前潟都窪の日記

2005年07月15日(金) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂31

 この年暮れには近江の歌僧海量が来訪して暫く玉堂宅へ逗留して年越しをした。
 海量は歌僧、学僧としても知られ近江国犬上郡開出今村の一向宗覚勝寺に生まれ二十余才で寺を甥に譲って全国を行脚し、江戸で歌を賀茂真淵に学んだ。このとき次の詩を賦している。

 玉堂ニ二児アリ 兄ハ十有四 弟は八共ニ書ヲ読ミ書画ヲ善クス 亦琴ヲ弾ク  

    此ヲ賦シテ贈ル
  京畿昔日共相知 今日山陽再会期
  千里川原嚢裡偈 満堂書画床頭詩
  更驚童稚弾琴妙 堪賞丹青絶世奇
  海内風流実不乏 能留飛錫作遊嬉

   京畿にて昔日共に相知る 今日山陽にて再び会期す
   千里の川原 嚢裡の偈 満堂の書画 床頭の詩
   更に驚く童稚の 琴を弾くこと妙なり 堪賞丹青 絶世の奇
   海内の風流実に乏しからず 能く飛錫を留めて遊嬉を作す

 その昔京畿で厚誼を結んだが、今日山陽路で再会し旧交を温めた。背中の袋の中にはありがたい仏の教えを説いた教典を入れて千里の道のりを歩いて来た。旧友の宅で揮毫して与えたり画を描いて貰ったりまた詩を作りあったりして楽しい時を過ごした。更に驚いたことに幼い児童が琴を弾いて聞かせてくれたが驚くほど上手であった。画に用いられている赤色や青色の使い方は実に鮮やかで世にも素晴らしい。天下の風流まさにここにありという趣である。行脚の足を休めて逗留しとても楽しく過ごした。
                                  
 翌年三月三日には讃岐の青山雲隣が主催した古書画展(陽春楼書画展観)へ淵上旭江と共に赴き、秘蔵の中国書画四点を出品した。この高松で開かれた書画展は長町竹石、後藤漆谷、梶原藍渠等が鑑査し青山雲隣の陽春楼が会場となった日本で最初の大規模な中国書画展観であり、八十二点が出品された。玉堂が出品した作品は次の四点であった。

 金碧仙山楼閣図・・・林寧      雪渓漁艇図・・・・・唐寅
 楚江春暁図・・・・・謝時国     草書・・・・・・・・陳献章

 そして玉堂は陽春楼書画展観目録の序に代えて次の詩を寄せている。

  維年在癸丑 至集陽春楼
  峻嶺金中鼓 茂林筆底収
  叙情文字飲 合契蘭亭遊
  俯仰為陳迹 感慨酌忘憂

   維(こ)れ年癸丑(としきちゅう)に在り、集めて陽春楼に至る
   峻嶺金中(しゅんれいきんちゅう)の鼓、 茂林筆底(もりんひって                 い)収る。
   文字に叙情して飲み、合して蘭亭の遊を契る
   俯仰して陳迹(ちんせき)を為し、感慨酌みて憂いを忘る

 この年寛政五年三月三日は丁度王羲之が蘭亭に人を集めた日であるが、ここは蘭亭でなくて陽春楼である。琴を弾き、鼓を打ち、そして絵筆をとりあくことがない。峻嶺といい茂林といい、蘭亭そのままといっていい。書き、歌って酒を飲み、ともに心で契りあう。 
 上を向き下を見てはここがその記念の土地となることを思い、さまざまな感慨を込めて酒を飲んで憂いを忘れようとする。
                                  
 四月四日には書家、儒者として有名であった細合半斉が来訪し、翌日には二人の子供を連れて半斉を訪問した。
脱藩の意志を固めた玉堂は積極的に文人墨客との交流をするようになり、いつこれを決行するか時期を窺っていた。繰り返し反問しているうちに、玉堂の内心では年齢五十才、妻の三回忌に当たる年というのが次第に目安として固まっていった。
 妻安の死後、この頃までに長女の之は岡山藩士成田鉄之進へ嫁いでおり、女手のなくなった身辺はにわかに寒々しくなり寂寥感もいやましていった。 閑職のためこの頃には表むきの御用は殆どなくなっていたし、若い藩士達もいつしかそれとなく玉堂を敬遠するようになっていた。                                     


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