日々是迷々之記
目次


2004年12月11日(土) 母を訪ねて一日2回

金曜日の晩に緊急手術だった母が、ICU(集中治療室)に入るのを見届けたら、もう日付が変わっていた。手術は成功しましたという主治医の先生の言葉にほっとし、病院を出る。ママチャリをがしがしとこいで家に向かう。空腹なはずだが、おなかが空いてないような変な感じ。夜中の風が冷たい。

50分ほどこいでやっと家の近所にたどり着いた。「すき家」の看板が眠る町のオアシスのようにオレンジ色に輝いている。私は自転車を停め、店に入り「豚丼おしんこセット」を注文した。

ふぅ。小さく息をつきお茶を飲む。まもなく豚丼、おしんこ、おみそ汁、生卵が運ばれてきた。もくもくと食べる。ごちそうさまを言い店を出たらもう夜中の1時を過ぎていた。

その日の晩は死ぬ前に見ると言われている「人生が走馬燈のようにめぐりくる夢」だった。幼稚園くらいのときに出席した親の結婚式。(いわゆる私生児だったのだ。)親が離婚してどちらにも引き取られず親戚の家に預けられて辛酸を舐めまくった日々。大学受験に失敗して罵倒されまくったり、結婚するといったら「あたしの生活費はどうするの!」と訳の分からないことをのたまわれ、ある程度の収入とだんなという新しい家族を得た私は母から卒業した。

翌朝、おなかが痛くて目が覚めた。胃炎で薬を飲んでいるのに夜中に豚丼を食べてしまったからかもしれない。くしゃみをしたとたん、小さく戻してしまった。

時計を見るともう10時を過ぎている。ICUの面会時間は11時、18時からでそれぞれ45分。歯を磨いて病院へ急ぐ。ICUでは母親が手術のためにそり上げられた頭に伸縮するネットの包帯を巻き付けて、どんぐり坊やのようにしてベッドに転がっていた。血圧は上が186。かなり高めだ。看護婦さんはずっとこんな調子だと言う。熱があるようでアイスノンを巻いていた。

「娘さんが来ましたよ〜。」看護婦さんがびっくりするような大きな声で母親に話しかける。「わかったら右手をぎゅっと握ってくださいね〜。」母親は看護婦さんの手を握り替えしたようだった。「話しかけてあげてくださいね。分かっておられますから。」そう言うと看護婦さんは別の患者さんのベッドへと忙しそうに移って行った。

「お母はん。分かる?わかったら握り返して。」といい右手を握る。すると力強く握り返してきた。見た目はどんぐり坊やで管だらけだが、ちゃんと分かっているのだ。喉の奥に熱い固まりが湧き上がってきた。「どっか痛いところあるん?」別に聞きたいわけではないが、言葉がうまく出ない。母は私の手を握ったままぶんぶんと手を動かす。喉には酸素用の管が通されているので話すことはできない。知ってか知らずか、何かを伝えようと手をぶんぶん振っていた。

「また夕方の面会にくるわな。」私はそう言うとその場を離れた。病院の片隅のフェンスの脇でカブにもたれて考えた。重い。あまりにも重すぎる。少しも優しくなく、こういう人間にだけはならないでおこうと密かに思い、ある意味軽蔑していたが、今の姿を見ると憎むことに意味があったのだろうかと自問してしまう。けんか別れして4年目の再会がこれである。

実家の大家さんのところで鍵を借りて実家に入った。とりあえずの片づけが必要だと思ったからだ。ドアを開けた瞬間すえた匂いがする。ごみやその他もろもろ。が、一番ショックを受けたのは実家の荒廃具合だった。妹と私が結婚して家を出てから4年。たった4年である。その間にこの家は独居老人が後ろ向きに余生をやり過ごす空間に変わってしまっていた。

大昔の洋服、学校のジャージ、発泡トレイ、そんなもん捨てればいいのにっていうモノが狭い家に押し込まれている。食べ物はせんべいや果物など自分の好きな物とテレビで取り上げられた体によいと思われる食品群。

あまりにもやるせない。私はこの家で育った。その頃の家の中のわいわい感はどこにもない。私は茶碗をかき集め、洗い、洗濯をした。夕日が沈むと実家はあまりにも寂しく、一人でいることすら辛い空間だった。再び病院に向かう。

母は朝と同じ様子で手をばたばたと動かしていた。私が「来たで。」と言い手に触れると、強く握り返してきた。そして私の手のひらに何か文字を書くような仕草をする。看護婦さんに紙とペンを借りた。「ごはんはたべた?」と書いているようだった。私がまた食べていないよ、と言うと、自分のおなかをぽんぽん叩き、「おなかすいた。」と書いた。

