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2005年10月30日(日) ■ |
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『朝鮮通信史と唐子踊りについて』 |
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学習会で作ったレジメです
『朝鮮通信史と唐子踊りについて』 05.09.19
1.豊臣秀吉の朝鮮侵略 なぜ起きたのか 秀吉の野心と領地安堵 どういう経過をたどったのか 1587朝鮮通信使を要求 1590服属を意味する国書を要求 →拒否 1592文禄の役(イムジンウェラン) 陸上戦不利 亀甲船で対抗(李舜臣イ・スンシン) 93明の援軍 明と日本のみで講和 1596慶長の役(チュンユジェラン) 軍備を準備南部での戦い ウルサンソンの戦い 98秀吉の死亡 結果及ぼした影響 日本 豊臣政権の弱体化 1600−1603徳川政権への移行 明 国力の衰え 1644女真族の清に滅ぼされる 朝鮮 村落共同体の崩壊 飢饉 文化財の破壊 人さらい戦争 2〜3万人 戦争の犠牲者 耳塚10数万人 沙也可について
2.再開された朝鮮通信使 それまでの通信使 明と日本の冊封関係 朝鮮との交隣関係(対等な関係) 朝鮮との貿易の必要性 対馬が窓口 釜山に倭館 『通信使』1429−1467頃 13回 50人の行列 と『日本国王使』 50回 ソウルで国書の交換代 変わりの祝い 応仁の乱で止む
なぜ再開されたか 徳川家康の強い要望→朝鮮応じず 1604『探賊使』駿府の家康と会談 再侵略の意志なしを確認 朝鮮人の帰国1390人 1608国書と墓荒しの犯人の送付 対馬藩による国書の書き換えがあったにもかかわらず両国は黙認 両国の貿易の必要性
どういう性格であったか 1607第一回使節団 406人 最初は侵略の意志が無いことを確かめる 帰国1418人 全体の帰国 3600人 1636第四回 このときより通信使と名乗る。 祝賀の性格。友好・新善の使節団へ。 なぜ日本から朝鮮に行かなかったのか 不明 (この教科書の怠慢)
3.朝鮮通信使の実際 記録から 文化の交流 儒学 医者 画家 サーカス技芸団員 楽隊 日本のサツマイモが朝鮮へ 『孝行芋』→『コグマ』 小童 踊りで一行の疲れを癒す→唐子踊り 藩によって民間レベルの交流が出来るところと出来ないところがあった。
通信使の接待 三の瀬 鞆の浦 全体で約100万両の費用 幕府年間予算 78万両
唐子踊り 別紙
4.何をもたらしたか なぜ終わったのか 財政逼迫 1711第八回 1787松平定信無期延期 飢饉混乱見せたくない 1811第12回 対馬で返す 32万両で済ます 12代将軍から15代まで招聘せず 政治の混乱 尊王譲夷運動 幕府の財政悪化 社会の混乱 飢饉打ちこわし 日本型華夷意識 国粋主義(国学) 尊王譲夷・討幕運動へ 『朝鮮朝貢使』1812鞆の浦福禅寺 木彫りの額 1910韓国併合へ
歴史の教訓 いったんこじれた関係の修復は簡単にはいないこと いったん国交が回復すると豊かな文化交流が出来ること 朝鮮との関係悪化は 遣唐使の廃止から室町まで(約200年間?) 16世紀の150年間 1910−1965or87までの約60-80年間のみ。 現在は空前絶後の関係良好な時期であろう
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