日々是迷々之記
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2004年12月27日(月) |
それでも日常はまわる |
抗うつ剤と抗不安剤、睡眠薬を真面目に飲み続けると、日常ははるかに楽になった。窓の外は木枯らしが吹いていても、自分だけは柔らかい膜のようなものにつつまれてのほほんとしている感じだ。
師走だ。なのに、のほほん。こんな小さな錠剤で人の心というのはこんなに楽になってしまうなんて…。
母親の件で、母の姉妹と金曜日に会った。そこでも知らない事実続出で、落ち込むかなぁと思ったが、どっか他の世界の出来事のように感じただけだった。お金、家族、友達、仕事、自分の周りの物を軽く考えて生きてきた浅はかな人間の姿。
愚かな親を持つものとして、今なら親が犯罪者の家の子供の気持ちが分かる気がする。もっとも母はわかりやすい犯罪を犯したわけでなく、目先の小金めあてに醜い姿を晒したに過ぎないけれども。極道相手の金貸し(もちろん回収出来ず)、玉の輿目当ての出来ちゃった結婚(2回)、先祖代々の墓を売ろうとしたり、出来の悪い小説でもこんなにベタなネタばかりは並ばないと思う。
結果的に私は必要以上に見舞いに行くことをやめた。看護婦さんからおむつや尿取りパッドが足りないと言われたときにだけ出向くようにした。今も意思の疎通は出来ないので、それで十分だろう。
それよりも年末年始のスキー行、年賀状、考えることはいっぱいある。冷たい物言いかもしれないが、今の人生はわたしが見つけた相方と、二人で築いてゆくもので、そっちの方が私には大切なのだ。
自分の我を相手に押しつけることでは、誰も幸せになれないし、心を通わせることもできない。私はそのことをこの母親から学んだと思う。
さあ、明日の夜からスキー行だ。次の日記は一月四日になりそうです。皆様、来年も宜しくご愛読ください。 naozo
先日の日記を書いた後、わたしは一睡も出来なかった。悲しいわけでもなく、怒りにふるえるのでもなく、ただひたすら心の中でうわんうわんと風の吹きつけるような音がしていたのだ。
だめだ、病院に行こう。そう思い立ち、家と会社の通勤路の上にある診療所を見つけた。9時になるのをみはからって電話をしてみる。優しい口調のおねえさんで少し安心した。最後に、「うちは精神科がメインになりますが、よろしいですか?」と聞かれた。精神科、思いこみかもしれないが、肛門科と同じくらい緊張する科名だ。内科や皮膚科のようなメジャー感がない。かくしてその診療所はエレベーターががこんがこんとなる、レトロなビルの2階にあった。
10分ほど待って、診察室へ。初めて見るタイプの診察室だ、大きめの木の机とソファ。血圧を測るスタンド、窓の向こうから日が差している。
「どうしましたか?」わたしは不眠、一人でいるときに食事ができない、顔の左半分(唇周りが特に)のけいれんがあると伝えた。そのあたりまでは平静を保てたが、家族の話に及ぶと、わたしは少しづつ涙を流しながら語ってしまった。
精神科の先生というのは一種独特な雰囲気がある。あいづちは打つけれど適当さを感じさせるものではなく、モノを尋ねるときも詰問したり、私が悪いと思わせるような尋ね方をしない。そしてものすごいスピードで私の言ったことの記録をとる。
診察の結果はごく軽度のうつ病。今回の出来事の直接の原因は母親が倒れたことによる心配や不安。もともと良く思っていたわけではないのに毎日顔を見ることへのストレス、そして顔を見ることにより、嫌な思い出ばかりが蘇って私はつらいんだそうな。
とにかく今はたくさん寝て、没頭できることを一生懸命やって、それから余力があれば病院に見舞えばいいですよ。と言ってもらった。意識がないうちは見舞う側の気持ち的な負担というのはかなり大きいそうだ。
