でたとこ勝負
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2004年09月23日(木) 中村うさぎを見直す。の巻

最近、NHKでも見かける中村うさぎ。
作家(1冊も読んだ事はないが)で、ブランド大好きで、買物依存症(本人談)
最近では、プチ整形とかでも有名な彼女。

別に、好きでも嫌いでもなく、ただ、自分とはあまりにかけ離れた世界だと思って
いたのだけれど(私、ローンとか嫌いだからさー)
週間文春の、9月30日号の連載を見て、涙が出てしまった。

一応、前号からの続きだけれど、それを無視してもらっても、書いている内容は
充分わかるので、間に合えば読んでみてもらいたい。<誰に?(笑)
私の中でくすぶっている思いや、悩みや、葛藤が、そこにそのまま書いてあるから。

※「悪魔の女」との戦い※
 カレン・カーペンターの中に住んでいた「悪魔の女」は、白いエプロンを着た幸福な主婦だった。女王様の中に住んでいる「悪魔の女」は、どんな女なのだろう。
 子宮筋腫が発覚した時、「これは子どもを生まなかった私への罰なのか?」などという思いも寄らない罪悪感が女王様の心をよぎった。今にして思えば、あれこそが女王様の「悪魔の女」の囁きだったのだ。
「ほら、ごらん。女は子を産んでこそ一人前なのよ。その義務を怠ったから、あんたはそんな病気に罹ったんだわ。好き勝手に生きて、出産も子育ても放棄した女は、子宮に醜い肉塊でも孕んでるのがお似合いよ!」
 そんな女が自分の中にいることを、あの時、女王様は初めて知った。いや、薄々知ってはいたのだろうがここまではっきりとその声を聞いたのは初めてだったのだ。自分がとっくに捨て去ったと思っていた価値観が、予想だにしない罪悪感という形で、意識の表面の浮かび上がってきたのだ。と、同時に、今まで戦って来た敵の姿が初めて見えた、という気がした。
 そうか。私は、世間と戦って来たのでも、神と戦って来たのでもない。自分の中の「悪魔の女」と戦っていたのだ。そのためのブランド品、そのためのホスト、そのための美容整形だったのか、と。
 女王様の中の「悪魔の女」は、「女とは、心身ともに多大な犠牲を払って子どもを産み育てるからこそ、尊い生き物なのである」と考えている。だから、その役割を放棄した女王様に対して、常に批判的なのだ。
「あんたがいったい何をしたっていうの?」と彼女はせせら笑う。「文章を書いてるって?それが何?そんなの、女にしか出来ない仕事ってわけじゃないでしょう?せっかく子どもを産める身体を神様が授けてくれたのに、それを無駄にして、自分の欲望や自己顕示欲の実現だけのために生きて来て、あんたがいったい何を成し遂げたというの?自分以外の命のために、犠牲を払ったことってある?生みの苦しみも知らなければ、子に乳をやる充実感も知らない。あんたは不幸な女だわ」
 ショウビズ界でこれ以上は望めないほどの大成功を収めたカレンですら、自分を肯定することができず、女としての欠落感や不全感に苦しめられていた。たかだか雑文を書いていい気になっている女王様はもちろん、世の中の多くの女たちが煩悶するのは当然である。
 しかし一方で、幸福な結婚をして子を産み育てた女たちが自分の人生に充足しているかといえば、必ずしもそうではない。彼女たちは彼女たちで、自分が社会との接点を失って取り残されていく不安、己の野望や自己顕示欲が十全に満たされていない不安に苛まれているのである。彼女たちにとっては、逆に「自立して成功した女」という幻想が「悪魔の女」として眼前に立ちはだかっている。
「勝ち犬」「負け犬」などと言っているけど、この世に蔓延しているのは「勝ちながら負けている犬」たちの自責地獄だ。「性的価値」と「社会的価値」と「生殖的価値」という三つの価値のプライオリティが同等であり、どれが欠落しても不全感を抱えてしまうシステム・・・・・・それが、我々の中の「悪魔の女」を産んでいる。
(週刊文春 9月30日号 さすらいの女王 中村うさぎ)

何かを求めて、手に入れたとして、それでもそれが正しいのかどうか迷う。
幸せなのに、別の幸せを、羨ましく思い、そして妬む。
そんな矛盾が、日々私の中にもある。

子供を産むっていう事も、最近よく考える。
望んでも望んでも、手に入れられない人がいるのに「生めるのに生まない」のは
罪なのだろうか?と。
あまりに未熟な親が溢れ、あまりに多くの子供の命が消えていく世の中で、はたして
自分がその未熟な親と、どれだけ違うのか?
親になる自信もなければ、生む勇気もない。
かといって、また正社員として働く気もない。

私の中にも「悪魔の女」が、何人もいるらしい(笑)






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