モノの価値について

先日の日記で、時計を買おうと思っていると書いた。
あれからいろいろとWebサイトを回ったり、雑誌を買ったりして、比較、検討を重ねた。

そこで思ったこと。
時計、僕が買おうと思っている、機械式腕時計の世界には、
まだ、『価値』というものがしっかりとした形で残っているんだな、と言うこと。

いま、価格破壊とか言って、モノの価値が不当に下げられてきている。
本当に良いものというのは、それなりの敬意を払って当然であり、
結果として、値段が高くなることも仕方のないことだ。

安くなることが悪いことではない。
むしろ、手の届かなかった世界に、誰でも簡単に手が届くのは好ましいことだと思う。

だけど、どんなジャンルにだって、雲の上の逸品というのがあってもいいんじゃなかろうか?
その道の、プロの職人さん達が、持てる技術を最大限に使い尽くして、作り上げたものというのは、
当然ながら、素晴らしいものであり、他の誰も真似の出来ない、究極の逸品だ。

そもそも、ものが生み出されて、普及していく過程というものは、昔から変わっていない。
まず、第一号があって、それを試行錯誤しながらより良いものへと進化させ、
そしてでき上がった究極の逸品をお手本として、廉価版・普及版となり、世間に浸透していく。
今の文化は、このプロセスのうちの、廉価版・普及版ばかりに力が入れられているのじゃないか?

こういう風潮は、前から疑問だった。
その当時の究極の逸品は、時代が進むにつれて、どんどん風化していく。それは仕方のないことだ。
だけれども、それを指をくわえて眺めているだけというのも、芸が無い。
むしろ、風化させないように、今ある技術を取り入れて、
逸品としての価値を減じないようにすることが大事なんじゃないのだろうか。

また必ずしも、値段が高い=価値があるということでは、ない。
価値があるから、値段が高いのであり、その逆というのはあり得ない。
値段というのは、価値を計る基準として良く出来たものあり、分かりやすいものだ。
だけれども、価値にもいろいろあるんだということが、分からない人が多すぎる。

値段が高いものは、高いなりの価値がある、と言えるだけのものも、確かにある。
しかし、技術的に凄いもの、歴史的に重要なもの、そういった価値ではなくて、
希少であるがゆえに価値のあるもの、と言うものもある。
技術的にちゃちなものであっても、生産数そのものが少ないというただそれだけのために、
値段が跳ね上がってしまっているものが、世間には多すぎる。
それは、本来の意味での価値というのとは、違うんじゃないのかな、って僕は思う。
そして、そういうものが、本当に希少なものであるなら、また話は違ってくるのだけれど、
往々にして、そういったものは、生産者が意図的に数を減らしているものである場合がほとんどだ。

今回、機械式腕時計の世界を覗いてみて、この世界は、まだ毒されきってはいないんだなと感じた。
値段を見て、こりゃ手が出ないなぁ、と思うようなものは、技術的に凄いものがほとんどだ。
そして、そういうものの中でも、飛び抜けて高いものは、技術力に芸術的要素が付加されている。
そういったものは、多分、見る人によって感じ方が変わってくる種類のものだ。
それだけの価値があると思える人だけが、それを買えばいいという、職人気質が生きている。

芸術というものにのみ絞って言えば、それこそ多種多様な価値があるし、
万人から100点満点をもらえるようなものというのは、絶対にあり得ないと断言できる。
だからこそ、芸術としての部分に価値を見いだすかは、見る人によって変わって当然だし、
値段で決められるようなものではない、という事のいい例だ。

この世界が好きになって、いつかはあの時計を手にはめるんだ、と思えると言うことは凄く幸せなことだ。
それは、生きる目標にだって、なりえることだと思う。

そういう風に、人生の意義ですらも簡単にひっくり返してしまえるものがあってこそ、
ものが作られている事に意義があるんじゃないのかなって、そう感じた。

2002年04月06日(土)

日々 / いけだ