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| 2004年08月31日(火) ■ |
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| 「蹴球戦争フットボール・ウオー」文春文庫 馳星周 |
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「蹴球戦争フットボール・ウオー」文春文庫 馳星周 02W杯観戦と99から01年の欧州「フットボール」観戦を日記で綴る。
自他共に認めるサッカーファンの文章である。ここには試合の解説など微塵もない。試合の日、どのように朝を起き、飯を食べ、電車に乗り、スタジアムに何時に着き、試合を見て家に帰ったか、要するにそれだけの文章が続く。その中で馳はひたすら怒り、感動し、叫び、憮然とする。そうだ、2年前のW杯の日々、馳ほどではないが私もテレビを見ながらそういう日々を送っていた。
私はひたすら馳の文章に共感し、知らなかった事には素直に感心していた。このての文章に対して、私は珍しくも一つも反発を感じなかった。「トゥルシエは無能だ。」そうなのかもしれない、いや、そうだったのだ。「イタリアのくそリアリズムはつまらない。イングランドは時代遅れだ。」2年前なら本当か、と疑ったかもしれない。しかし今の世界の状況を見るとまさにそのとおりだ。韓国のW杯は素晴らしかった。「代表の快進撃だけでない。サポーターの熱気、スタジアムの出来、外国人サポーターを迎えいれる暖かさ、韓国を世界にアピールしようとする情熱、」悔しいけどまさにそのとおりだった。
未だに欧州と日本の力の差は歴然であろう、しかし、馳と同じように私は日本代表の試合を見つづける。文章家の馳が日本対ベルギーの試合については「鈴木が同点弾を叩きこむ。私は壊れた。絶叫した。」としか書けなかったように、私もあのような「絶叫」をもう一度したいから。
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| 2004年08月30日(月) ■ |
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| 「星を継ぐもの」創元SF文庫 J.P.ホーガン 池央アキ訳 |
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「星を継ぐもの」創元SF文庫 J.P.ホーガン 池央アキ訳 25年前、私はSF少年だった。とはいってもおもに読んでいたのは日本SFで、ときたまアシモフやらブラッドべりやらクラークやらを読んでいたに過ぎない。その後、読書傾向はお決まりのように推理小説畑に移っていく。本当に長いあいだ海外SFなど読んでいなかった。それどころではなかった。ミステリ世界のとてつもない荒野が私の目の前に広がっていて私はいまだにその中で逡巡している。それに付け加えて世には他にも読みたい本があまりにも多い。例えば考古学関係の本なんかそれである。だからこの本に出会ったのはまったくの偶然である。目に付いたのは帯のこの文句。「SFにして本格ミステリ。」なるほど、それならミステリの一分野として読んでおこうか。
いやー面白かった。確かにミステリではある。しかも、考古学的「発掘もの」である。しかしそれ以上にスペースオペラである。あるいは「人類創世記」である。少年期にSFにかぶれるのには訳がある。「人間とはなにか。自分は何者か。」いわば哲学的な問いに答えてくれそうな読み物だからだ。久しぶりにあのときの気持ちを思いだした。今は改めて新鮮な気持ちで、エンターテイメントとして余裕をもって、その問いに立ち向かえる。人類の正体はなんだろう。未来の科学者たちの問答からいろんなことを考える。冷戦が永遠に続くかと思われた時期に書かれた二つの星の運命。この作者の理想主義が私には嬉しい。
この25年間、アメリカは偉大なSF作家を一人誕生させていたのだな、といまさら気が付いた。なんとこの作品はシリーズ化されているらしい。楽しみが一つ増えた。困ったことに。
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| 2004年08月29日(日) ■ |
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| 『ファウスト第一部』集英社文庫 ゲーテ 池内紀訳 |
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『ファウスト第一部』集英社文庫 ゲーテ 池内紀訳 本来全編にわたり詩編からなる『ファウスト』ではあるが、日本語で韻律を再現する事は難しい。ならば「詩句をなぞる代わりに、ゲーテが詩体を通じてて伝えようとしたことを、より柔軟な散文でとらえることはできないか。今の私たちの日本語で受けとめてみてはどうだろう。」という事で生まれた新訳。確かに読みやすい。しかも私には旧訳よりも物語の構造が非常によく分かる。
韻律等の約束事を気にせず、ストレートに言葉の持つ主張、比喩あるいは諧謔が伝わってくるために、読んでいて楽しい。「開幕前」の座付き作家、座長、道化の3者会話はまるで現代の映画プロデューサー、監督、コメディアン俳優の会話そのもの。あるいは三人問答によって明かにされる映画製作の問題点だ。いずれにせよ、古典を読めばいろんな発見がある。
その次ぎの「天上の序曲」。主と三大天使とメフィストとの会話。今回主(神?)の度量の広さというか、ずいぶんといたずら好きな部分に気が付いた。だって悪魔にファウストの堕落をけしかけたのは実は主であったとしか思えないのだもの。「お前たちは楽しい連中だ。」
さて、ファウスト博士の独白から物語は始まる。私ずっと勘違いしていました。ファウスト氏は当時の知識人の代表だと思っていました。だって主があんなに目を掛けているのだから。でもどうやらゲーテ以前に知られていたファウスト伝説では錬金術師だったみたいですね。いわばマッドサイエンティストに近い人みたいです。おっと、もう字数が一杯。まだ本文に至っていないのに。皆さんはまずはこの分かりやすい新訳を読んでもやってくださいね。お楽しみはこれから。人間の本性というやつは…。私は第二部に取り掛かるとしよう。
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| 2004年08月28日(土) ■ |
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| 「父と暮らせば」新潮文庫 井上ひさし |
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「父と暮らせば」新潮文庫 井上ひさし 全部広島弁ばー(ばかり)の劇じゃけん、地域によったら読むのはしんでー(しんどい)かもしれんけど、速よー読む人で一時間、おそー読む人で2時間(わしのことじゃ)で読んでしまえる井上ひさしの戯曲じゃ。今度、映画になるうゆうて、宮沢りえ、原田芳雄、が出とるということじゃ。わしゃあ、どんな映画になるんか想像しながら読んでみた。こんな事は珍しいんじゃけど、それだけ井上戯曲が台詞の「間」というもんに大きな意味っつうもんを置いてくれるせいじゃなと思う。いわば、黒木和夫監督とわしとの勝負じゃな。実はまだ勝てる自信はち−とも(少しも)つかん。初めの父親の登場場面からして、娘の「ギクリが半分、うれしさも半分」というト書きにどういう表情を付けようかとわしゃあまだ迷っとるわ。まあ、まだ時間はあるけー(あるから)自分なりの「父と暮らせば」を創って行くわ。
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| 2004年08月27日(金) ■ |
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| 「超・殺人事件」新潮文庫 東野圭吾 |
