前潟都窪の日記

2004年06月28日(月) 【オァーズマン憧れのヘンリー・オン・テームズでレガッタに参加・・イギリス】

▼イギリスの旅2 ヘンリー・オン・テームズ、ロンドン
                 2000年6月25日〜7月11日

 ボートを漕いだ者なら、一度はボートのメッカとも言われるヘンリー・オン・テームズで漕いでみたいという夢を持っているに違いない。
 筆者はこの度、大学時代の漕友達で編成した60歳代舵手付きフォアー・クルーの一員として7月8日、第7回ヘンリー・ヴェテラン・レガッタに出漕し完漕した。同時に仲間内から60歳代エイト・クルーも別に一艇出漕し漕友達がお互いにヘンリー・オン・テームズのレガッタで漕ぐという醍醐味を堪能した。

 ことのいきさつは、7年程前から還暦を目前に控えた大学時代のボート部の仲間が横浜の鶴見川に月二回集まり、健康と漕ぐことを楽しむために始めた漕艇であったが、年一回開かれる母校の対東大戦の余興、OBレースに出場するだけでは飽き足らず、海外のレガッタにも出場して海外旅行も共に楽しもうということになって、手始めに2年前ロイヤル・ハワイアン・ローイング・チャレンジに出場し、次いで今回のヘンリー・ヴェテラン・レガッタ出場となったのである。

 ヘンリー・オン・テームズはロンドンの西方、車で約一時間の距離にありオックスフォードからは南方38kmの地点にある美しい町である。

 ここで行われるレガッタとしてはヘンリー・ロイヤル・レガッタが最も有名である。このレガッタの起源は1829年にオックスフォード大学とケンブリッジ大学の対抗レガッタが初めてこの地で開催された時まで遡る。1839年に10周年記念レガッタが当地に於いて両校の間で行われたが、他にも数多くのレースが同時に行われ、以後、毎年継続されることとなったのである。その後、1851年に英王室のアルバート王子が後援者となるにおよんで、ヘンリー・ロイヤル・レガッタと名前を変え年々盛大になり、国際参加も多く得て今日に至っているのである。ロイヤル・レガッタは毎年6月下旬から七月上旬にかけて数日間にわたって予選、決勝が行われる大規模なものであるのに対し、ヴェテラン・レガッタはその約一週間後に一日だけ行われる小規模なものである。歴史もまだ浅く、今年で第7回目である。ヴェテラン・レガッタはその名の示すように出場資格が31歳以上でローイング・クラブに所属する者となっており、ボート愛好家が年齢別のクラスに区分けされて出場できるようになっているのである。

 国際参加も認められており、今回のヴェテラン・レガッタの参加国はイギリス、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、ドイツ、オランダ、ノルーウェイ、日本の十か国であった。日本からは勿論、東洋からも我々のクルーが初参加であった。

 レースは午前8時から午後6時まで終日行われ、競技種目は年齢別の雑多にわたり、1,100mを競う2艘レースで4分毎の発艇である。                    
 折りからヘンリー・オン・テームズの町ではヘンリー2000・フェスティバルが大々的に催されており、ヘンリーブリッジ下流の川畔には大きなテントで囲い込んだフェスティバル会場が設営されていた。7月5日から9日まで5日間、この会場で音楽祭と美術祭が行われるのである。

 この会場へ入場するにはチケットを購入しなければならず、男は黒のスーツにネクタイの着用が求められ、女子はイブニングドレスの着用が求められる。午後六時からの開演となっているが、昼過ぎから自動車に椅子や机を積み込んできて牧草地にテントを張り、正装してワインやビールを飲みながら開演時間のくるのを待っている人々がそこここに見られるし、クルーザーでやってきて船を係留しその中でワイングラスを傾けながら談笑している人達もいる。

 如何にもフェスティバルを生活の一部に取り込んで楽しんでいるといった風情である。開演時間の迫った午後5時頃になると、電車から降りた正装の紳士淑女が大勢、フェスティバル会場へいそいそと集まって行く風景が見られる。またクルーザーからも正装の紳士淑女が吐き出されて、道路は黒っぽい群衆で埋まる。何しろ緯度の高いこの国では、この時期午後九時頃まで戸外は明るく、暫しの短い夏を心ゆくまで楽しもうという風情が窺われる。日が落ちてからは花火も打ち上げられる。

 現地入りした日は緑地で憩う紳士淑女を横目で眺めながらテームズ川畔を歩いて最初にローイング・ミュージアムへ行った。流石にボートの本拠地だけあって豊富な展示物であった。付属の売店にはローイング・グッズが並んでいたが本番のロイヤル・レガッタが終わっているので品数はそれほど豊富ではなかった。

 翌朝早く目が覚めたので五時に起き出して散歩に出掛けた。レースの行われる川畔をスタート地点のテンプルアイランドまで歩いてみたが、早朝なので通り抜けた町中には人影が全然見えない。昨夜のあの賑わいが嘘のようである。夜更けとともに自動車で家路を急いだ人達も多かろうが、多くの人々は係留された夥しい数のクルーザーや川畔の緑地に張られた数多くのテントの中で楽しい夢を結んでいるのであろうか。この時期ホテルはどこも超満員であるからホテルや別荘で宿泊した人も沢山あるに違いない。川畔にはフェスティバルの会場となるテント村が延々と続いているので、遮られてなかなか川畔に出ることができない。

