せきねしんいちの観劇&稽古日記
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2003年05月08日(木) ひょうご舞台芸術「扉を開けて、ミスター・グリーン」

 昨日の朝日の夕刊に劇評が載ってた。大沢健がゲイの役をやってるらしい。
 そんなの全然知らなかった! だったら、これは見とかなきゃ!というわけで、当日券で見てきました。
 紀伊国屋サザンシアター。前から5列目のど真ん中。すっごいいい席。今日が千秋楽。
 お話はこんな(フライヤーより)

 交通事故を起こし、被害者グリーン氏(木場勝己)の介護を裁判所から命じられた加害者ガーディナー(大沢 健)。毎週木曜日にグリーン氏の自宅を訪問し、身の回りの世話をすることがその内容だった。
 最初は拒否をするグリーン氏だが、ガーディナーの温かな気遣いにやがて心を開いてゆく。いつしか打ち解けて互いの過去を語り合ううちに、グリーン氏がかつて娘を勘当したことがわかる。ガーディナーは二人の仲を取りもとうと考え、その娘をグリーン氏のアパートに招待することを提案するのだが・・・。

 この紹介文はとっても「よろしくない」です。
 お話の結末を明かしてしまってるくせに(娘を招待する云々というところ)、このお話のとっても大切なモチーフを無視してるから。
 それは、まず、二人がユダヤ人であるということ。
 グリーン氏は、ユダヤの戒律を厳しく守るユダヤ教徒。だから、どこの誰ともわからない男の世話にはならないと言う。
 ところが、ガーディナーもユダヤ人だということがわかり、二人の交流は始まる。
 でも、ガーディナーが、自分はゲイだと話すと、二人の関係には微妙な影が……
 親に孫の顔を見せてやりたくないのか?!と……
 ガーディナー氏の娘は、異教徒の男と結婚したために勘当された。
 親と子の問題、グリーン氏の場合と、ガーディナーの場合とが、のっぴきならない重なり方をしていく中、それでも最後に二人は抱き合い、和解する。
 で、一番最後の場面が、娘を迎える場面。ドアを開けて娘がやってくるその瞬間で芝居は終わる。

 全部とは言わないけど、どうして、こういう大事なことを書かないのかね?
 ユダヤ人だとかゲイだとかっていうと、拒絶反応があるから? だったら、もういい加減にしてってかんじ。
 唯一明かしてる、「娘を招待云々」なんて、ほんとに芝居の最後の最後なんだから。
 しかも、芝居を見た限りじゃ、ガーディナーは「招待」なんかしてないしね。ずっと送られてた手紙の住所を頼りに、電話番号を調べて、グリーン氏に教えただけ。電話も、誰がかけたのかはよくわからないようになってる。
 つまり、これって、すっごいネタバレじゃないのかな? それも、かなり余計なお世話の。
 それより、ユダヤ人であるってこととか、ゲイであるっていう、この芝居の大事な対立の要素を明かしてくれた方が芝居の予備知識としては、大切なんじゃないだろうか?
 その方が、この芝居を見てみたいと思う気持ちは強まるんじゃないんだろうか?
 僕間違ってるのかな?