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「超・殺人事件」新潮文庫 東野圭吾 この文庫には解説がついていない。当たり前である。この短編集の最終編、「超読書機械殺人事件」のあとに解説など載せようものなら……。 この短編には「ショヒョックス」なる機械が出てきて、ありとあらゆる本の書評を10分そこらで作ってしまう。誉めるのもけなすのも自由自在。「現実味のないトリック」もおべんちゃらモードでは「幻想的な仕掛け」になるし、「人間が描けていない」のも「人物の本性を巧みに隠してある」になる。機械に任せていては個性が無くなるのでは、という心配もやがて解消する。そうしているうちに読者である私たちは確かにそうだよなあ。ミステリーの書評なんてどうとでも書けるよなあ(機械に任せなくても)と思ってしまう。帯に『日本推理作家協会除名覚悟!』とあるのも肯ける。もし除名なんてことになれば出版社が困るのでは、という心配はおそらく無用。この短編集には「超予告小説殺人事件」というのもあって、売れない作家の小説がある現実の事件によって急に売れるようになるという話である。本や雑誌というのは作家や作品が話題になればなるほど売れるのである。この短編集に見事に流れるテーマは「本が売れるのは内容に関係無い」という出版業界の「常識」なのである。「超長編小説殺人事件」での「本が厚くなればなるほど売れるようになる」という現象には笑った。私は著者のブラックな『告発』を充分楽しんだ。その他、「超税金対策殺人事件」が秀逸だった。 一つ心配なのは、この書評のモードは「甘口」だったかも。ということだ。
(この文章はどうやらアマゾンコムで没になったみたいだ。書評自体の無能を評したのが悪かったのだろうか。そもそもアマゾンコムの書評がOKとなる基準がいまだに藪の中である。一度たずねた事がある。教えてくれなかった。最近では問い合わせ自体が出来ないようになっている。)
では、改めて、「無難」な書き方をしてみる。
作家には2種類のタイプがある。一つのテーマを変奏曲の様に何度も何度もくり返すタイプと、次ぎから次ぎへとテーマだけではなく文体まで変えてしまうよなタイプである。どちらがよい悪いではない。後期の夏目漱石のように同じような話を何度も書いていても文豪と評される事もあれば、森鴎外のように私小説まがいのものから史論までいろんなタイプの文を書いてもやはり文豪になる事がある。東野圭吾は推理小説畑の中では「森鴎外派」であり、しかも文豪ではないが、「代表格」である。
彼のようにいろんなタイプの小説を書いているとやはり悩みは尽きないのだろう。本が売れる要因は「内容が面白いからなのだろうか」。おそらくそういう自問自答の中からこのブラックユーモア溢れた短編集は生まれたのだろう。自分の営業上の悩みさえも作品として反映させる。まったくもってテーマ万能型の雄ではある。
話題にのりさえすれば、本は売れる。単行本の厚みが増して本屋の中で目立ちさえすれば、本は売れる。そして書評なんかは書きよう次第だ…。ユーモアにかこつけた彼の本音が随所に出ていて、私はずいぶん楽しんだ。
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| 2004年08月26日(木) ■ |
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| 「夕陽妄語�察彡�日新聞社 加藤周一 |
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「夕陽妄語�察彡�日新聞社 加藤周一 朝日新聞月一の連載の単行本化7冊目である。2001年1月より2003年12月までが収録されている。単行本の帯にはこう記されてある。「ぶれない・流されない・こわばらない 20年間の定点観測が教えてくれる抵抗のかたち」なかなか的確なキャッチコピーだと思う。加藤周一の意見はずっと変わっていない。しかしこの20年間変わってきたのは日本と世界の政治状況であろう。「大勢順応主義」に陥りやすい日本のことをその文化の根本からずっと批判してきたのは加藤周一である。(ぶれない流されない)しかし彼の関心はいつも政治に向かっているのではない。むしろ、この数年間は「日本美術史序説」の完成に向けてアジアに散らばる仏像と日本との関連、あるいは雪舟の事、あるいは淋派の事、あらゆる美術を精力的に見ていた。(こわばらない)ただこの連載の三年間の途中でその研究を一時中断してまで取り組まねばならない出来事が起きたのだと、私はこの単行本の目次を見て気が付いた。2001年9月11日の同時多発テロに発する、アフガン征伐とイラク戦争、そしてそれを積極的に「支持」する日本政府と「改憲」策動である。9.11以降の28ヶ月で直接間接にこれらの事に関して言及しているのは、私見によれば20ヶ月にも及んでいる。長い連載の中これほどまでに具体的な政治状況にコミットしたのはなかったと思う。この連載の外では精力的に講演もこなし、反対宣言も幾つか出し、そして関連の本も書いている。1919年生まれの加藤周一氏であるから今年85歳のはずである。私は氏がこの連載中二回も紹介した木下順治作「巨匠」の事を思いだしている。老知識人は自分がそれを言いだせはナチスに殺される事が分かっていて自分の芸を披露する。その事がなによりも大切な自分の生きている証だったからであり、抵抗のかたちだったからである。失礼な事を充分承知しながらあえて言えば、私は日本を代表する知識人・加藤周一がこの老知識人のように「最後の闘い」に打って出ているのだ、と何度も何度も感じてたいた。
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| 2004年08月25日(水) ■ |
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| 「日本の民俗学者−人と学問」神奈川大学評論ブックレット 福田アジオ |
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「日本の民俗学者−人と学問」神奈川大学評論ブックレット 福田アジオ 柳田国男研究の第一人者福田アジオが柳田を担当。柳田の民俗学を3期に分けて的確に評価していた。折口信夫、宮田登も第一人者が執筆。それぞれ短文ながら、その「人と学問」が分かりやすくまとめられている。
「日本民俗学は若い学問である。その学問を作った人物、柳田を超えようとしてまだあがいているような状況である」と20年ほど前大学の若い民俗学者が言っていた。その状況は今はどうなっているのだろうか。おそらく幾つかの領域で柳田の評価と限界が示され、幾つかの領域でまったく新たな場所に光が当てられているのだろう。坪井洋文の「イモと日本人」、宮田登の「鯰絵」「ミクロ信仰の研究」。それらの著作の持つ意味を今回初めて知った。「まだあがいている」かもしれない。でも確実に学問として成長していると、感じた。現代民俗学俯瞰図としては分かりやすいテキストではある。
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| 2004年08月24日(火) ■ |
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| 『アイヌ神謡集』岩波文庫 知里幸恵編訳 |
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『アイヌ神謡集』岩波文庫 知里幸恵編訳 ここにある世界はキリスト教の『神』の世界とはまったく無縁である。神は人を罰しない。『仏教』とも無縁である。輪廻転生はない。天国と地獄もないみたいだ。
そこにあるのは人と動物が対等な世界。善悪の区別は近代的な倫理観とは無縁なところにある。そこは読んでもらうしかない。独特のリズム感。見事な詩情。それは若くして死んだ女性、知里幸恵嬢の才能なのかもしれない。明治時代の近代教育の成果なのかもしれない。そしてアイヌというまだまだ知られていない『民族』の持つ伝統的な『力』なのかもしれない。
ここにある豊かな自然と素朴な倫理観。『ユーカラ』の世界への第一歩を踏みこんでしまった自分がいる。
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| 2004年08月23日(月) ■ |
