前潟都窪の日記

2005年05月31日(火) 水蜜桃綺談6

 景光に弟子入りした虎丸は備前長船村で修業に励んだ。生来、好奇心が旺盛なだけに、一事に集中することが苦にならない性格で根気よく仕事に精をだした。加えて動物が好きな性格であったから細かな所の観察が鋭く師の景光も驚く程の上達振りであった。    

「虎丸よ。お主を幸山のお城から預かってきてはや五年が過ぎた。腕の方ももう一人前だ。ついてはいつまでも虎丸というわけにもいくまい。どうじゃ、我が祖光忠の一字を戴いて、以後は垂光と称すがよかろう」「ありがとうございます。ついては、お師匠様におりいってお願いがございます」   
「なんじゃ。申してみるがよい」                         
「聞く所によりますれば、都には優れた刀鍛冶が集まっているとか、垂光も都へ上ってもそっと腕を磨きとうございます」                         
「それもよかろう。山城粟田口派の国綱、備前直宗派の三郎国宗、福岡一文字派の助真等の流れを汲む名工達が技を競っているのが都じゃ」               
 垂光はかくして都へ上り刀鍛冶として腕を磨き、かたわら日像によって都にもたらされた日蓮宗についての見聞を深めたのである。

荘一族に荘常陸兼祐という土豪がおり、智略にたけていた。幸山城にいる荘左衞門次郎一族の分家筋にあたり、都宇庄を分与され福山の麓に館を構えて南部地域の新田の開発に精を出していたが、荘一族の中では欲深で物欲のためには信義を平気で破る油断の出来ない男と見られていた。荘常陸兼祐には男子がなく雪姫という娘が一人いたが稀にみる美貌の持ち主であった。彼は荘左衞門次郎の三人の嫡子太郎太、次郎太、三郎太の内末の子の三郎太を雪姫の婿に迎え入れようと申し入れ近く祝言をあげることになっていた。 

 元弘の変(1331〜1333)の頃から護良親王令旨とともに御醍醐天皇の綸旨や足利尊氏の催促状が使者によって届けられるので、何れに与するのが自分の為に得策かと考え悩んでいた。兼祐の本家筋にあたる左衞門次郎が早くから足利方に加勢する意志を示していたので、悩みは大きかった。備前児島には豪族の佐々木一族が控えており、有力な土豪飽浦信胤も積極的に足利方に助力していた。

 一方備前邑久郡豊原荘の地頭今木氏や大富氏は児島高徳と共に天皇方の有力な支持者であった。ところで、児島高徳については次のエピソードが残されている。       

 後醍醐天皇が隠岐の島へ流されることになったことを知った児島高徳は帝を播磨船坂峠で奪回しようと待ち伏せしたが、天皇一行は山陽道を通らず、播磨の今宿(姫路)から美作へむかっていた。既に院庄(津山)に入っていた天皇にこの地にも天皇に心を通じる忠義の武士達がいることを伝えたくて、御座所近くの桜の大木に次の詩を書きつけた。   

「天 匂践を空しゅうするなかれ 時 范蠡なきにしもあらず」          
 天は越王匂践(後醍醐天皇)を空しく殺し奉ってはならない。越王を助けて恥をそそいだ范蠡のような忠臣がいないとはかぎらないという意味である。                           



2005年05月30日(月) 水蜜桃綺談5

 数日後長船から景光が幸山城へ呼び出された。                
「のう景光よ、お主の爺さまの光忠が打った刀は天下一品であったと聞いておるぞ切れ味といい右に出るものはなかったそうな」                    
「はぁ恐れいります。お館様にそのように我が御先祖様のことをお褒めに預かるとはまことに晴れがましゅうございます。刀鍛冶として家門の誉れに存じおります」     
「お主の父の長光もこれまた天下に比類なき名工と聞いておる。弘安の蒙古来襲(1282)の折に執権時宗公が蒙古の使者を成敗された刀がお主の父長光の打った刀だということは天下にあまねく知られていることだからのう」
「ははぁ、刀鍛冶として過分のお言葉。景光身に余る光栄に存じおります」      
「光忠、長光と我が荘家との付き合いも長いものじゃのう。光忠の打った刀を我が祖父が携え文永の役(1274)の折り、肥前の国へ出陣して以来の付き合いじゃ」     
「この乱世にあって、頼朝公以来の名門である荘家よりそのように長い年月御愛顧戴いたること、刀鍛冶として一門の誉れにござりまする」                 
「ところで、景光おりいって願いの儀がござる」                  
「ははぁ、これはまたなんでござりましょう。景光に出来ることでございますればなんなりとお申し付け下さいませ」                           
「ほかでもないが、我が息子虎丸のことじゃ。そちも承知の通り、虎丸は気立てが優しく、生き物を我が友として成長して参ったが剣術の腕前も相当上がったようで、このまま進んで剣術の腕が磨かれると兄弟達との間で争いが起こりかねないという虞れがある。この円念坊に預けて仏門の道を進ませようと考えていたのじゃが、研ぎ澄まされた刃の美しさに魅せられてしまったらしい。刀鍛冶になりたいと言うのでな。武芸を習わせるよりも刀鍛冶にして武士の魂を磨かせたほうがあの子の将来にとっても荘一族の将来にとってもよいのではないかと考えるのじゃが、そちはどう思うかの」      
「お館様、それは良い所にお気がつかれました。乱世の世の中でありますれば戦に命を掛けるのも一生。刀鍛冶になって武士の魂を作り磨くのも一生と心得まする」      
「そうか、それでは景光よろしゅうお願い申す。虎丸を頼みますぞ」


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2005年05月29日(日) 水蜜桃綺談4

円念は虎丸にお経と武術を教えたが、それ以上に剣のもつ美しさを教えた。気性の激しい虎丸に刀の武器性よりも美術性の方が価値があることを悟らせ荘一族の中で争いが起きないようにするのが円念の役目だと自覚していたからである。

 動物好きな虎丸には武術よりも剣の美しさのほうが心の慰めになった。そんな生活の中で虎丸の心の中には刀の使い手であるよりも、鑑賞者であるよりも、刀を作る者になりたいという気持ちが育まれていくのであった。美の創造者になりたいという思いが心の奥底に沈澱していくのであった。

 虎丸が十才になったとき、福山寺の僧円念は父荘左衞門次郎に虎丸を備前長船の刀鍛冶景光に弟子入りさせることを進言した。

 この時代は後の江戸時代と違って士農工商という身分制度もできあがっておらず、農民が荘園内の田畑を耕作するが同時に武装もして外敵と戦うことが多かったし、鍛冶が武器をとって戦うこともあったので領主の庶子が刀鍛冶になることには違和感というものがなかった。            

