったので安心した。
さて、問題は「その後」である。叔母は良い言い方をすると「楽観的な人」で、父に喪主をしてほしい、いろいろ仕切ってほしいと考えているようだが、現実的には能力的に不可能である。というわけで、てめえは実の娘である叔母がそういった準備をするものだと勝手に思っていた。
ところが、どうも要領を得ない。そして、どうやら叔母はてめえに仕切ってもらいたいようなのだ。そのことに、今日初めて気が付いた。なんか違和感があったが、そういうことだったのか。孫が喪主って実際にほとんど聞いたことないけど。
よくわからんが、長男の長男としててめえは腹を括ることにしました。葬儀から納骨まで、わからんことばっかり。金銭的なことも含めてまあなんとかしよう。金銭的な点については、既に腹を括っていたけど。
しかし、生まれた順番だけで規定されるのはちょっとどうかと思うぞ。しかも現代では長男であるメリットはほとんどなく、デメリットしかない気がする。まあええわ。最後のばあちゃん孝行になるやろうか。て、まだ生きているのにそんな話をするのはちょっとやめておこうと思う。
そんなわけで、macbook airが届いたことと、実際に使ってみたその押し寄せるような感動についてがっつり書こうかと思っていたが、祖母の話で力尽きてしまった。残念だ。ちなみにこの文章は、もちろんmacからである。やっほー。
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