Leaflets of the Rikyu Rat
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2006年11月17日(金) 交感―交歓

 松尾真由美「さまざまな交感、その果てに」
 (現代詩手帖2005年10月号新人作品評�兇茲螳�用)

   言葉も人も人の心も過ぎ去るものであり、いま、ここに現われでる表象さえいず
  れは過ぎ去り、なにごとも時間とともに流れ、すべてが変容していくものであると
  しても、詩人は詩に向かう。あるいは迎え入れる。自身が作り出した作品も、刻が
  経てば、それは変態していく蠢くものであり、まして、読者は、初めから読者自身
  を投影してるがゆえに、作品から受け取るものは作者の考えの及ぶところにはな
  い。これはこの投稿欄でも出来している事実であって、作者である投稿者と選者
  (読者)である私との齟齬は必ず生じている。しかし、齟齬すら詩の世界の振幅と
  して納得するしかないだろう、作品を外に出してしまった以上、そこには他人(読
  者)がいるのだ。けれど、詩人は、自身が反応し、感応したものを呼びいれ、なに
  かを生み出し、記録のようにそれを紙面に定着させる。その作品を読者が享受す
  ることで、そこで再びなにかが生み出され、齟齬も誤謬もふくめたこの多層的な
  生成が、実際には作品の生命を司っているのだ。ひとつの詩作品が作者と読者
  の互いの反映により、一瞬でも美しい膨らみ持ち得ること、私ならそれを望むが、
  この交感さえ錯覚を招いていて、刻が経てば、互いの了解事項も失効してしまう
  危機を孕む。これらを踏まえた上でなお、詩を書きつけることの意義はどこにあ
  るか。意義などない、詩人はただ詩が必要なだけなのだから。その中で、自身
  の傷をさらすために言葉で傷をおしひろげ、こうして作り出す世界に救われるの
  は、勿論、作者である。だが、傷から発せられた言葉の奥底に、作者が持たざる
  を得ない罪や悪も折り重なっているのならば、ここになにがしかの真実が隠され、
  これが読者をとてもリアルに説得する。流動する世界において、この瞬間、この
  現在に、傷をいかにして昇華させるか、それぞれの詩人たちの感性は試される。

 ある主体から他者へ言葉を伝達するとき、そこには必然的に齟齬や誤謬が生じる。
 それは「ある言葉」の意味が個々人の環境や体験、経験により少しずつ異なるため
 だ。であるから、たとえそれが「詩」でも「日記」でも「メール」でも「電話」でも、実際に
 顔と顔を合わせて交わす「会話」や「対話」であっても変わらず、ある主体からまた
 別のある他者へ、一切の齟齬や誤謬無しに言葉を伝えることは不可能だ。
 では何故詩人は詩を書き誰かはメールや電話をし僕らは他者と対話を望むのか。
 それは、それらが僕らに必要だからだ。
 齟齬も誤謬も含めたその多層的な生成によって主体と客体とが交感し合う。
 交感し合うことによって主体と客体は交歓する。コミュニケーションを楽しむ。
 たとえそこにコミュニケーションが成立しなくとも、詩人には詩を書くことが必要なのだ。
 僕には日記を書くことが必要なのだ。
 自身の傷ををさらすために言葉で傷をおしひろげ、こうして作り出す世界に救われる
 ために。それは自虐的かもしれない。それでも僕は日記を書き、だから僕は書く。


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