「お館様、昔、村上天皇、冷泉天皇、一条天皇の佩剣を鍛えた名工として誉れ高い実成は長船の刀鍛冶でございました。しかも実成は虎丸様と境遇がよく似ておいででした。虎丸様は剣術の腕も磨かれ、お強くなられました。しかし御気性からして、剣の道を歩まれると荘家の将来にとって、由々しき事態が起こらないとも限りません。仏門で修業を続けられる御意志はないようにお見受けいたします」                       と円念は荘左衞門次郎に言った。                   

 円念の語るところにれば、実成は備前の国司が朱雀天皇(930〜946)の御代に自分に仕える女に生ませた庶子であり、幼くして母を失い寺に預けられたが、やがて刀鍛冶に弟子入りして名工になったというのである。現在長船村で名工として売りだし中の景光は円念と母方の縁続きであるという。  「そうだ、それは良い考えかもしれない。早速景光を呼んで呉れ」    「心得ました」                           



2005年05月28日(土) 水蜜桃綺談3

 福山寺の生活にも慣れてきたある日、円念の剣術の稽古を傍らで見ていた虎丸は、自分にも剣術を教えてくれと頼みこんだ。
「虎丸よ。何故剣術を習いたい」                   「敵をやっつけるためです」                     「お前の敵とは誰のことだね」                    「私に危害を加えようとする者すべてです」              「例えば誰だ」
「幸山城の太郎太」                         

「お前の兄ではないか」                       「兄であっても私に危害を加えれば敵です」              「刀は何のためにある」                       「人を切るためです」                        「何故人を切らねばならない」                    「切らなければ自分が切られるからです」               「それはそうじゃ。だがのう、人を切らなくてすめば、刀はいらなくなるとは思わないか」
「人の心に支配欲、征服欲のある限り刀は人を切るためにあるのではないでしょうか」
「わしは人の心から支配欲、征服欲を無くすことができると思っているのじゃが」
「それはどのようにしてですか」                   「人が皆、仏のみ心にお縋りして信心し、修業を積むことじゃ」     

「人が皆、信仰に生きる世が実現して、人の世に争いや戦が無くなれば刀は要らなくなるのでしょうか」                     「人を切る目的の刀は無くなるであろうが、刀そのものは無くならない」 

「何故ですか」                           「もともと刀の前は剣(つるぎ)と呼ばれた両刃であった。剣は突くための武器であって切るための武器ではなかった。そのうち剣を片刃にして切る目的で作られたのが刀なのじゃ。刀が剣に変わって多く使われるようになると、剣は祭りごとだけに使われるようになったのじゃ。同じように争いが無くなっても、刀は祭りごとのために残るであろうし、美術品として残るだろうと思うのじゃ」
「刀が鑑賞のためだけにつかわれるような世がくるといいでしょうね」  

「そのためにも仏のお慈悲を広めなければならない」          



2005年05月27日(金) 水蜜桃綺談2

 荘氏は備前山手村の幸山に館を築いていたが、居館とはいえ山の上にあり、土地の者は幸山城と呼んでいた。その幸山城の近くに福山があり、海抜300mの山頂には12の坊を持つ福山寺があった。福山寺の開山は不明であるが、天平年中(729〜748)に報恩大師が建立したと伝えられている。聖武天皇の詔(741)により備中総社村に国分寺が建立され、金光明最勝王経と妙法蓮華経が安置された時期とほぼ同時代である。国分寺は鎮護国家・消災致福を祈って発願された官寺であり、律令制国家の手厚い保護を受け、近隣の村人達の崇拝を得て繁栄した。

 福山寺も創建当初は、国分寺同様近隣の山手村、清音村の村人達の参詣で賑わっていたが、源平合戦の頃から次第に荒れ初め、荘一族がこの地へ移住してきた頃には、法灯も消えかねない程度の荒れようであった。                       
 そもそも、荘氏がこの地へ源頼朝の代官として武蔵の国より移住してきたのは140年余前に遡る。荘氏の祖太郎家長が建久3年(1192年)一の谷の合戦で平重衡卿を生け捕りし、その功により恩賞として備中四庄を源頼朝より賜ったからである。

 太郎家長は神仏に対する尊崇の念篤く荒れ放題になっていた福山寺を修復し、氏寺として保護を与えたので、創建当時の殷賑を取り戻した。また荘一族は備中四庄(下道庄、浅口庄、窪屋庄、都宇庄)の経営に力を注ぎ新田を開発してその領地を広げた。     
 当時の家督相続は、鎌倉時代に行われていた所領の分割相続から嫡子単独相続へと次第に移行していた。このため兄弟間で相続争いが頻発するようになっていた。特に腹違いの兄弟どうしの争いが多かった。

そこで虎丸の父荘左衞門次郎は嫡子と庶子の間で相続争いが生じるのを防ぐために、虎丸を七才のとき、福山寺の僧円念に預けた。当時の氏寺の大半がそうであったように、福山寺でも寺僧は氏人から選ばれることが多く、僧円念も荘一族の氏人であった。

円念の境遇は虎丸に似ていた。円念も荘一族の氏人ではあったが、庶子であり多数の嫡出の兄弟の中にあって、疎んじられながら肩身の狭い思いをして成育したのである。円念は備前岡山の真言宗福輪寺で修業を積んだ後、その侠気を荘左衞門に買われて福山寺の寺侍の元締に補されていた。福輪寺は日蓮宗の布教のため備前に入っていた大覚大僧正が備前津島で辻説法をしていたとき、当時の福輪寺の座主良遊が大覚に宗論を挑み論破され、一山ともに改宗して後、妙善寺と改名した名刹である。      

 虎丸を預けられた時、円念は35才であったが、境遇の似ている虎丸をこよなく可愛がった。円念は出家とはいえ、寺侍達を取り仕切っていたから、剣術の腕は相当なものであった。                                   



2005年05月26日(木) 水蜜桃綺談1

水蜜桃綺談1

 正慶2年(1333年)5月21日、鎌倉幕府14代執権であった得宗の北条高時が天皇方の坂東武者新田義貞らとの鎌倉攻防戦に敗れ、東勝寺で自刃した。従う北条家恩顧の御家人数百人も得宗の後を追い鎌倉幕府は名実ともに滅亡した。

 建武2年、中先代の乱(1335年、高時の遺子時行が、北条氏の再興をめざし建武新政府に背いた兵乱)の討伐に東下した足利尊氏が、新田義貞誅伐を奉上して叛乱に転じ、建武3年(1336年)正月京都に入った。

 大江田氏経は19才の若武者であったが、脇屋義助(新田義貞の弟)の配下として天皇方につき、箱根をはじめ各地で謀叛した足利尊氏の軍勢と戦った。
 
 建武3年2月10日から2月11日の二日間にわたる摂津打出・西宮浜・豊島河原の戦で天皇方の北畠顕家に敗れた足利尊氏は翌2月12日夜陰に乗じて兵庫の港から海路九州へ逃げた。大江田氏経は新田義貞軍の先鋒隊として陸路、取り残された足利尊氏軍を攻めたて、備前船坂(三石)まで追い詰め大勝した。