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| 「静かなる謎北村薫」宝島社 「このミステリーがすごい!」編集部・編 |
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オリンピックモードが終わった。 またいつもの日常に戻りたいと思う。 それにしても柔道は凄かった。 青春の日々、6年間、柔道をしていたものにとって、 至福の日々でした。
「静かなる謎北村薫」宝島社 「このミステリーがすごい!」編集部・編 デビュー15周年といいながら、今までに出た本の数は(アンソロジーを除いて)20冊である。寡作のほうに入るだろう。よって1冊づつの評論も可能だ。キャラクター分析、作品ツアー、キーワード事典など一応、ムック本としては揃っている。年表はいまいち。もう少し突っ込んだものが欲しかった。気に入ったのは「〈私〉と円紫」シリーズの〈私〉の出来事と本棚の年表。彼女が四冊の本の中で読んでいる本の題名は並べてみると凄いものがある。「エピクロスの園」(アナトール・フランス)を読んでいるのはまだいい。『ドン・キホーテ』をきちんと読んでいるのはさすが文学少女。『真珠夫人』(菊地寛)を読んでいるのは時代の先駆けといえるだろう。しかし『フローベルの鸚鵡』(ジュリアン・バーンズ)まで読んでいるとは。まったくもって「本の虫」である。いや〈私〉がではない。北村薫が、である。
ロングインタビューにおいて、北村薫は言う。「これは偶然なのですが、でも自分の深層心理としてはそうなのだろうと感じます。やはり『スキップ』の真理子は、『秋の花』の真理子が蘇ったと考えたいですね」北村薫もそう感じていたと知り、それだけでこの本を買った甲斐があったと思った。私はずっと密かにそうであればいいなと思っていたのだ。そうでなければ、真理子さんが17才から42歳にスキップしてもう帰れないという残酷な処置の理由が見つからない。
北村薫の全てを知るわけにはいかないが、多くを知ろうとするには必読の本である。
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| 2004年08月17日(火) ■ |
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| 「バッテリー�供彝兩酳幻法,△気里△弔� |
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「バッテリー�供彝兩酳幻法,△気里△弔� 待ちに待った文庫の二巻目が出た。期待通り充実した読書が出来た。
「天才ならば、一人でも頂点めざしてやっていけるのだろうか」安易な答を著者は出さない。
中学・高校の六年間私は柔道部に入っていた。もし一人の天才がわれら弱小の部に入ってきたならどうだったろうと想像してみる。野球とは違い、9人でするスポーツではない。団体戦はあるが、一人ひとりが闘うしかない。残念ながら団体戦で敗退しても、天才には個人戦があるだろう。そこでずっと勝っていけば、一人の天才は世界の頂点まで勝ち昇っていくことが可能ではあるだろう。理論的には。
しかし、本当にそれは可能だったのだろうか。
天才原田巧は中学入学早々その問題にぶち当たる。柔道とは違い野球なので確執は必至だ。大人の私としてはやはり女房役の豪くんの言うように試合に出ることを最優先するべきだと思う。でも理不尽なことに屈したくないという巧くんの気持ちは一方ではものすごく大切なことだとも思う。ではどうしたらいいのだろう。それは読者がめいめい考えることなのだろう。
読んだ後、もう一度あの部活の時間に戻りたい、もっと自分の力を信じて自分を鍛えなおしたいと思った。大人にもお薦めだけど、やはり少年少女にも読んでもらいたい本ではある。
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| 2004年08月16日(月) ■ |
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| 「発掘された日本列島2004」朝日新聞社 文化庁編 |
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「発掘された日本列島2004」朝日新聞社 文化庁編 昨年発掘された主な遺跡の速報展の公式ガイドブックであり、2003年度発掘遺跡の豊富なカラー写真が入った概略本にもなっている。小さな(でも重要な事が多い)遺跡の発掘内容は分からないが、新聞で全国的に報道された遺跡の概略はこれで大体が分かる。いわば考古学の簡単な最新情報はまずこの本から、ということになるだろう。
実際、新聞でこまめにチェックしていたつもりだが、見落としていた遺跡、あるいは事物の多いことがわかった。九州奴国の首長クラスの墓とされる安徳台遺跡、報道を見落としていたと気づいた。岡山県のすぐそばの智頭から縄文集落が発掘されていたのは知っていたが、こんなに豊富な出土品があったとは知らなかった。唐古・鍵遺跡から出土した葛鉄鉱容器に納められた最大級のヒスイ製まが玉はいろんなことを想像させられる。今回早川和子氏の当時の状況を復元したイラストが多用されている。いい試みである。大事なのは遺物だけではない。遺物が使われた状況なのだから。この本を読むだけでいろんなことを考えさせられるのだから、実際速報展に行って実物を見ることでいろんな刺激を受けることは必至であろう。速報展は東京を皮きりに、群馬、岩手、石川、奈良、高知、神戸とまわっていく予定。私もなんとしてでも近くの速報展に行くつもり。
今回速報展、10周年を記念して各時代の主要な遺跡を特集している。特に縄文の三内丸山、弥生の青谷上寺地はお勧め。
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| 2004年08月15日(日) ■ |
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| 「青春18きっぷでたのしむ鉄道の旅」小学館文庫 |
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「青春18きっぷでたのしむ鉄道の旅」小学館文庫 あてのない一人旅が好きな私なのだが、今まで青春18きっぷの使い方を全然知らなかった。この本はそういう「初心者」に関してはぴったりの本だろうと思う。おそらく鉄道マニアにとっては雑誌などですでに知っている事ばかりなのだろうな、と思いながら読んだ。
効果的な使い方、とくにきっぷ使用期間に出る特別列車「ムーンライト」シリーズの使い方など大変参考になった。夜の12時をまたいで使うときにはきっぷを途中まで買っておくなんて考えも着かなかった。今度はのんびり電車の旅もいいかもしれない。しっかり本も読めるし。
追記 8月7〜8日、青春18きっぷを使い、岡山県倉敷駅から新見まで伯備線、三次まで芸備線、そこで遺跡めぐりをして、広島まで行って泊まり、次の日は原爆資料館、頼山陽記念館、広島限定上映映画「父と暮らせば」などを見て、尾道で途中下車し「朱華園」で尾道ラーメンを食べ、倉敷に帰りました。後三日分ある。早く使い切らなければ(^^;)
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| 2004年08月14日(土) ■ |
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| 「わが青春の考古学」新潮文庫 森浩一 |
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「わが青春の考古学」新潮文庫 森浩一 森氏の大学卒業までの半生記であると共に、戦中、戦後の考古学の関西地域の実録にもなっている。「僕は考古学に鍛えられた。もっと率直に言えば、考古学を通して自分で自分を鍛えた。」という森氏はまさに青春時代を考古学、あるいは「発掘」一色で過ごしている。その中で借り物ではない、自分のスタンスを持った意見が生まれる。
