2003年11月28日(金) 己の救いについて
たぶんこの世には、人それぞれ違うけれど、なんらかのカタチをして、『救い』というものがあると思う。 だってそれは、狂信とかどんな侮蔑的な名で呼ばれようと、その人が「救われた」とかんがえたのなら、立派に救いなのだから。
例えばのお話。 当時差別されていたハンセン病患者を、心からいたわり、介抱し続け、何十年経った神父の話を例にとると。 彼は自分に最大の感謝を見せる信者にさえ、「しかし貴方は健常であるから、私たちの気持ちはわかりえない」といわれしまい、ショックを受けました。しかしその数年後、ついにその病に冒されたとき、 「ああ、これでかれらの同じ気持ちになれる」と、彼は長年の心痛から解放されるのです。 そう、まさに『ハンセン病に自ら罹ること』こそ、彼にとっての『救い』の姿ということでした。
私は・・・おなじことが、私にも言えると思いたい。
そして私は、既に私が真に救われる方法を知っている。 しかし私は永遠に・・・それこそ心変わりしないかぎり、その方法をとらないと決めてしまっている。 だからきっと、私は永遠に救われない。 でも。
救われなくてもいいから、追いかけたいモノが、私にはある。 ・・・しかしそれは追いかけても絶対に得る事が出来ないのは明白で。 それだったら、救われたいと、私は願ってしまって。
ああ、馬鹿な女、馬鹿な女。 私は微塵さえも動けない、馬鹿な女です。
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