
|
 |
| 2005年08月28日(日) ■ |
 |
| 津島遺跡から『特殊な器台』出土 |
 |
邑久郷土資料館のことを書いた後、K氏から「特殊器台の研究はこれからなの です。」「桃太郎スタジアムにある資料館に特殊器台があった」と教えてもらいまし た。早速8月16日に行ってみました。非常にいい博物館でした。
「遺跡&スポーツミュージアム」という。いずみ町の桃太郎スタジアムの中にありま す。月曜休館の観覧料無料ですが、きれいなこと、 (以下の文章で述べているように)展示遺物の質が高いこと、説明文が一歩踏み込ん でいること、学芸員が非常に親切だったこと、等々の理由で岡山県で最高の考古博物 館といっていいだろう、と私は思います。
縄文時代の松菊里型の壺がありました。朝鮮半島との交流がその頃からこの津島で あったのかあ、と驚きました。しかも伽耶地域ではなく、百済地域で。(あっ、まだ この頃はそういう名前ではなかったですね。)縄文時代の篭目のついた土器もありま した。稲の種を籠でつるして保存しておいたのではないかといわれています。弥生の 磨製石包丁も当然展示されているのですが、「誤って落としたのだろうか、田んぼに 張り付いたまま発見された」というコメントがついていた。ここまで踏み込んだキャ ンプションはあまり見たことがない。祭りに使われたか銅鐸型土製品(弥生)があり ました。絵画土器(弥生)も人物像としてシンプルです。各地の土器もまとめて展示 されていました。東西南北例に漏れずよく交易しています。
そして 直孤文としか思えない「装飾版」がありました。用途は不明だそうです。 さらには 一メートルはあろうかという巨大な器台。 形もほぼ特殊器台です。模様は何型と言うのでしょうか。シンプル。
 女性の学芸員の方にいろいろ聞きました。 「あそこに特殊器台があるんですけど……」 「特殊器台とはいいません。「特殊な器台」です。」 「どう違うのですか」 「一番大きいのは、墓から出ていなくて、住居地帯から出ているということです ね。」 「それから籾殻が刷り込まれている。それに関する祭祀だったのでしょうか。」 「それから特殊器台は弥生時代�鹸�以降なのですが、 これは弥生時代�郡�なんです。しかもこれひとつのみ。 後は専門書読んで調べてください。」 いやそれだけ聞けばほぼ満足です。と、思いながらもあと少し(^^;) 「では、これが特殊器台の直前の姿だということは出来ないんですか。」 「なんともいえませんね。」 「ここの特殊器台について、本で述べてあるのを見かけたことはないんですけど。」 「そうでしょうね。この前大阪から来た学者の方も、 こんなところに特殊器台みたいなものがあるとしって驚いていました。」 これは2004年に報告書が出たばかり。 これからの研究になるのでしょう。 報告書で遺跡のどこの部分からどういう状態で出てきたのか、 報告書をだいぶにらみましたが、読み方が良く分からなくて、 また聞きました。 「さっきこの器台は住居跡から出てきたといってらっしゃいましたが、 この報告書は河の跡から出てきたようにしか見えないのですが……」 「河の跡から出てきたのです。」 「それでは川に捨てたということですか。」 「そうではないと思います。実は土器も河の跡から大量に出ているのですが、 まとまって出ているのですね。 だからこの器台も何らかの目的で河に沈めたかどうかしているのではないでしょう か。」 うーむ、謎だ、謎だ(^-^)どきどきする。
私はここが特殊器台発祥の地だとは短絡的には考えない。 ただし、弥生後期のある時期、あの器台が誰かによって突発的に 発明され、広まったのではないということは想像できる。 墓の祭祀に採用される前は、 ほかの祭祀に採用されていたし、 その前の器台については邑久地域も含めて広い拡がりで作られていた 可能性が高くなった。 そういえば兵庫の田中遺跡、 あそこの器台は相当形が違っていた。 別系統だったのかもしれない。 よく考えると岡山県は 弥生住居の発掘が極端に少ないように思う。 もっとほかの住居地域が発掘されたら 系統だって考えることが出来るのかもしれない。
ここの資料を見てみると、 特殊器台のひとつの型が出た都月坂墳墓群がすぐ傍の山の上だと分かった。 行ってみたが、例のごとく上り口さえ分からなかった。 古代吉備を語る会で早急にここを企画してもらえないか。 疑問が山ほどあるんですけど…… 6000年前のプラントオパールが発見された 朝寝鼻貝塚の場所も初めて知り、 帰りがけによって見ました。 加計学園の玄関口にありました。
Kさん、 いい博物館を教えていただいてありがとうございました。
|
|