「一人の生涯のあいだに、一度も遺跡保存のために努力も発言もした事のない人は、本当の意味での学者ではないと確信している。」氏の弟子に当たる佐古和枝氏が妻木晩田遺跡の保存に成功させたのはそういう事なのだと納得。
「考古学の事を英語ではアーケオロジーという。…よく冗談で考古学はアルケオロジーといったものだ」それはなぜか。氏が学生時代に創刊した機関紙に書いているように「考古学は遺物の学としてより、遺跡の学へと進歩しつつある」博物館で見るだけではわからなかった事も実際の現地に行けばわかる事がある。ときには遺物がどのように埋められていたかということが研究に決定的な事実を付きつける事もあるのだ。しかしそれだけではない。遺跡から見える風景が大切なのである。私もその場所に立つだけで、遠く弥生時代の生活者の人生が迫ってくることがある。いろいろと共感するところが多い本ではあった。
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| 2004年08月13日(金) ■ |
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| 「弥生時代」の時間 学生社 大塚初重 |
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「弥生時代」の時間 学生社 大塚初重 この間の考古学、とりわけ縄文・弥生時代の学説の変遷は著しい。考古学は「実証学問」であるから、一つの発見が大きく全体の学説を塗り替えていくのである。かって東北地方には弥生時代の稲作はなかったといわれていたのだが、青森県の垂柳遺跡から水田跡が発見されると、東北地域にも非常にスムーズに弥生文化が伝播したということになった。環濠集落は日本の発明かといわれていたのだが、韓国の検丹里遺跡が90年に発見され、朝鮮半島経由の集落形態だということがやっと証明される、という具合である。そういうことなので、分かりやすい弥生時代の概説本は今まで数冊あったのだが、ほとんど時代遅れになりつつあった。その中でのこの本の刊行は時期に叶ったものであったとも言える。特に2003年は加速器質量分析法により弥生時代の実際年代が大きく早まる可能性が出てきた年である。この本は99年の講義を基にして書かれてはあるが、いち早くその研究成果を取りいれている。学説として定まっていないのでまだ曖昧な表現で少し分かりにくいところはあるが、鉄器・青銅器・土器編年表にその学説を反映している。それによると今まで中国・朝鮮の文化の伝播は50〜100年のタイムラグがあったと考えられていたのだが、もっとすばやく輸入されたように考えられる。あるいは魏志倭人伝の資料としての年代が非常に信頼できるものとして現れてくる。などである。基礎年代が変わるという事は応用的な考察が遥かに大きく変わるということだ。これからの考古学は面白いぞ。
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| 2004年08月12日(木) ■ |
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| 「日本縦断 徒歩の旅」岩波新書 石川文洋 |
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「日本縦断 徒歩の旅」岩波新書 石川文洋 2003年7月15日、北海道宗谷岬をスタートして、12月10日、沖縄那覇市に到着するまで、65歳の石川氏は日本海ルートを通って全て徒歩で歩きとおす。 難しい動機があるわけではない。「歩いて旅をしたかった」男の子なら一度は持つ夢である。正直な予算の公開、リュックサックの詳細な中身、朝・昼・夕飯の内容、宿の感想、そして出会った人たちの名前と年齢、自然、本当に正直に毎日の行動が記録されている。文章は素朴そのものだ。しかし、ジャーナリストとして事実を伝えようとする氏の誠実さは充分伝わるし、旅の中でふと思う感想から氏の戦争カメラマンとしての半生が浮かび上がる。 たまたま出会ったおばあちゃんの83年間の人生を聞く。夫のビルマ戦死、二人の子どもを育てた苦労、「元気の素」は娘二人と孫六人、曾孫13人なんだよ、というようなことを聞いていく。氏はあくまでジャーナリストなのである。文は見事に「足で書く文章」(報道記事の基本)になっていた。
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| 2004年08月11日(水) ■ |
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| 「列島考古学の再構築」学生社 板橋旺爾 |
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「列島考古学の再構築」学生社 板橋旺爾 この本の良い所は二つある。一つは著者が新聞記者であり、いわゆる考古学専門家ではないということだ。よって記述は考古学の一時期を扱うことなく、旧石器から弥生時代にかけて満遍なくほぼ最新の研究成果を紹介している。もう一つは前身が教育委員会の文化課なので、学者に近いところにいたということもあり、記述がわりと突っ込んだところまでされている。 しかし、良い所はコインの裏表で欠点にもなる。旧石器、縄文、弥生と本来三冊は必要な枚数の中に専門的な内容をいれているために、専門用語が多すぎる。著者は本当によく本を読んでいると思う。しかし、新聞記者なら新聞を読んでいる読者を想定して書くべきだと思う。考古学ファンの私が分からない用語を多用するのは問題であろう。たぶん著者は考古学の専門家に向けてこの本を書いているのだろう。また発刊の時期が去年の春なので、弥生時代の実年代の見なおし論で出る前だったせいもあり、その事が反映されていないのも残念なところである。
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| 2004年08月10日(火) ■ |
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| 「対論!戦争、軍隊、この国の行方」青木書店 |
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「対論!戦争、軍隊、この国の行方」青木書店 今井一 渡辺治 小林節 伊藤真 畑山敏夫 2003年10月15日、改憲派の小林節と畑山敏夫、護憲派の渡辺治と伊藤真がシンポジウムを開きガチンコの論争をした内容と、アフターシンポで各論者の主張を載せた本である。2005年にも『改憲』が政治日程に登っている今、こういうガチンコ勝負はしすぎるという事はない、大いにやってもらいたい。 もちろん『朝まで生テレビ』のように相手の意見を封じ込めような議論は不毛である。しかし『噛み合った議論』というものはいろんなことを明かにさせる。例えば『現実』という事に対して、各人が思っている内容は見事に対象的である。例えば改憲派はイラク派兵についてどう思っているのか、意外とも思える事が分かる。例えば護憲派は国民投票についてどう思っているのか、決して反対しているわけではないということが分かる。 シンポジウムで言い足りなかった事を補足する保証も取りつけていて、この企画はこれからの運動に対して一つの示唆を与えている。
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| 2004年08月09日(月) ■ |
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| 「清水幾太郎」神奈川大学評論ブックレット 小熊英二 |
