仕事の関係で旭川にいる。コロナ禍後に可能になったオンライン参加も可能ではあるのだが、旅費が出るということで現地に赴くことにした。
北海道を訪れるのは人生で2回目。1回目は貧乏学生時代の話で、お金はないが時間だけはたっぷりあったので、舞鶴から苫小牧までフェリーでごろ寝の旅。2泊3日だった気がする。苫小牧着は午前4時くらいで、船を降りた暗闇の先で明かりを灯していた「なか卯」に感動した。まさか北海道で会うなんて。
そこからはひたすら18きっぷで南下。北海道のおいしいもの全く食べませんでした。最後は、今は無き大垣夜行。いやあ懐かしい。寒い時期で、雪道の小樽の街をとぼとぼ歩いたことだけは覚えている。
さて飛行機のチケットの関係で、神戸に前泊して神戸空港から新千歳空港に朝一のフライト。朝のポートライナーの激混みぶりには閉口した。後で調べたら、朝のポートライナーは山手線や大阪環状線より混むらしいね。
早めに空港に着いてラウンジでのんびりするつもりが、持ち込み荷物の中にうっかり缶切りが入っており引っかかる。カバンの中に入っていることすら忘れていた。面倒なことにいったん保安検査場の外に出て缶切りだけ預けなおした。
フライトそのものはとても快適で、窓側の席だったのでずっと景色を見ていた。北海道までは2時間くらいだったが、結構あっという間に感じた。
そして初めての新千歳空港。前回は船ですからね。JRの切符もあらかじめ買ってあり、乗り換えもスムーズ。旅のお供にガラナ系飲料を購入。
JRで一番の楽しみは、エスコンフィールドをこの目で見ることだった。車窓からだけだが、実際に見たら結構感動。そして最寄り駅の建設が絶賛行われていた。
結局旭川に着いたのが13時半くらいだったか。ただ移動しただけなのにもうこの時点で疲れてしまった。
そんなわけで、遅めの昼食を「蜂屋」で頂いた。この焦がしラードの醤油ラーメンは、正直初めて食べる味で、かなり面白かった。途中で卓上に置いてあったおろしにんにくを投入したが、焦がしラードの圧勝でニンニクの風味も感じず、ただ旨味だけが増えた気がした。なんだこれは。やっぱり個性的なラーメンは面白いわ!
で、用事を済ませて、今回の第二の目的である「ジンギスカン」を堪能した。これまた人生初ジンギスカン鍋。そう、マトンを炒めたジンギスカン定食的なのは何度もあるが、あのジンギスカン鍋を使用した焼き物は初めてなのです。
一人で入るのにかなりの勇気を必要としたが、かき捨てじゃないけど行ってみるもんだね。「初めまして感」ががっつり出ていたのか初めて食べる観光客がそもそも多いのか、はじめは解説付きで丁寧に焼いていただきました。いわゆるジンギスカンと、あと生ラム肉をいくつかいただいた。めっちゃ旨かったが、正直思うところあり、明日は行かないだろうな。いや、面白かったら二日連続もありかと思っていたのだが、面白くはなかった。
そしてこんな駄文を書いている。
というものを、身をもって感じた日。どうすんねんこれ。
と一か月を超えました。笑。
自分が子供の頃は、50歳ってもっとお爺さんだった気がする。自分がそこにいるのは驚きでしかないが、年相応の変化もあるのだろうなと思う。
数か月前ではあるが、ある暑い日、大阪府南部のある市にバイトに行った。ただ暑かった。午前中で仕事を終え、帰路に就いた。
暑いとは言っても大阪南部の暑さは京都のそれとは少し違う。暑さはマイルドで風が吹くと涼しく、全然過ごしやすいやんけ、とてめえは思った。
仕事を終えて外に出た。暑さが全身を包む。しばらく身を焼かれながら歩くうちに、喉のあたりに今まで感じたことのない違和感を感じた。
あれ、熱中症かな、というのが第一感だった。急いで移動し、日陰に入った。違和感はまだ続いていた。そもそも熱中症になるほどの暑さでもなく、水分補給は普通にしていた。日陰に入った後も違和感は続いていた。
冷房の効いた電車で移動する。違和感は続いていた。この日は引き続き、大阪市内にあるネパール料理屋で食事をして帰宅するつもりだった。じっと座って移動していると、違和感はいつの間にか消失していた。
目的の駅に着いた。電車を降り、外に出る。さっきとは違う高熱がたちまち身を焼いた。そして再び先ほどの違和感が身を包んだ。
自分は一瞬逡巡した。やっぱ熱中症か? 食事せずにこのまま帰宅した方が良いか? と考えたがそれ以上に空腹が勝り、仕事を終えた後ということもありそのまま予定していたネパール料理屋に向かった。
店に着くころには違和感は頂点に達していた。絞扼感とも言っていいほどの違和感が身を襲った。料理を注文しながら、これ以上ひどくなれば救急受診もありかな、と思った。
ところが不思議なことに、到着した料理を食べると違和感は不思議なくらいに消失した。腹減ってただけすか?