頭の思考力は寝起きのねぼけたような状態らしいが、右手は器用に動いている。もし、片手だけで打てるキーボードのようなものがあればいろんなことが出来そうだなぁと考えた。(母はタイピストだったのだ。)

また明日来るわな、と言い残し家に帰った。まだ8時前だがもう眠たい。よく考えると今日はまだ何も食べていない。「すき家」に行こうかなと思ったが、連ちゃんは辛いので、買い置きのほうれん草と豚肩ロース薄切りで常夜鍋にした。熱燗が胃袋にしみる。飲んでいるはしから胃がきゅっと痛むような気がするが、どうしょもないと思った。とりあえず鍋を食べ終わってから薬は飲んだが。

その後、友人とチャットをした。大人になってからできた貴重な友達だが、何もかもを知っているわけではない。この2,3日のことをかいつまんで話した。文字チャットだから当たり前といえば当たり前なんだけど、静かに聞いてくれた。同情するでもなくただ耳を傾けてくれていたようでそれだけで少しだけ泣いた。

「明日の昼間は空いてるん?日本酒記念館みたいのんがあるから行けへん?」と誘われた。多分気を遣って気分転換すれば?と誘ってくれているのだろう。有り難く一緒に行く約束をした。

熱燗を3合ほど飲んでフトンにもぐり込むと何も考えずに寝てしまった。胃炎のことを考えると飲まないほうがいいのだろうが、悩まずに眠ることに重点を置くのなら、飲んだ方がいいように思う。こうやって私は「ゆるやかな自殺」へと向かっていっているのだろうか。


2004年12月10日(金) 4年ぶりだよ、おっ母さん!がしかし…

4年ぶりに母親に会ったんである。なんでそんなに疎遠なのかと言うと、結婚に反対されてその後もいろいろとしょーもないことをしてきたので、険悪な状態になりどちらも無視するようになってしまったのである。

それが今日は会った。病院のベッドの上で管を刺されて、手にはなべつかみのようなカバーをかぶせられ、柵に手を固定されていた。暴れて管類を外さないようにだ。意識はないが、苦しいと暴れるらしい。

昼過ぎに携帯に電話があった。いやな感じがしたのでかけ直してみると、社会保険事務所の人で、母親が倒れて運ばれたが、身よりの人間を捜していたのだと言う。それで私の携帯番号がどうして分かったのかは謎である。有り難い反面、個人情報というのはどこでどうつながっているのだろう。(実家にいたときはドコモ、結婚してからはJフォン、ツーカーと何度か番号は変わっている。それに、母親はツーカーの番号は知らないはずだった。)

倒れたのは水曜日、発見されて搬送されたのは木曜日の夕方。で、身寄りが見つかったのが今日、金曜日の夕方。手術の承諾書が要ったのだそうな。そしてさっき3時間ほどの手術が終わった。手術は成功したが、意識は戻っていない。先生によると、意識は戻っていても寝ぼけているような感じになるので、モノはあんまり考えられないような状態になるらしい。

病名は脳梗塞。左半身は完全に麻痺しており、言葉ははっきりわからない。死んでしまって腫れあがった左脳に脳幹が圧迫され、瞳孔が開きつつあった。頭蓋骨を一部切開して、脳幹の圧迫を食い止めるのが精一杯。脳幹がダメージを受けると、呼吸、視覚など、生きるのに必要な機能が失われてしまうとのこと。

頭の血管の写真を見せてもらった。心臓からやってきた血管が、頭のまんなかで左右に分かれる。その別れてすぐの血管が盛大に詰まっているのがよく分かる。主な原因としては、不整脈に由来するもの、生活習慣病があるという。が、今回の場合は生活習慣病ではないか、とのことだった。油っぽいものには気を使っていたが、甘いモノは好きなだけ食べて糖尿に。みのもんたや、「あるある」に影響されやすいタイプで、家には黒酢、酢大豆、ごま、ココア、赤ワインがホコリをかぶっている。

ちなみに母はアルコールが全然だめだ。分解する酵素を全く持っていない体質で、コップ一杯のビールを同窓会で飲み干し、救急車で運ばれたこともあったらしい。なのに、健康のためにポリフェノールを含んだ赤ワインを買ってしまうのである。

これが実の母親だと思うとめまいがするが、いくらぼやいても、昔の憎そい(にくったらしい)母親はもう戻ってこないだろう。「憎む気持ちからは何も生まれない」という事実を受け入れ、自分なりの最善を尽くそうと、手術を待つ間に決心をした。