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「清水幾太郎」神奈川大学評論ブックレット 小熊英二 清水幾太郎は私がその名を覚えた頃にはもうすでに充分「平和論者から転向した核武装を唱える右派論者」という評判を取っていた。当時日本思想史を学んでいた私は、思想というものは周りがどうであろうと本人の中で一貫した原理が無いとそれは「ニセ思想」であるという認識に至っていたが、清水幾太郎はその反面教師として興味を持っていた。そして彼についての評論を読んでみて、私が思ったのは「結局この人はいいかげんな人だった」という印象だけであった。そう思ってしまったのは彼についての評論が戦後の活躍から始められていて、生い立ちから述べられていなかったからなのだ。
今回のこの本格的な評伝を読んで私はやっと彼の中に「一貫した思考のスタイル」というべきものを発見した。戦前に日本橋から深川の「スラム街」に引っ越した清水はスラム脱出のために「インテリ」に憧れる一方、「高い地点」から抽象的な概念を説く「インテリ」に反発する。「こうしたアンビバレントな姿勢は、清水の中で〈西洋的な知識人〉と〈日本の庶民大衆〉という対立図式をつくり、やがて彼のナショナリズムの根底をなしてゆく」。自分は支配者層の立場に居なかった、という認識が戦中の左から右に移った事に対する無反省を生み、「論壇」で有名になることを好み熱中しやすい性格が、その後の右と左を往来する人生の基になる。もちろん彼に「思想」は無かった。しかし「一貫した思考のスタイル」はあったのてある。それはひとり清水だけの問題なのだろうか。
この文章は当初小熊の「〈民主〉と〈愛国〉」の1章としてかかれたのだという。しかし分量の関係から割愛された。そういう意味ではこの本はあの大著の外伝という性格を持っている。清水に対する問題意識はそのままこの大著の中で十二分に展開されるのだろう。
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| 2004年08月08日(日) ■ |
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| 「古代吉備を語る会」出雲西部への旅04.05.30 |
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5月30日に行われた「古代吉備を語る会」は、去年の出雲東部に引き続き、出雲西部地域の見学バスツアーです。
安来の料金所を通りすぎ、宍道から高速を降りて、国道54号線を山方面に上がっていくと、右手側に加茂岩倉遺跡の看板があります。ここで39個もの銅鐸が偶然発見されたのが96年、たった8年前です。とはいっても私は当時の熱狂をあまり覚えていません。まだ本格的に考古学に入れこんでいなかったのだと思います。当時、駐車場は遠く、延々数キロ歩いてこの不思議な谷に来たそうです。いまでは駐車場もあり、アザミ咲き、蛇イチゴ実る畑道を一キロほど歩くと遺跡に着きます。
2年前に私がふらりと見学に来た時には無かったガイダンス施設が完成していました。そこから谷の反対側を眺めると遺跡が見えます。39個もの銅鐸が本当になんでもない谷の斜面に埋められていたのだということが分かります。現在その「場所」では、ショベルカ−が「ごろごろ出てきたのはバケツではなく銅鐸かしら」と気づいて工事を止めたまさにその瞬間の状況をレプリカで再現しています。埋めたままの状況で残っていたのはわずか2組4個でした。あと1分気が付くのが遅れたらそれさえも破壊されるところでした。荒神谷遺跡がすでにあった島根県だから工事の人もピンと来て残ったのだとも言えるでしょう。銅鐸は小を大の中に入れる「入れ子」状態で埋めていました。銅鐸のすぐれた絵画性、荒神谷遺跡の銅剣にもある「×」の印(出来上がったあとでタガネで付けたらしい)、ほかの地域との関連性、解くべき「謎」はあまりにも多い。それがこの遺跡の特徴です。専門家はともかく素人の我々は好き勝手な事を考えればいいのだから「ドキドキ」します。
最大の謎は、なぜこんなにも多くの銅鐸がここに埋められたのか、という事です。案内してくださった島根教育委員会の西尾克巳氏は「(ここが特別聖なる場所だったことは)まったくない」といいます。聖なる岩「いわくら」は山を隔てた向こう側、神の降りる山「かむなび山」の仏経山はこの場所から見えない。川もない交通から遮断された場所です。銅鐸が入っていたのと同じような袋状の穴が、すぐそばにもう一つあったといいます。それを基に、諏訪神社のように何年かおきに埋め変えをして祭りをしていたのだという説を唱える人が居ますが、私は「聖なる場所」でないところでそんなことをするとは思えません。その穴は木製祭祀とかの有機物が埋められていたのでしょう。私は(かってに)断言しようと思います。『39個の銅鐸は、銅鐸祭祀を行っていた勢力の衰退あるいは滅亡を前に、「隠された」か「捨てられた」のである。』『荒神谷の銅剣銅鐸もほぼ同じ理由で埋められていたのである』あそこも「聖なる場所」から無縁でした。そして『そのあとにこの一帯を支配したのが西谷墳墓群の首長たちであった』西谷墳墓群から一つの銅剣銅矛銅鐸も出ていない事がそれを証明してないでしょうか。加茂岩倉も荒神谷もまったくの偶然で見つかった遺跡です。青銅器を埋めている場所がこの二ヶ所だけだったという想像はかえって不自然でしょう。必ず他にも青銅器は埋められていると思います。確かにこの辺りは弥生中期から後期初頭にかけて、倭国有数の青銅器祭祀を行っていた場所だったたのでしょう。西谷墳墓群の人たちは『鉄』を背景に強い力を持っていたのかもしれない。しかし青銅器祭祀の人たちは自ら変わったか、あるいは争いごと無く、彼らに支配権を譲ったような気がします。当時の争いごとがあった事を示す遺跡が無かった事がそれを示しています。
いや、一つ気になる遺跡があります。ここの地域から完全に離れた出雲東部に、三重の環濠に囲まれた祭祀のためとしか思えないような小高い山、この遺跡と同時期に作られた田和山遺跡があります。ここの青銅器と田和山で使われた青銅器はたぶん違うものだとは思いますが、あの三重の環濠は何かの緊張状態を示しているのかもしれない。
いけない、いけない。妄想が暴走していますね。閑話休題。もとに戻ります。
そのあと、荒神谷遺跡に行きました。バスは回り道していきますが、加茂岩倉からは直線距離にして3.4キロしか離れていません。今から20年前(84年)農道の事前調査のときに358本の銅剣、6個の銅鐸、16本の銅矛が見つかったとのことです。ここもなぜ埋められていたかは『謎』です。しかもなぜかすぐそばに浅い穴が三つあります。
特別にすぐ近くまで寄って見せてもらっていた我ら見学隊は『異常』を発見しました。銅矛が15本しかない! レプリカとはいえ貴重なものです。1本の銅矛が盗まれている!「大事件ですねえ」と西尾氏は平静な声で言いました。
昼食をはさんで西谷墳墓群に行く。この遺跡が斐伊川の河口付近にあるのは偶然ではないだろうと思います。この川を上流にたどっていくと近世まで製鉄で盛んだった吉田に行きます。この川はおそらく弥生時代から鉄を産する川だったのではないか。当時の製鉄遺跡はまだ見つかってはいませんが。
西谷の駐車場に行くとびっくりしました。2年前ここに来たときと違い、公園として整備されているのです。西谷墳墓もずいぶんときれいになり(まだ整備中ですが)印象が変わりました。荒神谷もなにやら施設が建設中だったし、加茂岩倉はガイダンス施設が作られていたし、島根県はここ数年、「青銅器のクニ」として遺跡の整備に相当力をいれているみたいです。それはそれで凄いし、岡山県もぜひ見習って欲しいのですが、一方で同じ弥生遺跡である田和山遺跡は病院建設のために潰そうとしました。「遺跡の保存」は基本的には住民の運動がない限りはあり得ない事は肝に命じておきたいものです。
西谷墳墓群は弥生後期の四隅突出墓が6基あります。4号3号は相当大きい。後世の古墳といってもいい位の大きさ高さを備えています。真四角で各隅に突出があるのが特徴。そして吉備との関わりが非常に濃い。特殊器台(吉備から発生した後継祭祀用の器台)の大量出土、二重の棺、大量の朱の使用、剣玉の副葬品が共通なのです。王族同士の婚姻関係があったといわれる所以です。また北陸福井県小羽山30号墳との類似性も指摘されています。
