2002年08月18日(日) |
蝉に想う(´-`).。oO |
やっべ。免許の書き換えに行かなくちゃ。マジで免許切れる寸前。
そろそろ年齢的にドモホルンリンクルを注文しなくてはいけない気がしてきた美南海ですコンニチハ。う、うるせぇやい!
そうそう、昨日念願のマイナスイオンドライヤー買っちゃったんですけど。イイですねコレ!マジで!ただ難点は・・・アタシの髪の毛ってコシの無いネコッ毛なので、ボリュームが無くなっちゃう事が。でも手触りが違うよな!朝起きても効果続行中!プラシーボ効果が全くナイこのオレでも、この違いは分かるぞなもしかして!感動に続く感動の嵐!
小泉首相がTVで「セミは地下で7年間ジッと耐えてるのに、地上に出られるのはたったの1週間。儚いですよね。」と言ってました。正確には地下に7年間では無く数年間、地上に出られるのは数週間(だいたい2〜3週間らしい)ですが。
昆虫記を書いたファーブルも「蝉は生きている喜びを鳴くことで表現している」という主旨の事を言っていたらしいです。ファーブルに直接聞いたわけじゃないので知りませんけど<当たり前
でも、じゃあ。一体誰が蝉が地下で過ごす数年間が不幸せだと決め付けたんだ?蝉に直接聞いたのか?と思うのです。もしかすりゃあ、蝉にとってみればその数年間の方が幸せなのかもしれないじゃないですか。
アタシの敬愛する友麻衣子が1年程前に麻衣子のサイトの中で綴った言葉「蝉は 鳴いているのではなく 泣いている のでは」という言葉もまさしくアタシも”そうかも知れない”と。
生命の歓喜の鳴き声を上げてるのではなく、苦しさで泣いているのかも知れない。
人間はとかく自分に照らし合わせて考えるのですよね。それが全て間違いだとは思わないけれど、それはもしかして勝手な勘違いかもしれない。押し付けがましい手前味噌な持論かもしれない。
例えば、生まれつき体が不自由な人を見て「可哀想だ」と言うのも何か違うと思うんです。確かに不自由でしょうけど、可哀想とは違う。体が不自由な人に、必要あらばアタシのようなモンでもお役に立つなら協力させて頂くけれど、その人が自分より「可哀想だから」何かをしてあげるという訳じゃない。「可哀想」と言う言葉はその人に対して自分は優越感をもっているという事でしょう?そーじゃないんです。
仮にアナタは「アナタって可哀想なヒトだからアタシがこうしてあげる」と、他人に言われたら嬉しいですか?少なくともアタシは嬉しくないです。ほっとけバーカうるせぇよヽ(`Д´)ノこのチンカス!!と思います。
もう一個例えれば。 恵まれない国の子供たち。あの子供たちは、自分たちが日本から見てどれだけ貧困かと言うことを知っているのでしょうか。子供たちはそんな事を考えていないと思います。自分たちは今幸せだと思わなくとも、日々を送るのが精一杯でしょう。子供達は今まで生きてきた数年の自分の生活が全てなのですから。
でも、確かに日本人のアタシ達にとって彼らの生活は裕福なものでは無い。それを少しでも気にかけ、出来る協力をするのは至極当然だと思いますけれど、彼らを「可哀想」な目で見てはいけないと思うのです。
同じ人間として。同じ命の重さを持つ地球上の生命体として。
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