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■ だってそれは虚像だもの。
私が存在しているということは、私が生きているということであり私が意識を持ちながら行動しているという状態を指すと私は思う。では、私が意識を持たずに行動しているといしたら、それは私が存在していないということになるのだろうか。きっと答えはイエスとなるのだろう、理論上。私が進学高校付属中学の受験を小学校六年の頃受けたのも、そのために泣きながら塾に通ったのも、それが嫌で受験間近に我侭を言って塾を止めてしまったことも、その途端にいきなり荒れてしまったことも。全て。親の意見が少なからずあったことは事実であり、過言でもなんでもない。ただ肝心なのは、そこに私の意志はあったかということなのだ。親が何をすればいい。何をすれば人生上手く生きて行ける。そう言い含められてそのまま流れに身を任せここまで来た訳じゃない。私は私と生きてきたつもりだ。そりゃ、小学校のころなんて親の意見はものすごい参考対照だったからほとんどはその意見に身を委ねていたかもしれない。だけど、その中にも反抗というものはあったし、それ即ち私の意志ということになるのだと、私は思う。もう十と四。将来のこともぼんやりと考えてみなくてはいけない私的な適例年令になっている。ただ、私には困った事に将来というものが見当たらないのだ。父もこの頃将来のことなんて何もわからなかったと言っている。ただ、私はそれでは少し我慢できないのだ。日常が、排水口に飲み込まれてゴボゴボと音をたて落ちて行く水のようで、もったいなく、ただもったいないといっても特に何をするでもなく、見届けてしまう。それによく類似していて恐いのだ。私には、いつか解きたい謎がある。きっと日記を見て下さってる方はもう察していると思うけれど、それは『人間とは何か』ということだ。人という特殊的なものが何故生まれて、そして死ぬのか。それがとても不思議でならない。人は他の動物と少し違うところがある。それは、愛情を持ちそれによって不器用になったり気分が変わったりまた性格を変えてしまうこともできる。そして、我侭で横暴で汚くて、醜くて。それなのに、時たまちらりと黄金色の光りを密集させたような輝きを放つ小さな部分を見せるときがある。それが、たまらなく美しく。人間は人間をやめられない。そう、それは人生苦しいことだらけであっても、たまに凄く凄く良い事があるから生きることをやめられないのと一緒なような気がする。人が死んだら何処へ行くのか、全くの謎である。もしかしたら、ここは第一の人生をおくる場所で実は死ぬと第二の人生を送る場所へ行きそこからここへは戻れず一方通行なのではと、私はたまに考える事が有る。それはきっと、私の一生をかけても真意はわからないだろう。けれど、私はずっと探している。永遠の謎の答えを。将来、私が大人になって、こんなことを考えている青春期の私のことを、是非とも思い出してほしいと思う。
っつーか支離滅裂もいいところ。 何書いてるか途中で意識とんだんで(また;) よく訳ワカメですな。。。
20020725 穴埋め。
2002年07月22日(月)
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