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2004年09月10日(金) |
前進してきたという実感 |
レッスンの日。
8時半から9時半まで自宅でウォームアップをして、 10時過ぎからもう一度大学で練習。 そして11時からレッスン。
まずはヴィニアフスキ。 「先週よりもずっといいですよ」(嬉) 一箇所ちょっと難しいところがあるのだけれど、それについては 「左手のことを考えないで、 音質だけを、つまり右手だけを考えながら弾いてみて」 と言われてやってみると、あれ?いい感じ。 先生も「今の方がいいですよ」 「あなたはもう右手のことだけを考えて弾くようにしなければ駄目ですよ。 そうすれば左手も楽になるし」
そんなものかなあ…
左手のことを考えなかったら音をはずしそう… でも、確かに右手に集中すると左手も軽くなって、いい音がでたし… 音もはずさなかった。 そういうものなのかな…
次にベートーベン。
この曲は私が中学生の終わりから高校生くらいにかけて一度勉強、 というよりは書かれている音を追ったことがある曲。 と同時に私が初めて、これは小学生の頃、 市販されているテープを買って何度も何度もすり切れるまで聞いた曲。
今から3,4年くらい前に今の先生と勉強する機会に恵まれたときに、 勝手に「知っている」と思い込んで、 勇んで、再び手をつけてみたのだけれど、 その曲のなんと難しいこと。 結局、技術的にも無理があったし(一度弾いているというのに!) 音楽的にも 私はまだベートーベンの協奏曲が理解できるレベルにはいない ということを自覚せざるを得ず、先生にすすめられ、 勉強を一時中断することになった、苦い思い出の曲…
その後、こつこつと勉強を続けていった結果、 この夏、再びベートーベンに触れる機会がめぐってきました。 夏休みの前に、プロコフィエフの協奏曲の勉強が大体終わりかけているので、 次は、チャイコフスキーかベートーベンの協奏曲をと先生にすすめられ、 私は是非ベートーベンと向かいあいたいという気持ちをお話しました。
チャイコフスキーもとても有名だし、よく演奏される華々しい曲だけれど、 基本的にはビルドアップの連続で、音楽的なもの深く追求するというよりは、 技術的なもの、スタミナをつけるための曲という印象が「私には」あるため、 それよりはずっと音楽的に深みのある、 後の作曲家たちが協奏曲の典型としたベートーベンの作品に 今、どうしても、再び立ち戻りたい、 勉強をしたいという強い気持ちがありました。
夏の間、いろいろな演奏を聞いたり、スコアを見たり、本を読んだり、 そして、自分で奏でてみて、 自分でも以前とは曲がまったく違って見える、感じられることを実感し、 今ならばできる!と感じていました。
でも、先生は私の演奏を聞いて一体どう思うだろうか。 また、まだベートーベンを勉強するには早い、とおっしゃるのではないか、 それを思うと心配でした。
そんな思いのなか、ベートーベンの番。 とにかく、今自分ができることを聴いていただくしかない。 冒頭のオーケストラを頭のなかで鳴らせながら…ソロの入り。 3,4年前には最初のページすら満足に弾けず、 それすらきちんと聴いていただくことができなかったけれど、 そこまで弾き終えると、 「とてもいいですね。続けてください」と先生。(!) 多少の驚きと同時に、 やはり自分で感じていたことは間違っていなかった、という安堵、 そして、本当に今勉強したいと思っている曲を 今先生の前で弾き続けることができる喜びをかみしめていました。
結局、カデンツァも含め、1楽章全曲を聴いていただくことができ、 「この夏のあいだいい勉強をしましたね。 もう技術的にも音楽的にも充分ベートーベンを勉強できるところにいます。 それは最初のページを聴いたときにもう明らかでした。 今言えることは…、さっきも少し言ったように 同じ質の音の響きを常に保つこと、いかなるシフトも移弦も 音の響きを邪魔しないように処理されなければなりません。 そして、次のレッスンまでに暗譜をしてください」 こんなお言葉をいただいた。
私もベートーベンが勉強できるところまで来たんだ。 3,4年前の自分とは別のところにいるんだ。
前進している実感を得られた、喜び、安堵に包まれたひととき。
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