まぁ、一般的に考えれば、私は冷徹すぎるのかもしれないが。


2004年12月05日(日) 飲んで飲んで飲まれて飲んで

一ヶ月に一本書かせてもらっているインターネットのコラムがあるのだが、11月の分を書くのを忘れていたのである。その催促が来たのが週の初め。ネタ集めやらなんやらで、土曜の朝イチに送ります!と丁重に返信をした。

で、あっという間に金曜日。会社から帰るなり、文章を書き出す。肩こりで頭がぼーっとしつつおもしろいことを書くのはマゾヒスティックな気分だ。30cmの竹のものさしで肩をぐりぐりやりながらどうにか書き上げる。気が付いたら「元祖!でぶや」はもう終わっていた。ううう…、石ちゃん。

気を取り直して「探偵!ナイトスクープ」を見る。ピンクレディーの振り付けが完璧なおっさん二人組がすごかった。自前のサウスポーの衣装はやはり自作なのだろうか?

ナイトスクープを満喫しているうちに、イラストを描くのをすっかり忘れていた。しかし、眠い。目覚ましを5時半にセットして寝ることにした。

そして土曜日の5時半。飛び起きてお茶を飲みながらイラストを描く。A4の紙に下書きして、それをトレシングペーパーで写し、ペン入れしたものをスキャナでマックに取り込むのだが、ペンがカスカスで描けなくなっている。数年前に無印良品で購入した筆ペンなのだが、朝の6時にそんなものを買いに行けないので、そこらへんの「名前ぺん」と書かれたフエルトペンで描いた。なんか適当だなぁ、と思いつつも。

それをとりこむのも一苦労だ。私のスキャナはMacOSXに対応してないのでクラシック環境で使わなければならない。クラシックの方のフォトショップを起動して、そこで取り込み、保存。次にマシンを再起動させる。何故かというと、クラシックのフォトショップを起動させた後は、OSXの方のフォトショップが不審な動きをするからだ。文字が入力できなくなったりする。

だんだん夜が明けてくる。しかし土曜日の早朝のテレビ番組はつまらない。速攻消してラジオを聞く。最近のお気に入りはBlack Eyed Peas、大塚愛、BUMP OF CHICKEN. なんかむちゃくちゃな組み合わせだ。

そうこうしているうちにもう8時。ペン入れの段階で線を整理しておかなかったので、パソコンの作業がめんどくさい。最初っから線をつなげておけば、選択するときが楽なのに…というのは毎回感じている。学習せーよ、自分。

やっとこさ先方にメールしたのは9時ちょい過ぎ。朝イチのメールチェックに間に合っていますようにと祈る気持ちだった。

ふと気が付くとおなかが痛い。恒例、土曜日のハライタ参上である。平日の朝のんびりとトイレに行けないので、時間にゆとりのある土曜日におなかが痛くなる。た、助けてくれ…などとうめきながら個室にこもる。後に大量の水とともにビオフェルミンを飲んでもう一度寝ることにした。

その前にやるべきことがあった。友達に電話して、今日会うのに行けなくなったと言う。10時半に地元の駅なんだが、極度の脱力感で動けない。肩こりでバイクにも乗れないし。(後方確認ができないのだ。)

そして寝る。起きたら夕方だった。ついでにMLの忘年会でもあった。そこでカニを食べ、笑い、しゃべり、何故か少し泣き、よくわからないほど焼酎を飲んでしまった。朝の腹痛はなかったことにして。

翌朝日曜日。これまた地獄のようにしんどい。水を飲み、吐く。何も出ないが吐く。昼過ぎに外へ出るも、気分が悪くて歩けない。なので家に帰り寝る。起きたらもう8時過ぎだった。

飲酒はゆるやかな自殺かもしれないとふと思う。やってられないから飲むが、飲めば飲むだけしんどくなる。飲んでも飲まなくてもしんどいのなら飲まない方がいいとは思うが、飲まずにいるときのやってられなさは限界が見えない。二日酔いは一日で終わるけれど、やってられないと感じる日常は永遠ですらあると感じることもある。

「永遠に続くことなんか一つもないんだから、あんまり落ち込まんとやりすごしやぁ。」最近楽しいことがなくて、落ち込みがちな友人に送ったメールの一文である。本当にこの言葉をかみしめるべきなのは、自分の方かもしれない。

12月の忙しさは12月で終わるはずなのだから。


nao-zo |MAIL

My追加