ちょっと妄想モードへ。倭国の乱は「恒・霊の間」(147〜189)といわれています。配ってくれた島根教育委員会が作っている『墳丘墓の変遷表』を見てみると、3、4号は180年代頃、もっとも大きい9号墳は240年頃の造営となっており、吉備の楯築墳丘墓は3、4号墳と同時期、となっているのです。となると、3、4号墳と楯築はまさに「倭国大乱」の真っ只中で造営されているということであるし、加茂岩倉、荒神谷に青銅器を埋め、青銅器司祭が出雲で無くなったのは大乱の直前だということになります。そうだとすると、140〜180年頃、出雲と吉備で明かに倭国大乱に関わる大きな変化があったのです。一つは「鉄」を巡る変化でありましょう。考古学的発見はまだなされてはいませんが。そしてその頃吉備と出雲に新しい世代の「若者」が登場しているはずです。私は突然墓が大きくなったのは葬られた人間が英雄だったとは思いません。葬る側の後継者がそれだけの力を持っていたのです。墳丘墓における特殊器台を使った祭祀はその事を周囲の人たちに認めさせる一大イベントだったはずです。この墓に出土する土器以外にもいろんな人間が葬式に参加したのだ(レーガン元大統領の葬式のように)、とは考えられないか。この葬式で若者たちは「飛躍」する。だとすると彼らがもっとも活躍したのは170年以降でしょう。彼らは大乱を治めるために活躍したのです。楯築と西谷で突然墓を大きくし、葬式という一大イベントを起こし、それがそのまま大乱回避のための仕掛けにもなったのではないか。そしてその頃卑弥呼が擁立されます。果たして彼らは友人同士だったのか、あるいは反発し合っていたのか、この頃いったいどのようなドラマがあったのでしょうか。(卑弥呼を巡る三角関係だとちょっと面白いですね)その後出雲ではさらに大きな墳丘墓(9号墳)が出来ますが、吉備では出来ません。この60年間を一人の若者が生きているとするには長すぎますので、ある世代は盟友同士だったが、ある世代になると反発し合っていたのかもしれません。しかし9号墳の数年後に大和に箸墓古墳が出来るのです。出雲の首長は出雲地域を離れる事は無かったが、吉備のリーダーは各地を巡り、倭国という「連合」を作り上げたのではないか。ともかく倭国大乱の始まりから、倭国連合の最終的決着まで3〜4世代は必ず必要ですし、その時代のリーダーの思想を知る手がかりがこの出雲にはあるのです。この半月間私は出雲から帰り、いろいろと妄想が膨らんで仕方ありませんでした。
最大規模の四隅突出墓、9号墳の発掘を是非してもらいたい。それで全てが分かるとは思いませんが。
その後一挙に時代が300年ほど飛んで古墳時代の三つの墓を見に行きました。それはそれは見事な石室で、「観察」という観点では、ここから本番なのかもしれませんが、いかんせん私の興味範囲は弥生時代まで。私のレポートはここまでとさせてください。
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| 2004年08月07日(土) ■ |
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| 玉島の「玉」について04.04.24 |
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玉島の「玉」について 4月24日、玉島西爽亭(旧柚木家旧宅)において、玉島という地名の由来の石「玉島の『玉』」の12年ぶりの公開と、それにまつわる講演を聞いてきました。「玉島」の地名の由来は二つあるそうです。一つは奈良時代編集「万葉集」の「ぬばたまの夜はあけぬらし玉の浦にあさりする鶴なきわたるなり」に由来するのではないかという説。ひとつは鎌倉時代安貞年中(1227−1228)今の乙島依佐山の麓より出土したと伝えられる「玉」から玉島になったという説です。
講演は郷土史家の古城氏。「玉」にまつわる四つの文献を詳しく説明していた。残念ながら遅れて入ったことと、古城氏の言葉があまり聞き取れなかったため、文献資料にまつわる話は私にはできない。今回私がこの話に興味を持ったのは玉島の「玉」が柚木家代々「家宝」として伝えられてきていて、一般には公開されていない「出土品」だという事実なのです。文献批判は郷土史家に任せるとして、考古学的遺物としてのこの「玉」に興味を持ったのです。「玉」といってまず思い浮かべたのは、中国上海故宮で見た「玉」です。中国紀元前の王室では代々白い石を宝として代々大切に扱っていました。玉島は古くからの港なので、もしかしたら中国の宝が玉島に長い間落ちていたのではないか、と思ったのです。しかし、実際「玉」を見るとそれは確かに見事に磨きぬかれた石の球体なのですが、白い石ではなく薄ねずみ色、あるいは薄黄色の普通の石なのです。(石の材質は不明)。多宝塔の石がたまたま落ちていたといわれても私は不思議とは思わなかった、そういう石でした。中国伝来ではないかという私が考えた可能性は低そうです。でも、この石を見ることができたのは非常に貴重でした。なにしろ家宝中の家宝なので今度いつ公開されるか分からないのです。デジカメで写真も取りました。もし写真を転送してほしいという方がおられたらご連絡ください。
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| 2004年08月06日(金) ■ |
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| 造山古墳周辺の遺跡を巡る04.03.13 |
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造山古墳周辺の遺跡を巡る 04.03.13 今回の「古代吉備を語る会」は私がこの会に参加し始めて、初めての吉備中枢部の探索です。しかも弥生墳丘墓が二つも含まれている。なにがなんでも参加しました。出宮さんの熱のこもった倭国大王陵説を聞き、非常に充実した会になりました。
先ず行ったのは雲山鳥打(くもやまとりうち)墳丘墓。山陽高速そばの山の上の道無き道を踏み分けいくと、かすかに盛り上がっているところがそうだそうです。昔一人で探してみてとうとう見つけられなかった墳丘墓です。 やっと出合う事が出来て大変嬉しい。ここに三基の墳丘墓があったそうです。竪穴式で木郭、下には円礫を敷き、朱を撒いていたらしい。造り自体は私が去年12月に釜山の博物館で見た古墳群のそれに非常によく似ている。特に見晴らしのいい丘の上に複数作るところが似ています。弥生後期後半の墓で大陸の影響化にあった墓らしい。特殊器台、特殊壷が出ている。場所は高松城を見下ろす高台にあり、水攻めのときの陣地にもなったみたいで、破壊が著しいらしい。しかし、反対に言えばこの見晴らしの良さは、高松城一帯の平野を生産基盤にしていた共同体のリーダーの墓だったということも出来るかもしれない。墓はいずれも北枕だったそうだ。これも大陸の影響か。
次ぎに行ったのは、鯉食(こいくい)神社墳丘墓です。神社の下がそのまま弥生墳丘墓なのです。ここには何回も来ています。ここから直弧紋の破片土器が採取されたと聞き、私も見つけられないかと何度も歩き回ったものです。1916年、拝殿改築時に南北に細長い竪穴式石室が2基並んで見つかったとのこと。向木見型の特殊器台と特殊壷、高杯などが採取されている。弥生時代後期後半、築造順は楯築→雲山鳥打→鯉食神社、らしい。鯉食は楯築の一〜二代あとの墓なのか。楯築、雲山は見晴らしいのいい丘の上なので、まだ墓を作る理由が分かるのですが、鯉食は古い住宅地の一角に作られています。場所が楯築、雲山のちょうど中間地に当たるので、何か意味があるのかと聞いたところ、それよりもどの墳丘墓も日差山の主要な尾根筋の先端に作られていることを重視したほうが良いとの指摘をうけた。その先端から見渡せる辺りが、その墓がリーダーとして影響力を持っていた地域なのでしょう。確かに鯉食もその周りの家を取り除けば、丘の上でした。
そして前方後円墳体制がひかれて非常に初期の段階の古墳、矢部瓢箪塚(やべひょうたんづか)古墳に初めて行きました。全長47m。前方部が撥型に開いています。日差山の尾根筋で、真東に楯築、あるいは女男岩墳丘墓、その向こうに吉備の中山、または雲山鳥打、鯉食も見渡せる、いわば扇の要の位置にある前方後円墳です。特殊器台型埴輪や、特殊壷型埴輪の破片が採取されている。吉備の前方後円墳で、埴輪が出てきたのはこの古墳が初めてらしい。吉備の特殊器台が大和に移り、埴輪になって戻ってくるまで若干のタイムラグがあったことを示す貴重な例らしい。つまり埴輪は大和で発明されたということなのでしょうか。それはともかくここからの眺めは素晴らしかった。