「長船村の垂光を呼んでくれ」兵達に食事をとらせた後、大勝に機嫌を良くした大江田氏経は言った。京都を発つとき集めた兵糧運搬の人足達のなかに備前長船村へ帰りたいという刀鍛冶がいることを思いだしたのである。

「お呼びでございますか」と鳥帽子を被り筒袖を着て括り袴に脚半を巻いた旅支度の若い男が畏まった。

「備前長船はここからいくらもないであろう。お主はこれから師匠の許へ帰るところであったな」

「はい。左様でございます。京からの道中お蔭様を持ちまして恙なくここまで帰ってくることが出来ました。これも一重に大江田様の軍勢の中に加えて頂けたお蔭でございますどうもありがとうございました」と垂光と呼ばれた若い男が言った。

「お主と知り合ったのもなにかの縁。お主の鍛えた刀が欲しい。長船へ帰ったら一振り鍛えては呉れまいか」

「有り難いことでございます。垂光帰省後の初仕事でございます。心魂込めて鍛えさせていただきます」

「我等は備中福山城を必ず攻め落とすから出来あがったら、福山城へ届けて呉れ」
「はい。福山城は私が幼い頃修業したことのあるお寺でございますのでお易い御用でございます」
「そうか。それはまた奇縁じゃのう」三石城に入って兵の疲れを癒したのち、大江田氏経は勢いに乗って更に進軍して備中の豪族荘常陸兼祐が拠る備中福山城を窺っていた。



2005年05月25日(水) ドブロブニク城砦内の古い屋根瓦

4月20日(水)
  ドブロブニク城砦の壁は頑丈にできている。その壁の様子を窺い知るのに都合のよいアングルがあったので撮影したのがこの写真である。城壁の上に歩廊があるのがよく判る。

今日の箴言
・閉鎖された空間では外界との情報が閉ざされるから、閉鎖空間内に居住する者相互の団結心は強固になるが、一旦猜疑心が芽生えだすと団結は脆く崩れてしまうという特性を持つものだ。










4月20日(水)
 人の集まる所には必ず、猫と鳩も住みつくものである。オレンジ色の屋根の上を黒い猫がゆったりと散策している姿を認め慌ててカメラを取り出し撮影したらうまく姿を捉えていた。左側の写真。
 正午過ぎになると城砦内の鳩が一斉に集まり餌付けの餌を待つことを現地ガイドはハプニングと表現した。写真右側の鳩の群れはハプニングの鳩ではなく観光客がばらまく餌に集まってきた鳩達である。

 今日の箴言
・古来、猫、犬、鳩は人の集まるところには必ず集まってきて、人間と共棲してきた古い友人である。














4月20日(水)
 ドブロブニク城砦内の民家にはとても古い建物がある。
1991年の内戦の時の空爆の被害を免れて生き残った建物の屋根瓦には年数を経た貫祿がある。

写真に示すものは左右ともこの城砦創建当時の瓦ではないかと思わせる程の古さであり、眺めていると見飽きない味がある。












今日の俳句

・年ふりて 味ある甍に 春日映え


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2005年05月24日(火) ドブロブニク城砦都市補遺

 ドブロブニク市の印象は強烈であった。一通り写真を主体に書き綴ってきたが、なお写真として残しておきたいものが何点かある。それを暫く書き綴っていきたい。

 1991年のユーゴースラビアからの独立に際しての内戦ではここ旧市街地も戦火に見舞われた。爆撃も受けた。内戦後10有余年を経てもう戦火の爪痕は顕著にはみられないが、それでも復旧できないほどに破壊された建物がそのまま放置されている姿を散見する。そんな写真の一枚が下に示すものである。写真をクリックすると拡大します。

doblobnicsenka

 ドブロブニクは城砦都市であることは何回も書いた。その城砦の壁を紹介しよう。
 写真は城砦の隔壁の上から撮影したものである。左側が城の外で右側が城の中である。このような頑丈な隔壁で城は外界から遮断されていた。

写真をクリックすると別窓に拡大画像

dobrobnickabe

今日の箴言


・自己完結型の城砦都市は産業革命に取り残され、一時寂れたがその古き生活形態を墨守したが故に情報化時代を迎え観光地として見事に蘇った。


 城砦の壁は頑丈に出来ている。
写真左は断崖絶壁に建つ隔壁。隔壁の左側に市街がある。
写真右は城砦内の路地風景。写真をクリックすると別窓に拡大写真

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今日の俳句

・絶壁を 叩く波音 春寒し

4月20日(水)
 ドブロブニクの城砦の城壁を約一時間半かけて一周した。この散策はいろんなことを考えさせてくれた。とても有意義な時間であった。

 民族、宗教、人種、生活習慣それぞれに異なり、相争う戦乱の世界において、生活信条を同じくする人達が団結して纏まっていくためにはこのような城砦が必要だったのかとの思いが強い。

 写真は城砦の城壁の歩廊の点景である。

 写真をクリックで拡大画像

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今日の俳句

・城壁で 分かつ内外 春の風

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4月20日(水)
 ドブロブニク城砦の城壁を一周ゆっくりと散策した時撮影した街並みである。
 
 オレンジ色の瓦が美しい。遠くに見える島はアドリア海に浮かぶロクルム島である。













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ドブロブニクの城砦の城壁を散策していると防備のための大砲がところと゜ころに今も誇らしげに展示されている。今は使い物にならない旧式の武器であるが、国を守る、城を守るという住民の意気込みが窺える。国を守る気概をなくした祖国日本国民の精神のありようを深刻に考えさせられた。
















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2005年05月23日(月) クロアチアの宝、ドブロブニク城砦都市

4月19日(火)
 夕刻ドブロブニク市へ到着した。この市は複雑な地形をしている。観光案内所で入手した地図を掲載しておこう。









 写真左はドブロブニク市の全体図である。この図の右手下方に茶色く色のついている箇所が旧市街地で町全体が城郭都市になっていて町全体がユネスコの世界遺産に登録されている素晴らしい景観の保存されている地区である。
 写真右は旧市街の見取り図である。

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4月19日(火)

 ドブロブニクにチトー大橋というのがあり、ドブロブニク市の名物の一つになっている。ユーゴースラビアの元大統領の名前を取って付けられた。既述の地図の左手上方にかかっている橋が写真の橋である。


















