2004年10月22日(金) |
ゴッホはなぜ、耳を削ぎ落としたのか? |
こんにちは、カン・チュンド です。
(念のため)上記標題 は、わたしが思いついたものではありません。 (たしか)村上 龍 氏 の小説の中で使われていた言葉です。
実は最近、ゴッホ の画集を読み返しています。
きのう目に留まったのは「耳を切った自画像」です。
Self-Portrait with Bandaged Ear
彼の 自画像 を見つめながら、 「ゴッホはなぜ、耳を削ぎ落としたのか?」
という問いに対する 答え がふと浮かびました。
ゴッホ は「 耳(聴覚)なんて必要ない・・」 と、無意識に思っていたのではないか、と。
(彼は目を突いたのではなく、耳を削ぎ落としたのです)
耳(聴覚)を遮断することで、 目(視覚)= (絵を描くことの)感性 を 研ぎ澄ませたかったのではないか、
というのがわたしの邪推です。
まあ、今お話したこと自体、 一種異様な 想像 ですよね。
この 耳の事件 をはじめとして、 ゴッホ には(なぜだか)狂気の画家 というイメージがつきまといます。
黒澤 明 監督 の「夢」で描かれていた ゴッホ も、 ブツブツわけのわからないことを言いながら、
一心不乱に 筆 を動かしている人でした。
(ちなみにゴッホ役は アメリカの映画監督 マーティン・スコセッシ・・)
(確かに)絵を描いている最中の彼は (一種)狂気 の状態であったかもしれませんが、
その前段階、つまり、
絵を描くに至る「プロセス」の段階では、 実に 緻密で、論理的な思考を行っていたとわたしは思うのです。
それは 弟のテオ に宛てた数多くの「手紙」を読めばわかります。
ゴッホの手紙(中)(下) (岩波文庫)
ゴッホは、これから描こうとする絵の「コンセプト」について 弟に語り掛けます。
「自分がなぜ、この風景を、この人を描きたいのか・・?」
「わたしが描きたいのは、この風景の ○○さ なんだよ・・」と。
彼は 弟テオ に手紙を書くことで、 絵を描くに至る 思考・戦略 について自身を掘り下げ、 また、絵を描くことの「必要性」を再確認していたのだと
わたしは思うのです。
描写の『手法』についても、ゴッホ は事細かに語っています。
(自分の中で)たったひとつ追い求めている 「赤」の具体的なイメージ、
そこに至るための 絵の具の重ね方 について、 あるいは、一本の「木」の、具象の仕方 と その意味付け について・・。
ゴッホ は、弟テオ に語りかけることで、 己の漠然としたイメージを、
具体的な【作品】に昇華させていったと思うのです。
そういう意味で、ゴッホの 絵 は 弟テオ との 合作 です。
わたしは、ゴッホという芸術家は(その本質のところでは) 非常に鋭利な 分析能力 を備えた人物だったと推察します。
そんな彼が、自らの耳を削ぎ落とし、
(結果として)聴覚という 感覚 を拒否しながら、 ひたすら絵を描き続けていた姿を想像すると、
ちょっと胸が痛くなってしまいます・・。
ともかく、画家は 絵 によって人生を語る者ですから、
ご興味ある方は ぜひ ゴッホの世界 に触れてみてください。
では皆さん、よい週末を!
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