◇日記◇
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トモダチが、アカンボを生んだ。見に行ったトモダチは、抱っこさせてもらってきた、と
嬉しそうだった。新生児っていいよね独特だよね、ウチのコの時のこと思い出しちゃって
何だか泣けてきた、と言った。
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新生児のあの本当に小さいのをこわごわと抱っこするのは、何ともいえない感覚である。
小さい手も目も鼻も口も愛おしい。命の不思議ということを思い、神聖な気持ちにさえなる。
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5ヶ月くらいのむくむくと太ったアカンボを抱っこするのも楽しい。重いけど。
まだ動けないアカンボに自分の小さい頃の思い出などを話しかけていて、全然大した内容
じゃないのに、真剣にこっちの目を見て聞いてくれると申し訳なくなり、慌てて世界情勢
について語ってみたりするが、アカンボの真剣さは変わらず、結局どうでもいいのかと
ようやく思い至り、アンタは可愛い可愛い可愛い、いい子だいい子だ、ばかりを連発する。
ガーゼのハンカチで遊んだり、お鼻つまみごっこをするのも楽しい。
アカンボが笑いでもしたら、それこそ無茶苦茶に楽しい。
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1歳くらいの活発にはいはいして一時もじっとしていなアカンボも、可愛い。
おにぎりをたべたい、というから(たぶん)、はい、と渡すと、にこっと笑ってむぎゅーっと
手でつぶし、その手で私に抱かれようと寄ってきたりするのは、少し、いやかなり迷惑では
あるが、ごはんつぶだらけの手を、アカンボごと台所に持ってゆき洗ってやったり、
はいはいしていってテレビのリモコンを口に突っ込んでるのを取り上げたり、
突然動きが止まったと思ったら、顔を真っ赤にしていて(うんちをしている)その後
妙にハイになるのを取り押さえて、おむつ替えをしたりするのも、ところどころ面倒では
あるが、楽しい。
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2歳くらいになって、少しコトバが出てきて、こっちの言うことはほとんどすべて
わかっているような状態の、もうアカンボじゃないかつてのアカンボと積み木をしたり
絵を描いて遊ぶのも楽しい。
積み木もまだ高くは積めないし、絵もマルをようやく描けるくらいのレベルなので、私の
積み木のワザ、稚拙なイヌの絵にもいたく感動してくれる………
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ということをつらつらと思って、ま、結局私にはコドモはいないので、楽しいところだけしか
知らないといえばそうなのだけれども、やはり私はコドモが欲しいのだな、と再認識する。
私の、コドモが欲しいという気持ちは、
トモダチが持っている新しいオモチャを欲しい気持ちに非常に似ているけれども、
ねこぞーの隣で、ねこぞーと相似形で昼寝するアカンボを見てみたい、その二人を世話し、
幸せにしてみたい、という気持ちもあり、自分でもどういう機序でコドモを欲しいと
思っているのか、よくわからない。
もちろん、文化的なものもあるだろう。結婚したらオンナはコドモを生むものだ、という
有言無言の押しつけのなかで育ったのだから。
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でも。生まれないものは仕方ない。
諦めようと思っていろいろやってみてはいるが、トモダチがアカンボを生んだりすると、
心が揺れる。
切ない思いを解消するにはアカンボを生むしかないけれども、
切ない思いを抱いて生きていくのもいいのかな、と思ったりする。
養子は?と聞かれることもあるが、私には考えられない。
何かあったときに、つまりその子に全身全霊でぶつかっていかなきゃならない事態が
起きたときに、逃げてしまいそうな気がする。そこまで自分を信じ切れない。
ということを静かに今朝布団のなかで思った。傍らで眠るねこぞーの背中を見ながら。
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