チトーにはクロアチア人とスロベニア人の血が流れている。西洋史辞典・・東京創元社刊・・によればチトーは次のような人物である。



1892-1980 本名Josip Broz ユーゴースラビア大統領、共産主義者同盟議長、連邦幹部会議長、元帥、第一次世界大戦に従事し、ロシア軍の捕虜生活を経て20年に帰国して共産党に入党。革命運動により数次にわたり投獄されたが、1935-36年にはモスクワに亡命。37年ユーゴースラビア共産党書記長に選出され、第二次世界大戦中は対ドイツパルチザン闘争を指導、43年国民解放臨時政府首席となり、45年以降首相、軍最高司令官、国防相を兼務し、46年人民共和国成立後、53年大統領に就任。47年にベオグラードを本部に結成されたコミンフォルムで指導的役割を演じたが、その民族主義的傾向からスターリンと対立してコミンフォルムから追放、それ以降は非同盟・積極的中立主義の立場で自由世界とも接近し、スターリン死後は対ソ関係の正常化にも努め、社会主義運動と第三世界に大きな影響力を発揮した。国内の民族的調和も進めた。


4月20日(水)


 ドブロブニクの旧市街を散策した。頑丈な城壁で囲まれた市街地は中世の面影をそっくりそのまま現在に伝えている。典型的な城郭都市である。














 写真は旧市街地への入り口近くの画像である。

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4月20日(水)


 ドブロブニク旧市街の城郭内の街並みを城壁の上から撮影した。オレンジ色の屋根が並んでいて昔のままの佇まいを今に留めている。城郭内全体が世界遺産である。




















4月19日(水)
ドブロブニク旧市街内を散策した。写真に示すのは旧市街での点景である。















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4月20日(水)
 城郭内の総監の館を見学した。
















 写真上の左右は何れも総監の館の一階広間である。
 写真下左は総監の胸像、右は総監の館を出たところである。

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4月20日(水)
 午前中、旧市街を見学し且つ散策した後、城壁の上を一周した。
写真上左は城壁登り口近く。写真上右は城壁の見張り台。写真下は城壁から見た旧市街の点景である。



















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4月21日(木)
 ベニス訪問から始まった今回の10日間の旅も終焉に近づいた。ドブロブニクのホテルを正午に発って空港に向かった。空港へ赴く途中見晴らしの良い場所でドブロブニクの市街を展望した。
 遠景にドブロブニクの立地状況がよく判る。そして手前の原にはエニシダが今を盛りに咲き誇っていた。今回の旅ではドブロブニク訪問が一番印象に残るであろう。

4月21日(木)
 ベニス訪問から始まった今回の10日間の旅も終焉に近づいた。ドブロブニクのホテルを正午に発って空港に向かった。空港へ赴く途中見晴らしの良い場所でドブロブニクの市街を展望した。
 遠景にドブロブニクの立地状況がよく判る。そして手前の原にはエニシダが今を盛りに咲き誇っていた。今回の旅ではドブロブニク訪問が一番印象に残るであろう。



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2005年05月22日(日) スプリット、ローマ遺跡、ボスニア・ヘルツェゴビナ

4月19日(火)
 スプリットの近郊にサロナ市というのがあり、ここにローマ時代の水道橋が残されている。スプリットからトロギールへ赴く途中、バスの車窓から瞬間的にこの橋を撮影するのに成功した。サロナ市は皇帝ディオクレティアヌスの出身地であるからこの辺りにはローマ時代の遺跡があちこちに残されている。

今日の俳句

・春草や 水道橋に ローマ見る  








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4月19日(火)
 スプリットからトロギールへ赴く途中サロナ市でローマ時代の遺跡である、円形劇場を見学した。アンフィーシアターと呼ばれている。最近公開されたばかりの遺跡で、日本人観光客としては我々が一番乗りであろうと添乗員は言っていた。未だ発掘作業が続けられていた。

今日の俳句

・初物の ローマ遺跡に 春の風













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 スプリットはクロアチアのリゾート地であり、漁師町でもある。この町で宿泊したが街中は駆け抜けるだけであった。それでも朝出発までの間、しばし散歩していくつかの光景をカメラに収めた。

 写真左は港の風景、写真右は釣り人が用意していた餌のゴカイ。

 今日の俳句

・釣り人の 離合集散 「ごかい」知る












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 スプリットには城郭に囲まれた旧市街が昔の面影を留めて現存する。朝ホテルの周辺を散歩してみた。リゾート地のこの町のヨットハーバーには沢山のヨットが係留されていた。教会も沢山あるようだが、写真の教会の名前は判らない。

今日の俳句

・春風を はらんで帰る ヨット基地











4月19日(火)


 スプリットからドブロクニクへ長駆227�劼鬟疋薀ぅ屬療喘罅▲椒好縫◆Ε悒襯張Д乾咼蔑瞭發脳�休止した。

 地図からも判るようにクロアチアは海岸線に沿って細長い国である。紫色が国境線であるが、ドブロクニクはボスニア・ヘルツェゴビナ領によって母国本体から分断された飛び地になっている。


 このボスニア・ヘルツェゴビナを通過するためには入国と出国の手続きを検問所で行わなければならない。

 運転手がガソリンを補給するためにこの地で小休止したのには訳があった。物価が非常に安いのである。我々もガソリンスタンドに併設されたディスカウント・ショップで買い物をしたが、クロアチア国内よりも二割から三割値段が安いことを知った。

 国の経済力の格差が物価に如実に現れていることを実感した。








2005年05月21日(土) シベニック、トロギール

4月18日(月)

シベニックのヤコブ教会を訪問した。セメントを使用しないで単純な石の積み上げ技術でアーチ構造を随所に使っている。特に石の屋根が素晴らしい。世界文化遺産に登録されている逸品である。内部の装飾もまた一見に値する。














シベニックのヤコブ大聖堂についての解説



今日の箴言

・石の文化遺産は時空を越えて後世に伝わる。それに反して鉄の文化は伝わりにくい。酸化という化学現象に耐えられないからである。

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 シベニックの街中を散策した。外国からの観光客が多い街だがやはり初老の人達が多い。














今日の俳句

・春光を 浴びて歳も 若くなり

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4月19日(火)
 朝スプリットの宿を出発してトロギールへ向かった。ここにはローマ皇帝ディアクレティアヌスが晩年を過ごした宮殿がある。このトロギールは島になっていて島全体が城砦になっている。



 写真左はトロギール観光協会のパンフレットから援用したトロギール市の俯瞰写真である。街全体が島になっている様子がよく判る。
 
 写真下はトロギール市への入り口の橋で自家製の野菜や花を売っていた老婦人である。


















今日の俳句

・春の花 ひさぐ婦人の 皺渋し

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  トロギールはローマ皇帝ディオクレティアヌス(284〜305在位)が晩年の宮殿を営んだ土地である。

ディオクレティアヌスはダルマチィアのサロナで生まれた解放奴隷の子であった。軍人としての優れた手腕により執政官に就任、ヌメリアヌス帝の死後皇帝に選出された。活動的、精力的で知性あふれる支配者であった。彼の下で皇帝権は絶対化しローマは元首政治から専制君主政治へと移行した。

  彼は政争で暗殺されることを最も虞れ、安住の終の住処をこの地に求めたと言われている。


 写真上左・・ディオクレティアヌス宮殿復元図
 写真上右・・ディオクレティアヌス宮殿の一部
 写真下左・・宮殿内部の天井
 写真下右・・ディオクレティアヌス帝の胸像