 と、ずいぶん熱くなっちゃったんだけども、芝居はなかなかおもしろかったんです。
 何しろ、僕が、この芝居を「見なきゃ」と思ったのは、大沢健がゲイを演じるという、ほとんどその一点なんだから。
 大沢健は、とってもよくやってました。
 1幕の終わりで、お互いにユダヤ人だとわかってうち解けてきたところで、カミングアウト。
 グリーン氏はとまどいながら退場。そこで、幕(ていうか、暗転)。
 すっごいベタな展開なんだけどね。
 2幕の最初の場面、前の場面から一週間後、で大沢健は、自分がゲイだってことをグリーン氏に説明する。
 ここがすっごいよかった。彼がどれくらいゲイかってことが、実にリアルでね。
 彼は、女の子とつきあったりもしてたんだけど、20歳のある日、となりに住んでるポールって男の子と仲良くなって、告白された。そんな馬鹿なと思ったんだけど、いつかこれは恋なんだと気がついた。でも、しばらく経って母親に「あなたとおとなりのポールは特別な関係なの?」と質問されて、おしまい。そのときから彼とは一度も会ってない。
 両親はガーディナーがゲイだってことを絶対に認めない。
 彼自身も、自分がゲイだってことに強烈なアイデンティティをもってるわけじゃない。
 「もう何年も誰ともデートしてない。ゲイが集まるところにも行こうとも思わない。僕はもう恋なんてしないんだ」なんて言う。
 そのかんじがね、切なくてね。
 彼が最後に、ゲイの友達を見つけるところで終わるのが、僕はうれしかった。
 マラソンが趣味の彼は、セントラルパークで「フロントランナー」っていうゲイのマラソンチームと出会って、「どうなるかわからないけど、一緒に走ってみようと思う」って言う。
 木場勝巳は、八十過ぎの老人、しかもがちがちのユダヤ教徒を、とても丁寧に演じてる。映画「トーチソングトリロジー」でアン・バンクロフトがやってたユダヤの親のテイストがむちゃくちゃ上手く出てる。時々ぼけちゃってたりするんだけど、一番切なかったのは、ガーディナーのことを怒鳴った後に、「無心に」彼が持ってきてくれたデリカテッセンの料理を食べてるところ。ただ食べてるだけなんだけどね。すごい良かったんだよ。泣けてしょうがなかった。

 そんなかんじで、芝居としては、ほとんど文句はないんだけど、転換はやっぱり多過ぎる。
 毎週一度やってくるっていう設定だから、しょうがないんだけど、「これってわざわざ翌週にしなくてもいいんじゃない?」って気が何度もした。
 場面の終わりは、かならず人物にスポットライトを当てて、それを残して暗転。
 しかも、この「残し」のためのフェードアウトが場面が終わりそうになると早々と始まるんだよね。もう「終わりだよ」っていう合図みたいに。
 暗転中には、トーチソングっぽい歌がいろいろ流れるんだけど、この曲は、暗転しきってから始まる。
 この微妙なずれがとっても気持ち悪かった。
 大体、ピンスポットって必要なのかな? 大沢健はずっとフォローされてたけども。
 照明では他にも、劇中で、壊れて点かない壁のライトが、大沢健が電球がゆるんでたのに気づいて直すと、点いた!っていう場面があるんだけど、この時に「異常に明るくなる」んだよね。
 同じ形のライトは他にもあるんだよ、壁に何カ所か。気持はわからないじゃないけど、それってやっちゃいけないことだと思うんだよね。しかも、いつの間にか、他と同じ明るさになってるし。
 全体的に、リアルじゃない照明ってことなんだとは思うんだ。でも、それは思い切りリアルな舞台装置と、この戯曲が要求してるものとは全然違うんだと思う。
 やだな、わりとおもしろく見たくせに、文句ばっかり言ってるね。

