前潟都窪の日記

2005年07月10日(日) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂26

 このとき西山拙州が玉堂の弾琴に感銘を受けて次の詩を残している。

  君蓋玉堂琴 奇珍値万金
  峩洋償夙志 韶 想遺音
  誰熟更張法 能伝鸞鳳吟
  南薫何日奏 解慍正民心

    君玉堂琴を蓋(か)う。奇珍にして万金に値(あた)る。
    峩洋として夙志を償い、韶 (しょうかく)遺音を想う。
    誰か熟(よ)く更に法を張りて、能く鸞鳳の吟を伝え、
    南薫何(いず)れの日か奏して慍(いかり)を解し民心を正さん。

 君は玉堂琴を買った。類稀なる珍しいもので非常に高価なものであった。琴の音の響きはけわしい山のように高く、広い海のような拡がりを持っていて、君の早くからの志にかなうものであり、その楽曲には太古に理想の皇帝舜が奏でたものに通じるものがある。今の世の中でいったい誰が更によく、法の精神を徹底させ、徳ある君子の世にだけ現れて鳴くという瑞鳥のさえずりを聞かせてくれるのだろうか。民の恨みや怒りが解かれて天下がよく治まっている時、吹くという南からの薫ぐわしい風は何時ふいて太平の世がくるのだろうか。
                                  
 胸襟を開いて清談に耽りながら杯を酌み交わしているうちに、正月に玉堂が本藩の藩主に敢然として所見を開陳したことも話題になっていた。鴨方の田舎に身をひそめてじっと世の中を眺めていた拙斉には玉堂の言動と人柄に清廉潔白で端正なものを感じとり、琴の音に耳を傾けているうちに感銘をうけたのである。詩にはその気持ちがよく現れている。         
 この年五月には母茂が81才で天寿を全うした。
 安永四年に母の古稀の寿宴を催したとき大阪生まれの朱子学者中井竹山が既述のように寿詩を贈っており、その末尾の付記に「浦上氏幼にして孤、母氏実に義方の訓あり」と書いている。また「自識玉堂壁」の冒頭で「玉堂琴士幼にして孤、九才始めて小学を読み、長ずるに及んで琴を学ぶ。他の才能なく迂癖愚鈍、凡そ世のいわゆる博打、歌舞の芸、おろかにして知識なし」と自ら記している。このように幼くして父を失い、母の手ひとつで浮薄な道に走らないよう徳義を旨として育てられた玉堂にとって、天寿であったとはいえ精神的な支えであった母を失った悲しみは大きかった。
       


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