 今日の俳句

・権勢も 今は遺跡 肌寒し

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 トロギールの城郭内を散策した。点景の写真を四葉掲載しておこう。



写真上左は ディオクレティアヌス宮殿近くのレストラン

写真上右は城郭内の路地風景

写真下左はある教会の塔

写真下右は体重測定の商売。体重を計る商売が現存することに驚いた。

今日の箴言

・時代の急速な変化、技術革新に背を向けて昔ながらの生活を続
けることも一つの見識である。

 トロギールの城郭内を散策していたら、ここにもやはり紅灯の巷というものがあって、賑やかな声の聞こえるバーがあった。覗いてみると酔漢がこちらを向いたのでカメラを向けるとポーズを作ってくれた。



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2005年05月20日(金) クロアチアの魅力あるリゾート地ザダール

4月18日(月)

 プリトヴィツェ湖に別れを告げ、港町ザダールへ立ち寄った。ここは漁業の盛んな町であるが、欧米の人々のリゾート地にもなっている。


写真はザダールの町へ入る手前でバスの中から撮影したものである。左側前方の町がザダールである。

 昔栄えたが産業革命に取り残されて、一時衰退した城郭都市であっても、文化遺産をかたくなまでに保護したお蔭で今観光ブームに沸き返っている都市が欧州には多い。


 中世の名残の残る街中を暫し散策した。
 写真はザダールの街の全景を観光協会のパンフレットから転載したものであるが、写真下辺の岸壁には珍しい仕掛けがしてあった。






















波の動きをパイプに取り込んで天然の音楽を創出しようという試みである。世界でも初めての試みで、岸壁に立つと得も言われぬ妙なる波動のメロディーが流れてきて観光客を驚かせる。この施設はつい最近完成したばかりであった。



 ザダールの町にはローマ時代の遺跡も残されていて、アドリア海沿岸の諸都市の中でも歴史が古い。
 
 市の岸壁のところに最近できた波動を音楽に変換する施設が2005年に完成したことを記したザダール市の市章。この上に乗って波動音楽を聞くと一番音響効果がいいと言われている。市章には次のような文言がクロアチア語で書かれている。

GRD ZADAR 2005 MORSKE ORGULJE

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 歴史の古い町ザダールは散策するのに楽しい町である。こじんまりと纏まっているところがいい。ヨーロッパの城郭都市というのはあちらこちらにあるが、アドリア海沿いのこの町の雰囲気はとてもよく旅情をそそって尽きないものがある。



写真は市の観光協会が発行しているパンフレットからザダール市街の街並みを俯瞰したものを転用した。

 ザダールはショートステイしてゆっくりと過ごしてみたい魅力ある街である。

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ダルマチア地方で一番大きな教会がこのアナスタシア聖堂である。時の流れの中でいろいろと洋式も変化してきたが、現在のこの洋式はロマネスクを代表するものである。



 ヨーロッパの教会建設は完成するまでに随分と時間がかかっているものが多い。百年以上かけて建設されたものもそう珍しくはない。時の流れの中で様式も次々と変わっていく。

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 ザダールの街は歴史が古いから、ローマ遺跡も残されており、遺跡の中は子供達の格好の遊び場となっている。

 写真はシモン教会前のローマ遺跡


・春の日に 遺跡に遊ぶ 子供達


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ザダールは漁師町であるとともにリゾート地でもある。写真はthe church of st.Donatで周辺地域を散策すると昔の面影が随所に見かけられる。

しかし、1991年のユーゴースラビアからの独立戦争ではこの町も内乱に巻き込まれ、民家のあちこちに銃弾が打ち込まれた。内乱が収まり10数年が経過し、今では戦火の爪痕は見つからない。しかし、注意してみると補修されないままになっている小さな弾痕の跡を見つけることができる。

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 外見は内戦があったことを忘れさせるような町の佇まいである。激しく壊された家屋は補修されて綺麗になっている。しかし、小さな弾痕は補修されることもなくそのまま残されている民家が散在する。



 ガイドに説明されてそれと気がついた小さな弾痕の写真である。




















プリトヴィツェ湖を朝出発してバスで長駆約2時間半かけて港街ザダールへ到着した。港を散策しているとき、漁船が獲物の鰯を水揚げしているところへ出くわした。




 この港街の波止場には波のエネルギーを利用して波動を自然の音楽に作り変える珍しい装置があった。この装置は世界初めてのもので最近完成してお披露目があったばかりだという。1週間前のことだという。

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2005年05月18日(水) クロアチア、プリトヴィッツェ湖群国立公園

4月17日(日)
 朝、オパティアの町を出発してプリトヴィッツェ湖へ229�劼離丱好疋薀ぅ屬任△襦�正午近くに到着した。

 プリトヴィツェ湖群国立公園のロケーションを同公園のパンフレット掲載の地図を抜き出して掲示しておくことにしよう。












 








プリトヴィツェ湖国立公園の滝は随所にあり、天然の造形美を求めて世界中から観光客が訪れる。湖畔を約一時間かけて散策した。自然の美しさに見せられた至福のひとときであった。























 公園入り口に到着し看板にでていた見取り図を撮影した。


この湖群は自然の環境がよく保護保全されている。










 走行中、窓の外にはチェリーの白い花や連翹の黄色い花が咲き乱れ木々の緑は若々しく萌えさかっていた。まさに春爛漫の景色であった。

 
 午後プリトウ゜ィツェ湖の湖畔を散策した。至る所に滝が流れており、雪解け水が清冷な流れをつくり、晴天に恵まれて滝の水しぶきの上に虹がでていた。



 プリトヴィッツェ湖は丁度雪解け水が流れ込む時期で随所に滝が見られた。そして晴天に恵まれ鏡のやように静謐な水面は色彩鮮やかに観光客の目を楽しませてくれた。

プリトヴィツエ湖はユネスコの世界遺産に登録されているだけあって美しい自然がそのままの姿で残されており、静謐な時間が流れている。折から雪解け水が豊富に湖へ流れこんでおり、大小の滝が至るところに見られた。湖畔を巡って遊歩道が作られており、観光客は世俗を忘れてしばし、寛ぐことができる。写真は遊歩道から撮影したものである。この清冷な流れの中で生育している植物があった。名前は判らない。



 このように清らかな流れであれば、山葵がよく育つのではないかと思った。この思いつきは飛躍して日本の山葵の栽培技術を指導して山葵栽培をし、湖から採れる魚で寿司を作るという事業も成り立つのではないかなどと夢想していた。


 プリトヴィツェ国立公園へ到着して昼食を摂ったのだが、食堂へ入ったとき目に入ったのが、子豚を串に刺して丸焼きにしている情景であった。人間はその種が異なれば残酷な行為でも平然とまた当然のことのようにして行動するものだ。お釈迦様は動物や昆虫を人間が平然として殺すのに無情を感じて求道の生活に入ったと教えられたが、凡人にはお釈迦さんの境地には近づくことができない。


