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2004年01月16日(金) ■ |
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播磨新宮町遺跡めぐり(03.11.9) |
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久しぶりの考古学ポートを送ります。 とはいっても、内容は吉備地域ではありません。11月9日兵庫県新宮町で行われた「歴史ウオーク」新宮宮内遺跡周辺巡りに参加してきました。この遺跡は山陽線を播磨線に折れて播磨新宮ICで降り、国道179号線を龍野方面にいくと左側に新宮町が見えてくるので、その中の町民スポーツセンターの隣に在ります。 皆さんご存知だとは思いますが、私の関心領域は弥生時代です。特に最近は近藤義郎教授の「吉備東遷説」(3Cに吉備の中心勢力が大和にそっくり移って、前方後円墳体制を作った)を自分なりに解釈咀嚼することに凝っています。今回のレポートもその視点で書いていることをお断りしておきます。 今回の遺跡の近くには兵庫県を代表する河川揖保川が流れています。兵庫県西の河川流域には注目すべき弥生遺跡がたくさんあって、以前二号線沿いの有年原・田中遺跡に行った時、非常に大きい円形墳丘墓が在ったことに驚きました。特にここでも吉備地域につながる特殊器台・特殊壷が出土していたのです。この地域は吉備を考える上でも大和とのつながりを考える上でも重要な地域だったのではないでしょうか。少なくとも吉備から大和に向かう通過点ではなくまとまった国があり、「倭国大乱」から「卑弥呼の時代」をへて「前方後円墳体制」に移る段階で重要な役割を持っていた地域と考えていい様な気がします。今回新宮町の遺跡群を見て、その規模と量の大きさ豊富さを見て、そう感じました。
先ずは新宮宮内遺跡の見学をしました。弥生時代中期を中心とする縄文時代から平安時代の複合遺跡で竪穴住居跡、溝、方形周溝墓、円形周溝墓などが見つかっています。特に円形周溝墓は弥生中期のものとしては国内最大規模です。吉備でたくさん見つかっている、分銅型土製品が21点も出ています。この土器は謎の祭祀土器と言われていて、木管墓の木管が美作地域のそれと類似しているのと同時に同じような祭りをする首長がいたのかと吉備とのつながりを豊富に想像させます。弥生中期といえば特殊器台が「発明」されるだいぶ前、いったいどんなつながりがあったのでしょうか。その一方で吉備ではあまり見られない環濠のあとや矢じりがたくさん刺さった「弥生戦士の墓」も出土されています。 また、私が注目したことで、この遺跡から三つの美しい三角型の山が見えるということです。大和の三輪山、吉備の中山、出雲の茶臼山、弥生時代の拠点集落在るところに必ず「かむなび」(神の降りる山)あり。だんだんと私の確信になってきました。事実、この新宮三つの山はいずれも「播磨国風土記」に出てくる山だそうです。一番形のいい大鳥(風土記では鳳)山だけはまだ遺跡が見つかってません。私はきっとなにかあると思います。 そのあと、天神山(風土記では飯盛山)麓の意外と考古資料がたくさん展示されてある「歴史民俗資料館」、国指定重要文化財の16Cの社内殿を特別に見せてもらった「宮内天満神社」、全長11.5mの横穴石室に入らせてもらった古墳時代後期の円墳「天神山古墳」、約30基の後期古墳が密集している「宮内古墳群」、日本最後のあだ打ちをした墓がある(その絵馬がなんと倉敷に5点もあるという)「梅岳寺」等を見せてもらった。箸墓古墳と同じ時期の前方後円墳「吉島(よしま)古墳」は残念ながら天候の関係で見ることが出来ませんでした。 このコースはなかなかいいハイキングコースになっている。資料はスポーツセンター隣の図書館で手に入るみたいなので、気が向いたときに訪ねるといいかもしれない。 今は新宮町では「邪馬台国への道のり」と題していろんな企画をしておりこの「歴史ウオーク」もその一環。その他スポーツセンター2階では遺跡の出土品の展示をしていて、これがその量の豊富さではちょっとした資料館とひけはとらない素晴らしさである。念願だった田中遺跡の出土品もたくさん見ることが出来た。河内、山陰、吉備のつながりがここでも確認できた。豊富な資料もただで貰えた。このお金の掛け方は凄いとしか言い様がない。岡山県に爪の垢でもせんじて飲ませたいぐらいぐらいだ。
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