わたしは2時間ほど話を聞いてもらい、睡眠薬、抗うつ剤、抗不安剤などを処方してもらった。
病院を出るとき、「ああ、わたしはうつ病なのだな。」とふと思った。弟が鬱病であることを隠して、母親になじられた父親のことを一瞬思い出した。あの母親が口がきけたら今の私を見て何をいうだろうか?何、甘ったれたこと言ってるの、そんなもの病気のうちに入りもしない、ああ、情けない。くらいは立て板に水のごとくまくし立てるだろう。今日の見舞いは止めよう。
かわりに友達にメールを打った。こないだ日本酒記念館に行った友達だ。年末年始は忙しいらしいけど、今日は7時くらいに終わるみたいだった。近所の巨大ブックオフで待ち合わせをする。待ち合わせは本屋が好きだ。多少遅れても暇つぶしができるし、第一暖かい。
会うなり、今日は精神科に行って軽度の鬱病だと言われたよ、と言ってみた。あー、そうなんと普通に言った。何でも話したくなったら溜めないで話さないとあかんよ。こんなこと言ったら引かれるかなぁとか思って、自分の中にしまうのが一番あかんから…。
この子の話し方、聞き方は精神科の先生にちょっと似ていると思った。「なんでそのとき言わないの?」とか昔のことを今聞くようなことはしない。じっとこっちを見ながら、ゆっくりうなずいたり、ちょっとビックリしながら聞いてくれる。アドバイスも面白かった。日記もそうやけど、紙に書く、泣きたくなったら泣く、今よりもっと最悪なことを考え尽くしてみる、ほんの少し先に小さな希望を持つ。そんな話だった。
最後に石上神社で手に入れたという緑の勾玉を見せてくれた。石上神社といえば物部氏の斎宮である布都姫のことを思い出す。(@日出処の天子)この神社は奈良県の天理近辺らしい。カブで行こうかなと思ったがちょっと日帰りはしんどいらしい。
「春になったらバイクを買おうかな。」私がそういうと、「また一緒に走れるなぁ。」と言った。8年前、わたしが免許を取って、初めて他の人と走ったのはこの子なんである。地獄の酷道と呼ばれる暗峠(国道308号線)、朱雀門なんかに行って、リンガーハットで皿うどんを食べた記憶がある。結婚して、カブに乗るようになって、私は一人で走ることがほとんどになってしまっていたことに気が付いた。
帰り道、私は行きよりも心が穏やかになっていることに気が付いた。昼に薬を飲んだからと行ってしまえばそれまでだが、たくさん話して、少し先に小さな希望を持って、それだけで気持ちは変わる。私はなんぼ稼ごうが、強がろうが、絶対一人では生きていけないタイプの人間だろう。
でも今はそれでいいや。
2004年12月20日(月) |
それでもきっと生きて行く |
今日は母親の見舞いに行かなかった。妹を乗せて病院まで行ったのだけれど、道が渋滞していて見舞っていたら仕事に間に合わなさそうなので、仕事の後に行けばいいやと思ったのだ。
が、仕事が終わったら今度は雨。カッパを着てまで病院に行くのも気が引けるので結局そのまま家に帰ってしまった。帰ってから郵便局に振り込みに行き、本屋で立ち読み。家にもう一度帰る頃、雨はすっかり止み、わたしはちょっとゆっくりできてほっとした。
結局私は見舞いなんか行きたくないのである。顔も見たくないというのが本音だ。
今で入院後約10日。たった10日で私の32年の人生をそのまますぱんとひっくり返してしまうようなことが判明した。母の妹に聞いて知ったのだが、私は長女ではなかったのである。母親は再婚で、前の夫との間に娘がいて、今37歳。大阪ミナミでホステスをやっているらしい。私は母親が再婚であったことも、子供がいた事も知らされていなかった。
ただ一度、祖母のお葬式の時に知らない人が来ており、母親と深刻げに話をしていたのを覚えている。その人が姉にあたる人だったのかもしれない。母親が墓場まで持っていこうとしていた秘密がもうひとつ追加された形だ。