外国の観光客はビッフェ方式で食事をしていた。我々の食事のメインディッシュは生ハムであった。 

 この公園には世界各国から観光客が訪れる。一晩宿泊したホテルの写真も掲載しておくことにしよう。








2005年05月17日(火) プーラの円形劇場

4月16日(土)
 オパティアの宿を朝出発してプーラへ向かった。ここにはローマ時代の遺跡が残されている。円形劇場である。今でも音響効果のよいこの劇場でコンサートが開かれるという。

写真上は劇場内部。椅子が並べられてコンサートの準備が行われていた。
写真下は劇場の外側から。近くにはビルが建ち並び劇場の全景を撮影することは出来なかった。













 円形劇場の中に博物館がある。
 写真上はローマ時代の難波船に積み込まれていた葡萄酒用の壺である。
 写真下は円形劇場の側の広場である。この日は土曜日ということもあって、市の催し物に警察の楽団が演奏をしていて大変賑やかであった。












 二泊したオパティアの街はリゾート地であるとともに造船の街でもあり、又漁業の街でもある。

 写真上はヨットハーバー
 写真下は造船所
















 オパティアの街を後にして次なる訪問地プリトヴィッツェ湖群国立公園に向かった。展望のよい所でオパティアの街を俯瞰した。実に美しい街であった。


 オパティアを朝出発して長駆229�劼鬟丱垢納,覆詭榲�地プリトヴィッツェ湖へ向けて出発した。途中瞥見した湾の写真を掲載しよう。地名は判らないが、このような光景はクロアチアの海岸線ではよく見られる。



 プリトヴィッツェ湖へ至る緑豊かな平野の中に廃墟と化した民家を何軒も実見した。1991年クロアチアが旧ユーゴースラビアから独立するに際して勃発した内乱は田舎の村にまで戦火が及んだ。

写真で示したのはセルビア人がクロアチアから追われて廃墟となったセルビア人の旧民家である。
 撮影することができなかったが、クロアチアの野原には地雷が沢山敷設され、未だに撤去されない箇所が何ケ所も残っていて「地雷あり危険」という警告の看板があちらこちらに建っていた。

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2005年05月16日(月) ポストイナ鍾乳洞とプレッド・ヤムスキー城

4月15日(金)
スロベニアの首都リュブリャーナの南西約48�劼里箸海蹐縫好蹐戰縫△任郎任眥垢ぅ櫂好肇ぅ幣疇�洞がある。全長20�劼傍擇崔浪柴擦�発見されている。入り口から約2�劼魏�色いトロッコ電車に乗って進み終着駅でおりる。そこからはよく整備された観光コースを約1�凖綿發埜�学することになる。



周囲に繰り広げられる天然の造形美にはしばしば感嘆の声が発せられる。



この鍾乳洞の中にはここでしか見られない、4本の手足を持った類人魚が棲息している。










錬金術虎の巻





4月15日(金) プレッド・ヤムスキー城へ行った。この城は15世紀に作られた城である。戦乱の絶えなかった中世に敵からの攻撃に遇わないよう隠れ砦として鍾乳洞の中に作られたものである。時の流れ世代の交替の中で洞窟から外界へ次第に増築されて現在の形になったものである。



 写真に見える建物の奥には幾つもの洞窟があり、カルスト台地の鍾乳洞であったが、城として利用された頃には既に死んだ鍾乳洞となり、単なる洞窟になっていたものと推定されている。



 この城の中を見学中に豪雨があったが、通り雨で幸い濡れることはなかった。


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 プレッド・ヤムスキー城への入り口近くの畠に咲いていた花をカメラに収めておいたが、その名前が判らない。



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 プレッド・ヤムスキー城の見学を終え、再びポストイナ鍾乳洞周辺のレストランまで戻り昼食を摂った。その時居合わせたスロベニアの高校生達のグループが賑やかに喋っていた。カメラを向けると誰かの合図で一斉にこちらを向きポーズをとってくれた。





2005年05月13日(金) アルプスの瞳ブレッド湖

4月14日(木)
 午後からリュブリャーナの北西に位置するブレッド湖を訪問した。アルプスの瞳との愛称のあるこの湖は鏡のように静かな水面と背後に控える雪を抱いた山々はどこまでも清冷でゆったりと時間が流れていた。

 
 写真上はユリアン・アルプスの山々。
 写真下は湖に浮かぶ小島ブレッド島に建つマリア教会









 ブレッド湖の畔の断崖の上にブレッド城という小さな砦がある。ロケーションはギリシャのメテオラの修道院を偲ばせるものがある。そのブレッド城への入り口には日本の寺院によく見られる光景があった。侘、さびの世界とでも言えようか。苔の状態が懐かしくカメラに収めておいた。
























 先程まで入場していたブレッド城を湖の上に浮かべた手漕ぎ舟の中から眺めた。断崖絶壁の上に建っているのがブレッド島で右手の教会がブレッド島にある小島の中のマリア教会である。今乗っている舟はブレッド島へ向かっている。
 その時シングルスカルを漕いでいる漕手を発見した。ボートをここで漕いでみたいという気持ちがむらむらと沸き上がってきたのを思い出す。


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 ブレッド湖で小舟に乗ってブレッド島へ渡った。我々の乗った舟の船頭は二本の櫂を巧みに操って静かに湖面を滑っていった。
同行のパートナーは別の舟であった。途中お互いの舟影を見つけエールを交換した。舟から眺める雪山やお城もなかなか乙なものであった。


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 ブレッド島のマリア教会へ参詣した。礼拝堂に天井から一本のロープが吊り下がっていた。このロープを握って下の方へ引っ張ると鐘がなる仕掛けであった。
 訪問の記念に力一杯鐘の音を轟かせた。



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2005年05月12日(木) スロベニアの首都リュブリャーナ続き

4月14日(木)
 リブリャーナの中心部にあるのがプレシェレン広場。広場から旧市街へと続く。三本橋の側には19世紀の詩人フランツ・プレシェレンの銅像が建っている。この像も排気ガスの影響を受けてブロンズが薄汚く汚れていた。

 「日が昇る所、争いはこの世から消え、誰も自由な同胞となり・・・」はこの詩人の有名な作詩の一節であるが、この詩は1991年の独立戦争後、スロベニア国歌にとり入れられた。


 写真左はプレシェレン像。右の写真はリュブリャッツ川にかかる三本橋。




 リュブリャーナ市内の繁華街を暫し散策した。朝早くから開かれている市場ももうまもなく閉店という時間に見学することができた。

 近郊の農家の主婦達が取り立ての野菜類を並べて商っているが、野菜の他にも各種各様の日常生活用雑貨類も並べられていて品数も豊富であった。自由主義社会の生活を市民達が謳歌している様子を感じることができた。
 又川沿いのカフェには午後2時を過ぎたというのに市民達がコーヒーを飲みながら楽しそうに談笑していた。