今回楯築へ行かなかったのは残念でしたが、まさしく弥生時代後期、吉備の国が「クニ」として発展した時の主要人物たちの墓に今回は行った、という気がしています。そのとき吉備の中山は聖なる山だったかもしれないが、実際の墓はその真西の日差山に弥生、古墳時代にかけてずっと大小作られているのは注目すべきではないか。日差山とは何か、もうちょっと考えていくべきカナ、とも思いました。
そして昼食休憩をはさんで造山古墳へ。 一般に考古学者というものは事実以外の「推測」は言わないものですが、おそらく個人的に相当の確信があるのでしょう。珍しくこの会の主催者岡山教育委員会の出宮氏が自ら講師を買って出たと思ったら、「造山古墳は倭国大王陵か?」説明文章には教科書を書き変えそうな「衝撃的な」タイトルが付いていました。しかし根拠は「なるほど」と思えるようなものばかりでした。私は支持します。
吉備に住む私たちでも一般に造山が日本第4位の規模を誇る墓だったぐらいは知っています。少し考古学に詳しいものは築造時期には日本で一番大きい規模であったことも知っています。しかし、それはいずれも当時の吉備地域が倭国の中で大きな役割を持っていたという証拠以外の何者をも示してはいなかったのです。しかし出宮氏は造山は「吉備の大王」の墓としてはその質量とも域を超えているというのです。「倭国の大王」とする以外はない、というのです。当時、倭国の都は明かに大和にありました。しかしその後なんらかのごたごたがあって一時期都が河内に移ります。出宮氏は造山がその過渡期を引きうけたいわば中継ぎ投手の役割を引き受けたのだろうというのです。当時倭国は都は大和にあったとはいえ、大和は各国の連合組織的役割を持っていただけでした。というのが最近の定説になりつつあります。それは、私の言う「大陸とは一線を画して倭国が平和的に統一国家をつくった。」ということにつながります。今回のいわば「吉備倭国遷都」が証明されれば、私の「論」も補強される事に成ります。出宮氏ガンバレ。
出宮氏の根拠は以下の通りです。 ●この時期(5C前半)の「記紀」において「吉備」の群像の記載頻度は大伴氏、物部氏を凌いでいる。 ●周濠はないが、塚域を伴っていたという証拠が見つかった。田んぼの地割りに一部塚域の線が残っているのてある。これは吉備地域の前方後円墳にはない作り方だそうだ。その「跡」だという畦道を歩きました。 ●様々なかたちの埴輪が出土。石棺は阿蘇から持ってきている。九州との繋がりはこれが「大王陵」である証拠。 ●吉備の従来の大形前方後円墳には見られない陪塚、あるいは時代が下って「幕僚」の墓も付随していて、吉備の王としての域を超えている。 ●その時期の吉備の最大の墓、金蔵山古墳より全長で2.12倍の大きさ。各差が大きすぎる。 ●造山古墳の位置は明かに風水観に基づく「王陵の地」の地形にある。 その他にもあったかもしれない。花嵐さん補足があればお願いします。 「万年野党でもときには与党になる事がある」とは一時の「社会党」を「例」にした出宮氏の説明の言葉でした。
さて、王の墓がある以上は、当然都も吉備に遷都してきたと考えなければ、作る主体がありません。その事を質問すると、出宮氏は少し言葉を濁しました。大王が吉備出身ということで墓だけここに作ったという考えも持っているようです。しかし私はそれではこんな大きな墓はそれこそ作れないと思います。そうすると出宮氏は風水の観点から、後円部をまっすぐ伸ばした津寺辺りが都候補地としては怪しいと教えてくれました。はてさてみなさん、「世紀の大発見」目指して掘ってみますか?
その後造山の2〜3世代あとの小造山古墳、あるいは幕僚候補たる車山古墳跡を見て帰りました。今回も約14キロ、歩きに歩きました。
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| 2004年08月05日(木) ■ |
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| 彦崎貝塚確認調査現地説明会04.02.01 |
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昨日の「光州水村里遺跡」は「公州水村里遺跡」の間違いでした。 お詫びして訂正します。
ついでに補足説明すると、 昨日の文章もこの文章も、 古代吉備メーリングリストに投稿したものです。 最近の私の旅レポートはほとんど考古学関係になっています。
彦崎貝塚確認調査現地説明会 04.02.01 2月11日は私は仕事のため、現地説明会があった事をいい事に一足早く彦崎貝塚に行って来ました。説明会文書にはこうあります。「彦崎貝塚は、JR彦崎駅から南に約300mの標高約5mの台地上にあります。S23.24年に東京大学理学部人類学教室によって発掘調査が実施されました。このときには約30体に及ぶ縄文前期の人骨と共に、土器を始めとした多量の遺物が出土しました。中でも縄文土器は山内清男博士によって瀬戸内地域を代表する基準資料として認定され、現在も広く知られています。」 羽島貝塚や、津雲貝塚は知っていたし、人骨が出た事で、有名な事は知っていたのですが、彦崎貝塚はそれに勝るとも劣らない貝塚であった事を今回はじめて知りました。東京大学の研究室深くに人骨が眠っていたのです。なんと妊婦の人骨も在り、胎児とセッとで出てきたようです。パネル展示、票本展示もされていて、今回地元の人もあまり知られなかった彦崎貝塚の全貌が分かる展覧会にもなっていたみたいです。 さて、今回の調査ではまさしく貝塚を掘っていました。これほどまでに「牡蛎」の貝のみでてくる貝塚いは珍しいそうです。(晩期はハイガイのみになる)その貝塚から今回は中期の人骨が前期にはない「土溝墓」から出土しました。また牡蛎の加工場と思われる焼成土も発見されています。香川のサヌカイトも多量に出土している事から、それらとの交換のための特産物だったのでしょうか。今回の調査でついには人の住んでいる跡は見つからなかったみたいです。しかし前期・中期・後期・晩期と一貫して縄文時代を住んでいるこの地域の人たちです。どこかに住んでいたところが在るはず。なぜか西日本の貝塚からは住居跡が見つかっていないらしい。私はふと沖縄みたいに洞穴に住んでいたのかと思い、聞いてみましたが、この近くに洞穴なんてないらしい。学芸員の方は16年度調査予定地の彦崎団地隣の辺りが怪しいと思っているみたいです。 ここだけで2時間もうろうろしていたのですが、終ってみると疑問が次々と出てきます。聞きそびれたのですが、弥生時代になるとこの貝塚は急速に寂れたみたいです。それは岡山の貝塚の特徴なのか。つまり人は吉備地域あるいは他の弥生村に集合していったのか。多量の動物遺体、植物種子は出てきているみたいだが、三内丸山みたいに栗などの栽培、あるいは稲の栽培の可能性は?前期で香川や近畿との交流は在ったみたいだが、岡山県内の貝塚同士の交流は?土偶など、精神世界を垣間見る資料の出土はないのか、ないのならなぜ出てこないのか。 考えてみれば縄文全時代に渡って遺物が在るというのは凄い事です。一万年近く永遠と人々はこの地域に住んでいたという事です。それほどまでに瀬戸内の海の幸と、児島の山の幸は豊富だったのか。人々はいったいどんな「伝説」を大事にしながら住んでいたのでしょう。 2月11日に行ったかたがいましたら、皆さんの感想も聞いてみたい。
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| 2004年08月04日(水) ■ |
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| 光州水村里遺跡見物記(04.01) |
