いじめをするほうは、「どうしていじめるの?」という理由に対して明確な回答をもっていないと思う。いじめをしたことないひとや、いじめという問題に無関係に生きてきた人にとって、「いじめられる側に問題がある」だとか「いじめる側に問題がある」だとか言うけれど、 もしも、いじめる理由をひとつあげるならば、 誰かをからかうことが、ただ楽しいから、だと思う。わたしの経験から言うと、なので全てがこうであるわけではないと思うけれど。からかったときの反応が楽しい。だからいじわるする。まわりものってくる。反応が楽しい。エスカレートする。の、ループ。 解決法はって、みんな言う。いじめられている人は、その大多数が「いじめられているという事実が親を苦しめることが、忍びないのでいえない」と言うだろう。じゃあ、どうしたらいじめが解決できるのかというと、我慢することでもなく。いじめている側が、その立場が逆転したらどうなるか、を理解、もしくは身をもって体験してもらうか、のどちらかじゃないかなと。 たとえ、ば わたしは小学校一年生の時に、グループで人をいじめた。いじめていた女の子が、担任の先生に助けを求めた。わたし含まれるグループが先生に呼ばれて、その中の一人に、 「いじめたって本当なの!?」 って聞いた。その子は、 「言われたからやった。」 と言った。 「誰に言われてやったの!?」 と聞いた。 そして、その子が指差した、のは 私。 「本当なの!?」 とわたし以外の子に回答を促す。 みんな、うなづいて、「そうです」って答えてた。 必死に違いますって訴えた、けれど、私もいじめていたし、否定する権利なんてないのだけれど。6歳のわたしには、ただ一人怒られることに恐怖した。「やれって言ったじゃん!」って一人が言う。一人が言えば、みんな口々に続く。 そうして怒られて、涙を流した。怒られて流した涙ではなく、悔しい。グループって、そんなものだ。 でも、もっと悲しかったのは、 「大丈夫・・・?」 って、なきじゃくる私に、誰にも持ってきてくれなかった給食を、持ってきてくれた、いじめられていたはずのおんなのこ。 わたしは、ただ「ありがとう」としか言えなかった。 人をいじめたわたしは、他の人たちと同じ立場だし、責任をなすりつけられたうんぬんは、じゃあ、もしその時私を先生が指名していたら私はなんと答えただろうか、だとか、じゃあもしその時違う人をやったと言っていたらわたしはどう行動していただろうか、と考えるだけ無意味だと思う。なので、逆にわたしを指してくれたことが良かったんだと思う。 その後、その子へのいじめはなかなか絶えなかった(といっても、それは一年生の間だけで、学年があがったら何もなかったかのように消えていた)けれど、そんなことがあったからこそわたしはそこから抜けて、彼女と一緒に遊ぶようになっていた。いいところはもちろん、わるいところも、色々知った。 結局はいじめる側もいじめられる側も悪くないんですよね。わたしたちが大人になって、いつか授かる子供に、どう教えていくか、が問題なんですよね。 特に親は重要な存在。特に母親。なんだかんだで、一番近くにいると思う。いじめとまではいかない、ちいさなからかいだとかが私の身にふりかかって、その断片ともいえるものが母親に見つかってしまったとき、心配させたくなくてわたしは「何もない」だとか、「先生に言ったりしたらもう学校いかない」だとか言い張ったけれど、結局内緒で先生に母親が相談にいって。 「あなたのことを心配している人に、そんなことを言ってはだめ」 と、怒られました。そう、そのとおり。自分の物言いを思い切り恥じました。 自分も、子供のためならばそういった場へ乗り込んでいける、そんな母親になりたいと思う。 ・・・ん、話が飛んだ・・・。 いじめは、どちら側にも得るものあるだろう。知らないよりも知っているほうがいいのは、確かだけれど、このことばかりは体験でなくて、知識だけでどうにかなればいいと思う。 子供じみた見解かもしれません。ただ、今日見た番組で、なんとなく思ったことを書きたかっただけです。 |
腕の中に、すぐ隣に君がいてくれてすごく嬉しいの、すごく暖かくて優しい気持ちになれる、ので、ずっといてくれるといいよ。 昨日、「 になりそうだ」と言われて(や、直接ではないけれど)、すごく悲しかった。 もちろんあれから一切連絡をとっていないわけで、そうとられてしまっても仕方がないとは思っていたけれど、あの記述からそう感じてしまったとは夢にも思わなかった。 もう書かないと言ったのに、早速破ってしまってごめん。でも、少しだけ、許してもらえればと思う。 わかってもらうには、言葉にすることが必要。でもその言葉を書かないほうがいいといわれたら、どうしてわかってもらえよう。 偽りじゃないと伝えたいのに、どうやったら伝わるのだろうか。 「壊れた大切なものと いつかまた、会える日がくるかしら?」 と、願っていることは確かなのに、それは叶わない夢となってしまうのだろうか。 でも、確かにこういう状況を、君をそんなにしてしまったのは、わたしに責任があるのだから、君からなんらかのアクションがあるまで、こうして燻り続けなければならないの、かな。 誰かと手を繋いだなら、誰かと手を離さなければならないんだろうか。 |
この日記帳、2001年からつけているわけで、まぁ、ところどころ間はあるものの。 大切な記憶がひとつひとつ、封じられています。忘れてしまいたい過去だとかも、そのときは幸せで仕方がなかったことだとか、書かれていて。今はまだ見たくない記事があります。でも、いつかそのうち、読んで、ああ、こんなこともあったなぁと思い返すことの出来る日が来たらと、思います。 その時その時その人が、わたしにとって最後の人でありますようにと祈ることと同じことで。 あの日、わたしが思ったことを嘘としてしまいたくないので、いいや、嘘でなく、だからこそここにいるわけで。 だから、あの日々を嘘だなんて思って欲しくないというところが本音です。 あの日から、連絡は途絶えたまま。(いや、正確には、あの日から一ヶ月後に一度だけやりとりをしたけれども) 友達に戻ることができれば、と言って、最後に「またね」と結んで返し、返してもらったこと。もうすぐあれから三ヶ月、メッセージはもうすぐ消えてしまう。 次に会う日は、わたしはもちろん、あなたもうんと幸せになっていなければならない。 わたしは、今がすごく幸せだから。 ここで手を離すことのないように、あなたが幸せになれることを心から祈っています。 あの日々を懐かしんで、「そんなこともあったねぇ、楽しかったよね」と会話を交わせる日が来るまで、このまま、このまま。 新年明けましておめでとうございます。 今年の誓いは、この「幸せ」を離してしまわないこと、です。 振り返り、メッセージを残すことはこれでおしまい。約束をしたから、君が守るというのならば、わたしが破るわけにはいかない。 |