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あるこのつれづれ野球日記
あるこ
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2002年01月17日(木)
この日を忘れないために 1・17

 
 あの悲劇は、7年前の今日、起きた。

 当初は、「きつい地震やったなあ」程度の認識しかなかったが、時間が経つにつれ、事態の重大さを痛感した。

 当日は、大学の後期テストの初日だった。余震におびえながら、電車に乗り、学校に向かった。学校は、案の定というかなんというか、とにかく休みで、テスト期間は順延となった。

 帰宅してからはテレビに張り付いていた。長い間、ブラウン管には、神戸の町が燃えていく姿が映し出されていた。私は微動だにせず、その状況を見守っていた。言葉も出なかった。

「戦争、みたいやな」 
 姉がポツリとつぶやいた。

 CMも芸能スキャンダルも平和だからこそだ。こうなるくらいなら、その類のことでイライラしていた方がよほどマシだと思った。

 震災関連の中継やニュースは長らく続いた。
 あの日、阪神・淡路にいた様々な人々のドキュメントをテレビを通じて知った。

 ある10代の女の子は、大のKinkiKidsファンで、大阪の厚生年金会館で行われたコンサートに行ったその2日後に震災にあって亡くなったのだという。

 実は、そのコンサートには私も行っていた。当時アルバイトをしていた塾の生徒に「保護者代わり」を頼まれて、ついて行ったのだ。あのとき、同じ場所にいた子が、こんな大災害に巻き込まれて命を落としている…。顔も名前の知らない赤の他人ではあるけれど、そんなささやかな共通項が私にショックを促した。

 新聞で報告される死者数はどんどん増えていく。数字の大きさだけが先走りし、事があまりに重すぎて、どれだけ重いかわからなくなっていた。

 今日、常連さんが掲示板に書き込んでくださっているのですが、「非常時こそ、その人の本性が出る」ものだと痛感しました。

 遠くから、学校を休学してボランティアをする青年もいれば、崩壊した建物を前に記念撮影をする人もいる…。ものすごく大きな意味で、「世の中には色々な人がいるんだ」ということも痛感しました。

 震災後初のセンバツ大会は、賛否両論がありました。「こんなときだからこそ、町を元気づけるために甲子園で!」という人と、「そんなことより、甲子園球場に仮設住宅を建てたらどれだけ多くの人が助かるか」という人と。

 当時の私は、それでも甲子園大会をして欲しいと思いました。

 でも、今なら選手には申し訳ないけれど、「甲子園球場に仮設住宅を」の立場を取ります。あんな寒い中、家もなく、長い間避難生活やテント生活を強いられていた方々は、どれだけ辛く苦しかったことでしょう。「もしも自分だったら…」と思うとぞっとする。

 それから、何度となく兵庫方面に足を運んでいるが、ずいぶん長い間、町から仮設住宅の姿は消えなかった。(いや、今でもあるのかもしれない)


 あれから、7年…。
 実は、私、朝から仕事が終わって帰宅しネットを開けるまで、「阪神大震災」のことが全く頭にありませんでした。

 あんなにいろんなことを考え、言葉に出来ないショックを受けた衝撃的な出来事だったのに、たった7年で日常に波に押し流されてしまうものなのか。それが、私という「非被災者」である人間なのか。

 この日を忘れてはいけないと思う。

 当時は、心臓がバクバクして、またいつあの大地震があるかわからないと私ですらしばらく眠れない日々が続いた。

 今では、町もきれいになり、人々もにぎわいや落ち着きを取り戻しているように見える。でも、多くの人が、震災の傷跡はまだ癒えていないという。

 本当も意味での復興は、いったいどういうものなのか。そして、いつになったら訪れるのだろう。

 その時、神戸はどういう町になっていて、世の中はどうなっているのだろう。少しでも、かすかにでもいいから、穏やかで暮らしやすい世の中であって欲しい。