 ニコライ大聖堂へ参詣した。世界遺産に登録されている。内部の装飾は金張りで豪華絢爛の一語につきる。
















 この教会ではたまたま二組の結婚式が行われているところで神前で牧師が新郎神父に祝辞を授けている場面に出会った。
 また運良く二組の新郎新婦を並べて撮影する幸運にも恵まれた。新婦の衣装はスロベニアの伝統的な結婚式の時だけに用いるものだという。 



リュブリャーナ市内に昔の錨が飾られていた。

リュブリャーナで泊まったMホテルの近くに桜と連翹の花が咲いていた。この旅行中、桜、連翹、えにしだ、藤、蒲公英など日本でなじみの花や柳をあちらこちらで観察することができた。









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2005年05月11日(水) スロベニアの首都リュブリャーナ

4月14日(木)
 スロベニアの首都リュブリャーナ市内を午前中見学した。リュブリャーナ城、聖ニコライ大聖堂、市庁舎、プレシェーレン広場、三本橋等を駆け足で廻り午後からは世界遺産のブレッド湖へ向かうことになる。

写真の上はリュブリャーナ市内の街並み、下は昼下がりの繁華街の川沿いの遊歩道。
























 リブリャーナ城から市内を展望した。中世の街の面影が残っている。

 下の写真の右側に見えている塔が聖ニコライ大聖堂でここには先日亡くなったローマ法王ヨハネ二世も来られたことがあり、ミサが行われた。スロベニアは殆どの国民がカソリック信者である。






















 リブリャーナ城を見学した。この城は現在市民の憩いの場として催し物等が開かれる。


 写真の上は入り口近くで城を撮影したもの。
 下の写真は城の内部に咲いていた花、桜に似て非なる花。チェリーだという人もあれば胡桃だという人もいた。

























 リブリャーナ城の内部では催し物が行われるらしく椅子が並べられていた。



 また入り口近くで子供達が珍しそうに集まってきたので写真を撮らせて貰った。
























お城の周辺は木立が美しく市民の憩いの場になっている。
上の写真はお城の入り口に至る並木道で緑の芽吹き時であった。




下の写真は農民一揆の記念像で像の台座には1473.1478.1515.1573.1713と西暦年号が刻ざまれていた。大規模な農民一揆の発生した年である。

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2005年05月10日(火) 水の都ベニス

4月13日 水上タクシーから対岸のベニスの街を眺めていると次々に、ルネッサンス時代に反映した商都の街並みが観察できて面白い。ベニス空港近くで飛行機が着陸体制に入ったとき、窓下に観察したベニス近郊はあたかも洪水のあとではないかと思われるほど平地には水面が光っていた。水上タクシーの中でそんなことを思い出しているとやがて、ベニスの港に到着した。そこに待ち受けていたのは色彩鮮やかな衣装を並べた屋台の店であった。一挙に旅情は高まる。














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 ベニスのドゥカーレ宮殿を見学した。ここには「ため息橋」というのがある。宮殿内の裁判所で判決を受けた罪人が監獄へ送られる時に渡る橋である。もうこれ以降は浮世を見ることもあるまいとため息をつくことから名付けられたという。



 写真上はドゥカーレ宮殿入り口。多くの外国の若者が見学にきていた。
 写真下の奥の橋が【ため息橋】で運河には多数のゴンドラが観光客を乗せてひっきりなしに運行している。さすが水の都ベニスを象徴する写真である。








ドゥカーレ宮殿に続いてサンマルコ寺院を見学した。ベニスへは前にも平成13年11月に「ルネッサンスの美術鑑賞の旅」で訪問しているから二回目である。
その時はサンマルコ広場は洪水直後でまだ水浸しであった。寺院の中は床の上まで冠水していて通路には架台の上に板を渡してあったのが記憶に残っている。

今回再びサンマルコ寺院へ参詣のため入場した。水こそたまっていなかったが、不等沈下が続いていることを証明するように大聖堂の床が波うっていた。水の都ベニスは遠くない将来水没してなくなる運命にあるようだ。地下水の汲み上げ過ぎが原因だとも言われている。前回訪問の時撮影した写真と対比して掲載してみた。上の写真は前回のもので広場に水が溜まっているのがわかる。













サンマルコ寺院の解説はここをクリック

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2005年05月09日(月) ベニスへ向かう

4月13日(水)
 ようやくパリを飛び立ったエールフランス機はアルプス山脈を北から南へ越えて、アルプス山脈の南側を平行してベニスへ向けて飛んだ。窓を開けると雲海の上に頭を突き出したアルプスの山々が雪を頂いて佇立しているのをこ一時間も眺めていたであろうか。名の通った山も幾つかを眼下に見たのであろうが、あまりにも数が多くて名前なぞとても判らない。







 パリやフランクフルトからアルプス越えしてスペインやエジプトやチュニジアへ飛んだことも過去に何回かあったが、こんなに長い時間アルプスの山々を観察できたのは初めての体験であった。

 やっとベニス空港へ到着して託送荷物が出てくるのを拾って鞄をチェックすると、なんと布製の鞄のファスナーを止めるスライダーの鍵穴が破壊されて、ファスナーが開いているではないか。中に入れてあった薬袋とか洗面用具とか幾つかの小物入れのファスナーが全部開けられていた。ざっと点検してみたが無くなっているものはないようでありホットした。この時は盗まれたことに未だ気がついていなかったのだが、眼鏡サックに忍ばせていたソニー製のICボイスレコーダーが無くなっていた。ベニスの宿について荷物を点検した時、初めて盗難に気がついたのである。




 被害は筆者だけでなく、他にも四人ほど金具を止め金具を壊されて中を物色された痕跡のあった同行者がいた。この人達は鞄の破損というだけの被害で内容物を盗まれてはいなかった。バリでは乗り継ぎに三時間もあったのでこの時間帯に狙われたものであろう。もうかれこれ7〜8年前スペインを訪問した時にもフランクフルト空港でこれと同じバッグの同じ箇所を壊されて内容物を物色されたことがあったのを思いだした。この時は内容物の被害はなかったのであるが、楽しかるべき旅が入り口のところでつまづき嫌な気分が一日中抜けきれなかった。貴重品は託送荷物の中にいれないのが旅の鉄則であるが、ボイスレコーダーを安易な気持ちで忍ばせたのは間違いであった。己の迂闊さに余計に腹立たしく出鼻をくじかれた感じであった。

 空港からはクロケットという港まで迎えのバスに乗って水の都ベニスへ向かった。

 ベニスへは船でしか交通手段がない。乗り込んだ水上バスからルネッサンス時代の面影をとどめる街並みを眺めていた。高い塔の右側に僅かに見える丸いドームがサンマルコ寺院











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2005年05月08日(日) パリまでの飛行時間はいかにも長い。