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1月6日、花嵐さんといっしょに百済時代の大発見が続いているという発掘現場に行ってきました。場所は韓国ソウルから高速バスで2時間と少しのところにある公州・水村里というところです。 日本ではまったくニュースになっていないということもあるので、おそらくこの発掘現場に来たのは、私森の熊と花嵐氏が日本人では初めてではないかと思います。行きかたは案外簡単。公州バスセンターからタクシーをチューターして、公山城前にある観光案内所に行き、そこで詳しい場所を聞いていきます。ここの案内所の人は日本語は出来ませんでしたが、電話で通訳を呼び出し、土地カンのある彼女がタクシー運転手に場所を教えるという形で(でも迷いましたが)なんとか行く事が出来ました。(一時間と少しのチューターで2000円少しで済みました。) 百済の古墳というのでてっきり公州の観光地・武寧王陵の近くかと思っていたら、意外にも川を隔てた反対方向。百済の城があったという公山城からも10分くらい行った水村理という村の道路沿いの小高い丘の斜面上にありました。円墳ではなく、斜面に竪穴式の墳墓がいくつかまとまっています。 行くと10数人の方(若い人が多かった)が発掘作業をしていました。ちゃんとカラーの報告書をつくっています。それを見ると(ハングル部分はさっぱり分かりませんが)漢字で「儀堂農工団地造成敷地内発掘調査」とありました。遺跡規模は4920�孱横娃娃廓�9月からの発掘。筆談で少しだけ聞くと、450−500年の時代の遺跡らしい。(百済の公州遷都が475年なので、公州に都が出来る前の人たちの墓か、百済の王族の墓なのかも知れません)また我々が行った時は「ベルトが出土したよ(と聞こえた)」と教えてくれました。忙しい中、わけの分からん、韓国語もさっぱり出来ない見物人に親切に応対してくれて報告書まで無料でくれた発掘現場の方たちどうもありがとうございました。百済時代というのに、発掘現場ではほとんど墓意外は掘ったあとがありません。気候の関係なのか、広葉樹林が少ないからなのか、上に土がたまっていかないのでしょうか。年代の決め手はいったいなんだったのでしょうか。もっとわかった事はないのでしょうか。この墓はどういう形式なのでしょうか。出土物の名称はなんだったのでしょうか。疑問だけは山のようにもって帰りました。だれかあの報告書を解説してくれる人はいないでしょうか。 そのあと武寧王陵の見学をしました。7つの円墳からなる古墳群の一つが遷都後の百済で一番栄えた武寧の墓で、そばには資料館が建設されています。それを見ると水村理の墳墓とは明かに形態が違うという事が分かります。横穴式石室。中はドーム状で、見事にタイルで囲んでいます。そのなかに、様々な「お宝」がありました。ほぼ同じ時代なのに、水村里は相当みすぼらしい。この墓の形式がどうして日本に伝わらなかったのでしょう。 今回来て博物館が閉鎖されていたのには私的にはとても残念でした。今年の6月にはの新国立博物館が、武寧王陵の近くに建設される予定。その頃にはもっといいパンフも出来ているでしょう。
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| 2004年08月03日(火) ■ |
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| 『美術館の隣の動物園』(DVD) |
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『美術館の隣の動物園』(DVD) 発言内容: 最近TUTAYAが全国一律料金というのを始めて、おかげでDVDの値段が一挙に半額になり 、最近DVDを借りまくっています。その中でまだ未見のこのDVDをみると、『拾い物』だ ったので、珍しくここに書き込みさせてもらいます。
監督はイ・ジョンヒャン、去年『おばあちゃんの家』でスタンダードな話なのに涙を誘 った少しだけ『何か』を持っている若手女流監督。これがデビュー作。 主演はシム・ウナ。まだ『8月のクリスマス』のイメージが変わっていないころの彼女 である。98年作品。
ひょんなことから10日間の共同生活を始めた男女。男は振られたばかり。女は片思い中 。女はシナリオ執筆中。片思いで恋の成就できそうにないのに業をつかせて男はシナリ オに助言を始める。もちろん最後は現実の男女も恋の成就です。ラブシーンは簡単なフ レンチキスまで。韓国の映画界もいい時代だった。
コメディ映画です。韓国の観客の反応は素晴しいことを私は知っているので、この程度 のコメディでもたぶん爆笑の渦だったのだろうなあ、と想像します。ヒットしたらしい ですから。私がびっくりしたのがシム・ウナの体当たり演技です。化粧気なし、髪ぼさ ぼさ、歯も磨かないという女の子を演じていて、その当否は別として実に一生懸命やっ ています。彼女のプロ意識は本物です。ただ彼女はちょうど美しくなるときだったので 、どうも違和感がある。プロデューサーが強引にキャスティングしたらしい。私ももっ とブスのほうがよかったと思う。
DVDなので特典がいっぱい。特にシム・ウナと監督のインタビューは大変面白かった。 シム・ウナはプロデューサーになりたいなんていっている。彼女の上昇志向は本物です 。ただしそれは単に『成功したい』というだけだったのかもしれない。だから金持ちと 結婚するとさっさと引退したのでしょう。
監督は高校生の役でも出てきそうな女の子。といったら怒られるか……。しかし、助監 督経験が長かったこともあり、この作品で徹底的に『ダメ押し』をしたみたいです。こ のオーソドックスな物語も、たくさんの小道具をきちんとエピソードの中にまとめてい て、一つ一つのエピソードは心に残る。日常を大切にする作家です。
なかなかお薦めのDVDです。
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| 2004年08月02日(月) ■ |
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| 『キング・アーサー』は60点 |
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『キング・アーサー』 短評:いやー、見事に寝てしまった。 気がつくとウォードと仲良くなっている(^^;) それまでにこの映画つまらないと私の脳が判断したのだと 思うことにします。 彼がランスロットだと、 冒頭部分で誰か言っていましたっけ。 彼だけずっと名前で呼ばれていなかったので、 そこにこの物語の(よくわからんが) 最大の見せ場があるのだとばかり思っていました。 その他よくわからん話ばかり。 あれだけの戦闘でサクソン民族の侵略は終わったんですか。 キーラナイトレイ、ホラー映画に出ると映えるかもしれないと 思っちゃいました。 『アーサー王伝説』はいわば英語圏では 『古事記』みたいな物語で、 言わずももがな、の事柄が多すぎるのだと思います。 でも最近の若者は教養がないから アマテラスとスサノオが姉弟だと知らない人がいるように、 ランスロットは円卓の騎士だと知らない人がいるように、 最低限の解説はしてほしいものだ。 しかしそれを描くと『指輪物語』みたいになってしまうのか。 ただ、テーマはわからん。 アーサーのあの戦闘は単なる自己満足か。 あれが『自由』のためなのか。 ごめんなさい。ぐちぐちいってしまいした。 全部きちんと見たわけではないのに(^^;)。
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| 2004年08月01日(日) ■ |
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| 『スチームボーイ』は50点 |
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『スチームボーイ』 短評:点が辛過ぎるだろうか。 あの絵描きの努力に対して無情すぎるだろうか。 いや、これでいいのだ。 『ぼくは未来をあきらめない』って どういう未来なのか結局わからなかった。 お父ちゃんはいったいどういう人だったの? あのエンドクレジットは最大の謎だ。 誰かあれを解説してくれー(T_T)
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