 暫くテントに沿って自動車道を歩いていくとアパー・テームズ・ローイング・クラブと標識の出ている建物の庭の門が開放されていて川畔に通じているのを発見した。ここを通り抜けて川畔へやっとの思いでたどり着くと川畔にも人影がない。朝霧のもやっている緑豊かな川畔の小道を散歩するのは実に爽やかである。緑地には白鳥の子供達五十羽ほどが群れをなして歩いていた。レースのスタート地点となるテンプルアイランドで折り返してホテルへ帰った。およそ1時間半の気持ちよい早朝散歩であった。

 ローイング・ミュージアムで求めた「テームズ・・・・川と小道」という地図を広げてみると、テームズ川はテームズ・ヘッドに源を発しイングランド南部を東流して、ロンドンを経た後に北海へ注ぐ全長四百五kmの名川である。川の畔には緑色で源からロンドン市内のタワーブリッジまでの小道が克明に明記されていてハイカーやホースライダー達に便利な編集がなされている。ロンドンより上流のテディグトン堰から上流全体は1857年にテームズ自然保全区に指定され、水は清く、岸に森や牧場が多数あって秀麗な景観をつくり出している。オックスフォード、マロー、ウインザー等の一度は訪ねてみたい美しい町や村がこの流域に多数佇んでいる。

 ホテルで朝食を済ませてから暫く町中を散策し、再びアパー・テームズ・ローイング・クラブの建物の近くへ集まり借用する艇の到着を待った。待つこと久しく午後3時にやっと艇が到着した。

 見るとエイトの尖端部分には小さなゴルフボール大の丸い穴が開いているし、舵なしフォアの尖端は折れている。どうも運搬中にトレーラーに積み込んだ艇の後ろ端を何かにぶっけてしまったらしい。そのため艇の到着が遅れてしまったのであろう。早速艇を下ろして組み立て、損傷のなかった舵手付きフォアを浮かべて練習をした。

 鶴見川ではエイトでの練習が多かったので、フォア艇での練習は必ずしも十分であったとは言えない。案の定オールが合わなくてバランスを崩し思うように艇速がでない。それでも何回か練習しているうちに呼吸も合って、バランスも取れてスピードがでるようになった。

 エイトの方も穴の開いた部分にテープを張って、何とか水の入らぬように補修が終わった。エイトの方は時間がなくて浮かべることはできなかった。フォアを陸に上げてオールを張り、風で引っ繰り返らないようにしておいてから今日の練習と艇の整備を完了した。

 この日はオックスフォード大学ボート部OBの人々から夕食の招待を受けているのでホテルへ帰り、スクールカラーである濃青の揃いのブレザーにネクタイをして彼らが迎えにきてくれるのを待った。やがてリンゼイ、ラザフォード、ドナルド・ショー、グリーンの四氏が揃いの濃青のブレザーを身に纏って迎えにきてくれた。オックスフォード大学のスクールカラーも濃青なのである。彼らは昭和34年にオックスフォード大学の学生エイト・クルーとして来日し、日本の幾つかの大学ボート部と艇を並べた時のメンバーである。実に41年振りの再会であった。当時のオ大クルーのメンバー表から彼らの消息を辿り、まずリンゼイを探し出して彼を窓口にして今回の訪英となったのである。

 彼らの先導で由緒ある名門のクラブハウス「リアンダークラブ」へ赴き、ビールやウイスキーで交歓した後、ディナーを御馳走になった。



その後、日本から持参した41年前のレースの模様を録画したスポーツ・ニュースのテープやTシャツ、当時の写真の複製等を土産として贈呈した。東西の大学生として共に戦ったオァズ・マン達が41年振りに再会して杯を酌み交わしながら、初老の顔貌の中にも紅顔の美少年の面影を見いだしては談笑する、とても楽しく素晴らしい感動的な一刻であった。来訪したオ大クルーの内二人は鬼籍に入っていると知り,時の流れの速さとともに人生の儚さを感じてちょっぴり感傷的になったりもした。 

 翌朝コース川畔へ行って艇のリギングの整備を行いエイト、フォア共にそれぞれで練習をした。練習中にアメリカのチーム、カルバー・クルーと交歓することもできた。このクルーは平均年齢75歳のアメリカからきた海軍士官学校時代に結成されたクルーであるが1943年以来57年間一緒に漕いでいるという。今回は仲間の内に物故者がでたのでボートのメッカ、ヘンリー・オン・テームズに散骨するため遺族と現存クルーの家族を引き連れて参加したのだという。我々のことを「ヘイ、ベービー」と言ってからかう、よく統制のとれた元気で陽気なオジイチャンパワーであった 

 その次の朝8時40分の出漕で小生の乗った舵手付きフォア艇はシェークスピアの生まれ故郷からやってきたストラトフォード・アポン・エイボン・クルーと対戦したが、基礎体力と練習量の差は如何ともなしがたく大差で敗退してしまった。スタート後の僅か十本程で相手の姿は視界から消えていた。
 12時50分からの出漕でエイトはリー・クルーと対戦したがこれも大差で敗退してしまった。今回の遠征では勝負にこだわることなく、憧れのヘンリー・オン・テームズで漕いでローイング人生に思い出を残したいという素朴な動機から実現した計画であったため、全員事故もなく完漕して達成感に浸ることができたのはオァーズマンの冥利に尽きると言えるだろう。


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