だといいんだけど。
先日、農作業中に喉の違和感があった、という訴えの方を診た。心電図を撮ったら明らかにおかしく、そのまま病院の救急外来に紹介したら即入院となった。心臓のカテーテル検査では冠動脈に99%狭窄があり、即治療となった。彼はもうすぐで死ぬところだった。
というわけで、自分も循環器内科受診しようと思う。
先月末で奨学金を完済した。大学を卒業して半年の猶予、そして20年の返済。その日が先月末に来た。まだ実感がなく、今月もいつも通り返済の口座に入金した。当たり前だが引き落としはまだない。そして自分の間違いでなければ、その引き落としはないはずだ。
進学校に行っていない、塾や予備校に通っていない。そういう事実は「めっちゃ頭が良かったんだね」で済まされてきた。「いや、めっちゃ貧乏やってん」と言うても「いやいや」と済まされる。
最近便利な言葉を覚えた。「うちな、シングルマザーで5人兄弟やってん」
めっちゃ便利な言葉だ。そりゃあ塾には行けないわな。ていうかよく高校に行ったなレベル。大学の進学費用はどう工面したのか小一時間問い質したいレベル。
事実、行けた高校は自宅近くの公立で、当然のように学費免除だった。私学はどうなのか知らないが、公立学校の学費免除は成績がいいからではなく、貧乏人救済のためのシステムなので、世帯収入が基準を下回ればただになる。それでも全額免除はハードルが高かった。もちろん「シングルマザーで5人兄弟」なら余裕で突破する。
そんな高校の授業は退屈すぎた。文句の言える立場ではないのだが、生まれた家に関わらず適切な教育を受けられる世の中になってほしいと心から思う。
学校教育に絶望した自分は、一刻も早く学校生活を卒業し、自立して生きていくことを目指した。中2から中3になろうかと言うときに生まれた、父知らずの妹の存在もそれを後押しした。仕事で家にいない母。今ならヤングケアラーという言葉があるが、当時はそうではなかった。
無駄としか思えない学校生活、生きていくためのアルバイト、そして妹の世話。「クラブ活動? なにそれおいしいの?」状態で、部活に勤しむ高校生活なんてなかった。授業が終わると妹のお迎えに保育園に行き、あと二人いる妹も含めてご飯を食べさせて下の妹をお風呂に入れ、絵本を読んで寝かせる。長期休暇は学校に行く時間の代わりに工場などでアルバイトした。自分の高校生活は、バイトと妹の世話だけだった。
「自立したい」その思いだけだった。高校を卒業し、ようやく学校に行かなくてもよくなったと思ったが、当時週休二日制度のない工場でぼろ布のように働き「もしかして学がないからこんな目にあっているのか?」と悟りを啓いた。
当時の公立高校の授業料は、年10万もなかったと記憶している。たしか3−6万くらいか。それが国立大学に入ると、いきなり10倍以上に跳ね上がった。大学に合格したときは、喜び以上に学費の恐怖に慄いた。ようやく安堵したのは、「全額免除」の決定を頂いた時だった。
借りれるだけの奨学金も頂き、いろんな方に援助していただいて大学を卒業した。自分的にはこれ以上の奇跡はないんじゃないかと思った。国家試験に合格したときは、合格を知らせてくれたパソコンモニターの前で号泣した。生きててよかった、と思った。
最近奨学金に関する記事を目にする。まるで奨学金が悪のような扱いを受けているのも見るが、自分にとってはこれ以上ないレバレッジだった。
じゃあさっさと返せや、という議論もあるだろうが、「貧困は再生産する」のです。そこからの脱却が自分の人生のテーマだったが、たまたま家族の中に成功者がいたとして、他の人はそうとは限らないのです。
「シングルマザーで5人兄弟」。3番目はアル中で、もうすぐ死ぬだろう。残念だがアル中が救われないのは職業柄山盛り診てきた。彼らは死ぬことで解放される一面もあると思っている。
5番目は20年以上弟だったが、数年前に妹に変貌した。めっちゃ生きづらいのだろうが、彼女なりに生きている。
愛する娘はかわいい孫を二人産んだが、夫のDVで孫ともども殺されかけた。実の親にも連絡先を教えてはならないDVシェルターを経て、理不尽な離婚裁判も戦いようやく解放された。ただあまりに若く母になった娘にできる仕事はあまりなく、ようやく仕事を見つけても、予測しない熱を出す孫がいて仕事は続かない。その辺の理解に乏しい世の中と、DVした上に養育費放棄をしても許されるこの社会はどうなんだろうと思う。
そんなわけで、自分が稼いでも消えていく収入。資金繰りをしながら、中小企業の社長はこんな感じなんだろうなと思う。普段の仕事に加えてこっそりバイトする日々。そして細々と奨学金は返済してきた。
それも完済した。まだまだ人生は続くが、一つの区切りになったのだろうと思う。
に行ってきました。
この日は朝からバイト。交通費を浮かすために堺までバイクで移動。当然下道なので2時間くらいの移動。
翌日松阪でバイトなので、そのままバイクで移動。奈良県を横断する旅で、それはそれなりに面白かった、疲れたけど。
で、途中にあるわけですよ。バイクじゃないと正直行けない(当方、車の免許はございません)。
結論から言うと非常に良かった。行った時間が遅かったので、途中までしか歩けなかったが、行ってよかった。いつの日か、朝一番に行ってすべての滝を見てみたいと思う。
滝を出て松阪に向かう。ひたすら山道を走っていたら、突然学校があった。通行人すらいない山中にポツンと学校。心当たりがあったのであとで調べてみたら、やっぱりそうだった。浜ちゃんが卒業した学校。
それから宿に着き、寝て起きて仕事をしてバイクに乗って帰宅した。ていうと簡単だがめっちゃ大変だったが面白かったぜ。面白がらないと生きていけないよな。
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