 戯曲の疑問は、他にもあって、たとえば、二人が会話の終わり、対立が盛り上がったところで、ふっと場面が終わって、次の場面は一週間後で、お話は前の場面の続きっていうところがあるだけど、それって変だよねと思った。
 こういう二人芝居で、やりとりが緻密に書かれてるものって、二人がいるところで場面が終わったら、その後、何があったのかってことがすごく大事になっちゃうわけじゃない? 一人なら話は進まないけど、二人そろって場面が終わったら、続きはどうなったのかって、気になるわけでしょ。話が進まないわけがないんだから。
 ルールとして、週に一度ガーディナーがやってくるっていうのが、骨格なんだから、毎回、彼が出ていくところで終わらなきゃいけないんだと思う。もしくは、一幕の終わりみたいに、グリーン氏が部屋に引っこんじゃって、ガーディナーが一人残るとかね。
 その辺の無理があるところをうまく流してくれればいいんだけど、サス残しで盛り上げちゃうから、「あれ?」ってかんじがどうしても積み重なる。
 カーテン・コールで、演出のグレッグ・デールが、来日してた作者のジェフ・バロンと挨拶してた。グレッグ・デールは、この芝居のことを「シンプルなすばらしい戯曲」って言ってたけど、だったら、もっとすっきりとやるやり方がもっとあったんじゃないかと思うんだけど。
 暗転が多いのはしょうがない。そういう本だから。でも、毎回を甘い歌でつなぐのはどうだろう?
 戯曲が要求してるのは、もっとシビアなもんじゃないかと思うんだよね。
 次々流れるトーチソングは、とっても「ゲイテイスト」なかんじがして、その辺から考えるとあながち大間違いって訳でもないんだろうけど、それは明らかに、ゲイのガーディナー寄りの選曲なんだよね。でも、そんな甘さは、この芝居のどこにもない。ガーディナーにもグリーン氏にも。
 ラストの娘がやってきたその瞬間で終わるっていう場面は、芝居としては、幕を降ろす方が気持がいいと思う。
 幕が上がって、始まって、幕が降りて終わる、とってもオーソドックスな芝居。
 ずっと書いてきて思ったのは、見せてもらった舞台が、どこか甘さを感じさせるものなんだってこと。戯曲の持ち味に反してね。
 ホロコーストの話も出てくるし、二人はとっても真剣に対立するんだけど、なんとなく和解しちゃうんだよね。
 これも戯曲に書いてあるからしょうがないんだけど、その和解のしかたがなしくずしな気がして、そのなしくずしなかんじが、「厳しさがあるんだけど和解しないではいられない切なさ」みたいなものになってかない。そこがもどかしい。
 役者二人はとってもよかったと僕は思うんだけども、演出については、とっても「?」な感想だ。
 挨拶に舞台に上がったジェフ・バロンはとっても「ゲイ」な人で、見るからにおネエさんでした(たぶん間違いないと思う。服装とかしぐさとか)。この芝居は彼の処女戯曲。きっとガーディナーっていう役には彼のいろいろが投影されてるんだろうな?なんて思ったんでした。

 それにしても、二人芝居で6000円(当日券は6500円)というのは高すぎないか?
 「ひょうご舞台芸術」の制作だけれど、これって半分お役所みたいなもんなんでしょ?(たしか兵庫県がやってるんだよね)
 それとも動員が難しそうだから、保険として、チケット代を高くしたのかな? たしかに千秋楽なのに7割も入ってないと思う。
 これってもっとシンプルに「安く」作っても、全然大ジョブな芝居だと思うんだけど。
 チケットをもっと安くして、もっともっとたくさんの人に見てもらいたい芝居だった。
 それでペイできないっていうのは、何か間違ってるんじゃないかと思う。
 演出家が言ってたとおり、ほんとにシンプルで、二人芝居のおもしろさがいっぱい入ってる。
 小劇場のロングランになったりすると、おもしろそうだ。

 客席には大楽ということもあって、大沢健の女子ファンが大勢。大沢健って、そういうファン層がいるんだと改めてびっくり。僕の前の席の女子は、開演ぎりぎりまで手鏡見ながら、口紅を直してたし、開演中はオペラグラスを使ってた。4列目なんだけどね。
 後は、おばさまとおじさま方がたくさん。となりのおじさまは「おじさんの整髪料」が強烈に匂ってて、しかもずっと寝てた。若くて芝居が大好きだってかんじの人はあんまりいなかった(と思う)。
 そういう客層に相手にされてないっていうのも、制作的にどうかと思う。
 ていうか、とっても気持ち悪い客席だった。率直な感想だけどね。お役所感なのかな? 芝居がちょっとかわいそうだった。って、余計なお世話なんだけども。

 だけれども、見てよかった。ほんとに。それは間違いない。
 カミングアウトする大沢健は、むちゃくちゃ感動的だったし、木場勝巳の老けの芝居もとってもよかった。そして、何より、来年からはじめる二人芝居のシリーズのための、すごいいい勉強になった。ほんとにね。

 ネットで検索したら、やっぱりジェフ・バロンはゲイで自分自身の経験をもとにこの芝居を書いたみたいだ。やっぱり!! ガーディナーの設定はまんま彼自身だったんだ。コメントも何だかうれしいなあ。 
 でも、それが、今回の公演のパンフレットにはどこにも書いてないってどういうことなんだろう? 大事なことだと思うんだけどな。
 ジェフ・バロンの略歴はここを見て(ずっと下の方ね)


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