私は長女としての責務を与えられ、子供なりのプライドを持って生きていた。特に母子家庭なので母親が働く人、私が家を守る人、そんな役割分担がほぼできあがっていた。親が離婚した後、親戚の家に預けられ、そこを逃げだし母親の元に居着いた形の私は、少しでも嫌われたくなかったので好かれる努力をした。たくさん勉強をして学年で2番くらいを保っていたと思う。
しかし、いくらいい子で居続けても、離婚後も私は母親の姓を名乗らせてもらうことはできず、父親の姓のまま同居していたので、その時点で愛情もへったくれもないのが今となってはわかるのだが。当時は、父親が私に嫌がらせをするために父親の姓から母親の姓に変わることを許可しないという母親の言葉を信じていたが、大人になってから調べてみれば、そういうものは既成の事実に基づき、父親の許可がなくても母親が訴えを起こすことで比較的簡単に母親の姓に変われることを知ったのだ。それは最近の話。
そんな母親が瀕死の状態で病院に運ばれ、親族のことを聞かれたときに出したのが私の名前なんである。その真意はどこにあるのだろうか。30年以上も大切にひた隠しにしてきた長女よりも、私の方が御しやすいと思ったのだろうか。それとも寝たきりになって迷惑をかけてやれとでも思ったのであろうか。
昨日の日記を読んだ友人からメールをもらった。そこにはある作家の小説の一部分が引用されており、それはまさしく私そのものだった。
「「父なき子」は父親が不在な分だけ、圧倒的な母親の支配下に置かれる。 〜 周りの父なき子達を見ていると、 母親の凄まじいまでの支配にボロボロにされているのがわかる。
特に一人っ子だったり、長女だったりした場合は大変だ。 なぜか父なき子の母親は長女には冷たい。辛く当たる。 そのくせ徹底的に支配しようとする。 もちろん、母親は悪気があってそれをしているのではない。 娘のためによかれと思っていろいろ考えている。 〜
母が傍若無人になった時、娘はなす術がないのである。 せいぜい突き飛ばして逃げるのが関の山だ。 しかし母親というのは執念深くてどこまででも追ってくる。 どこかで子どもは自分の一部だと思っているからだろう。 無くした片腕を探すかのごとく娘に迫ってくるのである。」
客観的に見れば恐ろしいことだ。しかし、事実これは私の育ってきた世界だ。私の頭は実はおかしくなってしまっているのではないかという恐怖に目がくらむ。これから先、人生のどこかでおかしな育ち方をした弊害が出てきてしまうのではないか。暗闇の一本橋のようで足がすくむ。
父親と母親は私が生まれた5年後に結婚していることを考えたとき、私はこの世に望まれて生まれてきた気は全くしない。単に母親が離婚後に父親とつきあい出し、子供ができたものの結婚もせずずるずると行くのもあれなんで、今更だけど結婚しますか?みたいなノリが想像できる。
まぁ勝手な想像だが、父親が亡くなり、母親が脳梗塞でほぼ半身不随となってしまった今では何も確かめる術がない。いまさら確かめてどうこうする気もないが、よくぞここまで私をバカにしてくれたなぁと思う。騙して隠してよくぞ育ててくれたものだ。
ここまでくると涙も出ないというのが本音だ。むしろここで泣いたら私の負けだと思う。「ほらあんた、そら見たことか。お母さんの言うことを聞かないからそんなことになるのよ。」という自己満足感たっぷりのいつもの言葉が聞こえてきそうだ。
死ぬほどくだらなくて、俗で、浅はかな母親。これは紛れもない事実。私の中にはその血ががっつりと流れている訳だが、それでも私は生きて行くだろう。
母親の声が聞こえない、気配も感じないどこかへ向かって。
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