| 2006年09月03日(日) |
今日が命日らしいです。 |
とある方に教えてもらったのですが、史実上の『藤原泰衡』が家臣に討たれた日…要するに命日ですね。 それが9月3日らしいです。 今日じゃないか。 なんかユリウス暦だとどうとかグレゴリオ暦がどうとか、そもそもあの時代と今って陽暦と陰暦で違うんじゃ?とかありそうですが、9月3日は9月3日だってことで、今日は泰衡さんの命日です。
別に何をするでも出来るでもないんですが、いろいろと思いをはせてみたり。 何を思って目を閉じたんでしょうねえ、あの人。 一般的には家臣河田次郎の手にかかって首を斬られたってことになってるらしいんですけど、それも諸説ありますしね。 個人的には自分から腹を斬ったと思ってますけど。 その辺りは完全に私の、こうだったんじゃないかしら〜って話なので、もちろん「いや違う」って意見もあるとは思いますけど。 ここは私のスペースだから私の好き勝手なことを言うのだ(笑)
そもそも奥州って、白河の関より向こうの戦になんて関わる理由も義理もなかったんだと思うんですよね。 都からずっと遠くにあって、しかも昔からあいつらは蝦夷だけものだって蔑まれてきてたわけで、だったらいいよ、こっちはこっちでやるもんね、って築き上げたのが奥州藤原氏の黄金文化だと思うわけで。 金山はある、交易も出来る、作物だって馬だってものすごい質がいいのがいっぱい取れるし育てられる、自分たちで全部回してやっていけるのに、何でわざわざ自分たちを蔑むような人たちに協力してしたくもない戦に関わらなくちゃいけないのか、って。 もちろん政治的な、時勢を見極める意味もあったと思いますが、奥州が源平の戦に静観を決め込んでいたのはそういう理由もあったんじゃないかなあ、と私は思う。 どっちが勝ったところで奥州のスタンスは変わらない、これまでどおり一種の自治州として在り続けるだけ…のはずだったんだけど。 平家を滅ぼした頼朝にしてみれば、せっかく武家の頂点に登ったはずなのに、まだ北にあんな大きな勢力がいるじゃん、ってことになるわけで。こっちは勝手にやりますからそちらも白河の関より向こうでだったら勝手にどうぞ〜って言われたって、はいそうですかとは言えない。 今はいいかもしれない。でも5年後は?10年後は?うっかり継母に絆されて自分を見逃した清盛は、そのつけを壇ノ浦で支払うことになった。源氏は、そんな失策を犯すわけには行かない。今後を武士の世の中にして、源氏がその頂点にありつづけるためには、小さな蟻の穴みたいな綻びさえも見逃してはおけない。 といって、何も理由も無しに攻め込んだら非難はこちらに向く。何かないかな、って思ったときに、義経の存在が浮かんでくるわけで、頼朝と仲違いをした=頼朝ひいては源氏の敵であって、源氏の敵を匿う奥州もまたそれは敵である、と、ものすごい無理矢理こじつけた理由ではあっても、頼朝にしてみれば『いつか自分の座をおびやかすかもしれない弟』と、『いつか自分の築く武家社会を打ち壊すかもしれない北の一大勢力』を同時に亡き者にしてしまうには好機なわけで。 秀衡がその最中に亡くなってしまったというのは一つの暗雲だったのかもしれないけれど、たぶん御館があの後も永らえていたとして、奥州藤原家はいつかどこかしらから崩れたんじゃないかな、と思う。その時点で既に法皇をバックにつけて武家の頂点に立っていた頼朝に睨まれ続けていれば、どこかで誰かは恐慌をきたして奥州藤原家の足並みは狂う。もちろん、頼朝はじわりじわりと弱いところから突き崩す工作も怠りはしないだろうし。 『泰衡が鎌倉に屈して奥州を滅ぼした』視点なら、そこで最初に負けちゃったのが泰衡でした、ってことになるんだろうね。 それまでびしっと奥州の指針を定めてくれていた御館はいない、自分で決めなきゃいけない、鎌倉は今にも戦を仕掛けてくるかもしれない、怖い、でも今の御館は自分、頼ってきてくれた義経は守らないと、でも鎌倉に勝てるのか?御曹司を守れ、が秀衡の遺言、古参の家臣はそうすべきだという、でも…って、そうとうグルグルしてたでしょうね。 グルグルして、誰も相談相手がなくて、ぷつん、と来て義経を討てば奥州は安泰だ、って頼朝の策にかかっちゃった。 …でも、果たして泰衡はそんなに弱い人物だったのかというと、それはそれで首を傾げるのだけど。 うーん…その時代、何が背景にあって、何を思ってその人物が動いていたかっていうのは、その時代を生きてはいない私たちには想像するしかないわけで、私はその『想像』して『創造』する過程が歴史の醍醐味だと思っているのですが。 泰衡が強いか弱いかはさておいて、一つだけ思うことがあって。 それは、少なくとも愛されてはいたんだろうな、ってこと。 民衆から、一族から、嫌われるような人間ではなかったのだろう、と思うのですよ。 中尊寺蓮…泰衡蓮って蓮があるのですけど、今年はもう盛りが終わっちゃったようですが、中尊寺の夏に咲くらしくって。 その蓮は、泰衡の首桶の中から見つかった種子が800年を経て開花したもので。 蓮の種が、勝手に首桶の中に入るわけはないんだから、それは誰かが蓮の花を一緒に入れたってことですよね。頼朝の手で額に釘を打たれて柱に吊るされてた泰衡の首を取り戻して、清めて、浄土に行けるのを願って、蓮を捧げた。 「あの人のせいで鎌倉の侵攻を受けた」「奥州が滅んでしまった」って恨みだけ受けてた人だったら、わざわざ首なんか取り戻さないで朽ちるまま放っておけばいいし、首桶に入れて花を捧げて、そっと秀衡の側に安置する必要なんかないわけで。 『奥州藤原氏最後の御館』であったということと、『奥州を滅ぼした人間』であることは、イコールではないんだな、と思いました。たぶん優しい御領主様だったんだよ、ってのは私の妄想ですが(笑)
そしてそんな泰衡さまのお墓に、金は毎日一輪、野の花を噛み切って咥えて通って、お花を墓前に供えて1日その前に寝そべって墓守をしているといい。 雨の日も風の日も欠かさずに、お花を1本咥えて、てとてとと泰衡さまのお墓へ。
…ああ、何か思いのほか語っちゃった(苦笑)その上なんか論点がバラバラ。歴史学科卒のくせにこの論述のヘタさはどうしましょうかね(笑) …まあ、何はともあれ、泰衡さまの眠りが今日も安らかでありますように。
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