 4月12日〜13日
 成田からパリまでの飛行時間は実時間で約12時間程かかる。これはいかにも長い。子供達には退屈してしまう苦難の時間である。近くに座っていたフランス人の子供達は退屈しきって、しきりに近くの乗客に愛嬌を振りまいていた。











 飛行機は13日未明4時過ぎにパリのドゴール空港へ到着し、次のベニス行きの出発まで約3時間待機することになる。

 流石に国際空港のドゴール空港もこの時間はあまり人も多くない。それでも時間待ちをしている乗客のためにコーヒーショップは営業している。









ベニス行きの出発時間までGゲートで3時間の待機である。隣のHゲートでは先日天井の屋根が崩落するという事故があった。同じ形の天井はアルミの骨材が剥き出しになっていてそれなりの機能美を示している。











ドゴール空港で約3時間の待機時間を過ごしてからベニス行きのエールフランス航空機に搭乗し、次第に明けていくパリの空を眺めていた。写真上は搭乗を開始したベニス行きの航空機、下はベニス行き航空機の窓から。空の色が随分違う。





















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2005年05月07日(土) エールフランス・パリ行き便

4月12日エールフランスの夜行便でパリのドゴール空港目指して飛び立った。パリで乗り換えベニスへ飛び陸路スロベニアの首都リブリャーナへ入る。成田からパリまでの実飛行時間は約12時間の長い空の旅である。夕食をサービスしてくれた客室乗務員は、制服が新調されたばかりだと誇らしげに語ったので請うて写真を撮影させて貰った。夕食には和食を選択した。サービス業だけあってにこやかな笑みを振りまいてくれた。



筆者のパスポートの写真












2005年05月06日(金) 成田エクスプレス

 旅程が決まり参加する旅行社が決まり、旅先の研究をしているところへ日通旅行社から緊急連絡が入った。予定していた13日朝のエールフランスのパリ行きの便が満席で座席の確保が出来ないという。従って前日夕刻の便に変更して、ベニスの観光を半日プラスすることにしたという。

 毎日が日曜日の身にとってみれば日程的には全然問題がない。ベニスを再訪できるのであればむしろ歓迎である。だが準備万端抜かりのない旅行社にもこのような不手際があるものということを初めて経験した。だが考えてみればチャランポランで有名なエールフランスのことである。多分エールフランスの不手際でダブルブッキングに気がつかなかったのが原因であろうと推測している。因みにエールフランスのダブルブッキングは過去にも北欧からの帰途経験したことがある。この時は添乗員だけが積み残しという形で帰国したのであった。

4月12日夕刻、予定より一日早く成田空港へ向けて旅の始まりである。
 成田エクスプレスは海外旅行の時の行きにはよく利用する。リムジンバスの方が料金は安いのだが、敢えて成田エクスプレスにこだわるのには二つの理由がある。

 一つはリムジンバスは交通渋滞に巻き込まれた場合、集合時間に間に合わなくなるというリスクがある。

 次に、成田エクスプレスはクレジットカードで購入することができる。マスターズのゴールド会員は年会費の中に海外旅行者損害保険が付帯でついているからであり、その適用条件として旅行に関する費用をマスターズカードで支払ったことというのがあるからである。毎年高額の年会費を払っているのだから、せめて海外旅行損害保険位は適用されるようにしておかなければならない。

 さて予め購入しておいた成田エクスプレスに乗車した。東京からの乗車であったが、筆者の乗り込んだ車両は半分が空席であった。こんなことは初めてであった。夜出発という海外旅行は少ないということなのだろうか。



 何時もは成田空港では空港第二ビル駅で下車するのであるが、今回はエールフランス機ということもあって成田空港駅までの乗車である。成田空港駅で下車してまた驚いた。第二ビル駅下車の場合と比較して空港の出発ターミナルに居る乗客の数が極端に少ないのである。これも初めての体験であった。

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2005年05月05日(木) このツァーに決めた事情

 今回は日通旅行社のメニューから選択してこのツァーに参加したが、それまでの旅行社選択の過程を記しておこう。

 行きたい場所はクロアチアと決めてあったから、後は旅行社の選定だけである。そこで三者から資料を入手して比較してみた。

 三つの旅行社のホームページで比較してみると以下のようなことが判った。

 出発日     ユーラシア旅行社  2005年4月6日
            阪急トラピックス  2005年4月2日
            日通旅行      2005年4月13日
 
 旅行期間    ユーラシア旅行社  9泊12日
            阪急トラピックス  8泊10日
            日通旅行      8泊10日
 
 旅行代金   ユーラシア旅行   358,000円
            阪急トラピック   289,000円
            日通旅行      248,000円

  ユーラシア旅行社は一泊二日旅程が長いが、日通旅行と比べると10万円の差がでている し阪急トラピックとも49,000円の差がある。

 確かにユーラシア旅行社では、�‥攣妻�屋へは原則として立ち寄らない。��現地では参加人員の多少にかかわらず必ず大型バスを運行させる。��オプショナルツアーは行わない。�だ睫世了�、イヤーホーンガイドを貸与し説明がよく聞こえるようにする。�ノ皇�の概要日記を帰国後郵送してくれる。�ε詐莪�が必ず旅行中一食分は日本食を携行してお客にサービスするという原則を堅持している。

このポリシーは非常に好ましいものであり、ユーラシア旅行社の旅は参加して良い思い出を残してくれる。これが他二社との値段の違いかなとも思う。

 見かけの値段は安くしておいてオプショナルツアーを組み込み、結果としては同じような値段になることもままあることではある。当然値段が違うのだから訪問先に多少のずれはでるであろうが、回数多くいろんなところへ行ってみたいと考えている旅行好きには表向きの値段が安いのは大きな魅力である。

 旅の値段とは旅の快適さと旅情の対価であるとはよく判っていても、一カ国でも沢山訪問したいと思っている筆者はためらうことなく、日通旅行を選択した。



2005年05月04日(水) スロベニア、クロアチア紀行

 暫くこの日記も更新をしなかった。去る4月12日から4月22日まで「煌きのクロアチア・スロベニア紀行10日間」というパックツァーに参加したからである。やっと落ちついてきたので毎日、この旅で見聞したことを記していくこととしよう。

注 この日記はブラウザの表示の欄で文字のサイズを大に設定してご覧下さい。





 先ず今回訪問したスロベニア、クロアチアとも旧ユーゴースロバキアの構成員であったが、1991年に始まったユーゴースラビアの崩壊によってスロバニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニア、セルビア・モンテネグロの五つの国に分かれてしまった。


今回訪問したスロベニアとクロアチアの位置は地図に示す通りである。

注 この地図は「ゆりこ」さんのHP【いつかきっと】の中の『スロベニア・クロアチア旅行記』掲載の地図をお借り致しました。


















また旅程は二つの旅程表に示した通りである。































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