前潟都窪の日記

2006年06月22日(木) ウズベキスタンの旅4・・・シャフリサブス

2006.4.27

  朝ブハラのホテルを出発してサマルカンドを目指す540�劼梁膂榮阿任△襦�キジルクム(赤い砂)を通過し、チャイハナでお茶の休憩をした。車窓には緑化しかけた砂漠に牛、羊が放牧されている。駱駝の群れがのんびりと道路を横断したりする。飽きることもなく草原を眺めながら過ごしているうちに正午にパペーダ・チムール広場に到着した。


バベーダ・チムール広場のチムール像





  ここは自由化まではレーニン・広場と呼ばれた所である。まず我々観光客の目を引きつけるのは巨大な門アク・サライ(白い宮殿)を背負うようにして佇立するチムールの立像である。

アク・サライ





アク・サライのはげ落ちたタイルを敷いた展示用の床





この地はチムールの故郷であり、1,380〜1,405年まで宮殿が営まれた所である。このアク・サライの塔の現在の高さは37mであるが盛時には57mの高さを誇っていた。塔には登ることが出来るが残念ながら脚を痛めていたので大事をとって登らなかった。

アク・サライの塔の入場口





2006年06月21日(水) トルクメニスタンの旅5・・・メルブ3

2006.4.29

 翌朝8時にはホテル・マルグーシュを出発し、一路ウズベキスタンのブハラ目指して385�劼離丱好疋薀ぅ屬任△襦�

 アブラハン・カラ(15世紀)、バイラム・カラ(18世紀)を通り越してカラクム運河の近くで休憩した。後はカラクム砂漠の風景を眺めながら終日のバス移動である。




 トルクメンアバードのレバブ・レストランで摂った昼食は米のスープ、牛タンと茸のチーズ焼き。これは美味しかった。





 乗り物に終日乗っていると運動不足になるので国境近くのアムダリア川を徒歩で渡った。橋や河の撮影は固く禁止されているので写真を示すことができない。

 国境ではトルクメニスタン側は簡単に出国できた。ウズベキスタン側の入国手続きを終えてでてきたところ、迎えのバスがきていなかった。何か手違いでもあったのではないかと情報の入らないまま、約二時間近く、入国管理所構内で無為の時間を過ごした。後で判ったことだが、ウズベキスタン側の現地ガイドがトルクメニスタンのビザを持っていないので入国管理事務所へバスを乗り入れることができなかったのだという。国境なので携帯電話も電波の規制を受けているらしく、バス備えつけの無線電話とのトランシーバーでのやりとりであったためなかなかコミュニケーションがうまくいかず、バスも無為な時間を過ごしたらしい。

 この道中でもニヤゾフ大統領の肖像画、と銅像をもう沢山といいたい程、何回も建物の壁面や検問所のゲートに見かけた。 




 
 また朝は道路を掃除する人々をあちこちで見かけた。イスラム教徒の人々は清潔好きである。そして薔薇の花が好きなようだ。





2006年06月19日(月) トルクメニスタンの旅4・・・メルブ2

2006.4.28

スルタン・カラ内のスルタン・サンジャール廟(12世紀)、エルク・カラ(BC6世紀)、グヤウル・カラ(BC6世紀)、ベニ・ハマンモスク、仏塔跡、大キズ・カラ、小キズ・カラ、ムハンマド・イブン・サイード廟(12世紀)、この廟の墓守の住居を見学してから、マリイ市のヘキシャヘールレストランでトルコ料理の昼食を摂った。豆スープ、トマトソース添えのケバブである。

スルタン・サンジャール廟





エルク・カラ





グヤウル・カラ




大キズ・カラ




小キズ・カラ




ムハンマド・イブンザイード廟




ムハンマド・イブンザイード廟の墓守の老人





 昼食後、マリイ博物館を見学した。ここにはメルブ遺跡の見取り図、出土品、トルクメン族の生活の今昔などが展示されている。

昼食のケバブ




 マリイのバザールも覗いてマリイのホテルマルグーシュに投宿した。






2006年06月17日(土) トルクメニスタンの旅3・・・メルブ

2006.4.28

 アシハバードのニサホテルを早朝5:30に出発しトルクメンバシ国際空港へ急いだ。6:55には予定より5分早くT5127便は離陸した。空港は夜が明けたばかりである。マリイ空港には7:35に到着。尿意を催しトイレットを探して駆け込むと、これが観光都市の空港かと思う程の粗末さである。










 8時には空港を出発してメルブ遺跡を目指してバスはひた走った。車窓にはカラクム運河、ザ・カスピ鉄道なども目撃することができた。

 メルブ遺跡には8:45に到着。この遺跡はBC6世紀ころから営まれ初め、最盛期は11〜12世紀であった。彷徨える遺跡という別名があるように、この遺跡にはゾロアスター教、キリスト教ネストリュウス派、イスラム教、仏教と、いくつもの世界宗教がその興亡の歴史を刻んだ所である。13世紀にはモンゴル軍が80万人の軍勢で攻め寄せこの都市を破壊し尽くしたという受難の歴史ももっている。その当時メルブ周辺一帯には130万人が生活していたという。






2006年06月16日(金) トルクメニスタンの旅2・・・ニサ、アナウ

2006.4.28

昨夜遅くトルクメンバシ空港に着き、深夜にアシハバードのニサホテルに投宿したので、今日はいつもより遅い9時半にホテルを出発して現大統領の出身地にあるキプチャク・モスクへ向かった。





 このモスクにはニヤゾフ大統領の両親と兄弟の墓がある。ニヤゾフ大統領は幼児に両親と兄弟を失い孤児になったが、類稀なる能力を認める人の援助で大学まで優秀な成績で卒業した苦学力行の人であった。肉親に対する情愛が厚く立派な廟を建てて故人の菩提を弔ったのだという。内装は豪華絢爛の一語に尽き、権力者好みの造りであった。砂漠では貴重品の水を噴水として巧みに取り入れた設計はまさに権力者の力の誇示そのものだと思いながら見た。

 ニサの遺跡は紀元前3世紀〜紀元後3世紀にかけて営まれたパルティアの初期の首都で城壁に囲われていた。




 
ニサ遺跡の方形広場




 
新ニサ市街




 

 国立博物館の一階展示室には大統領礼賛の展示物に溢れていた。受賞した勲章とか外国元首からの贈り物とか彼の著書などである。

 二階の展示室にはニサ遺跡から発掘された有名な「ニサのヴーナス」、「象牙のリュトン」、メルブの仏像と彩色の壺、民族衣装等が展示されている。

ニサのビーナス(撮影禁止なので絵はがきからの転写)




象牙のリュトン(撮影禁止なので絵はがきからの転写)





 ニサの遺跡を後にして再びアシハバードに戻り、中立広場で地震慰霊碑、黄金の大統領像、金のドームの大統領執務室、各種官庁の庁舎をバスの車窓より見学した。何故か大統領執務室の建物は撮影禁止である。

中立広場の地震被災者慰霊碑




 続いて郊外のトルクメンの名馬の飼われている厩舎を訪問した。汗血馬と呼ばれジンギスカンも欲しがったという名馬達である。アハルテケと現地語で呼ばれる名馬が約200頭保育されている。





 続いてアナウ遺跡を訪れ見学した。







2006年06月15日(木) トルクメニスタンの旅1・・・アシハバード、クフナウルゲンチ

2006.4.27

  トルクメニスタンは最近まで観光客が入れなかった国であるから今回の旅行でも楽しみな場所であった。終身大統領になったニヤゾフ大統領の専制政治が行われているが、カスピ海沿岸で産出する石油のお蔭で中央アジア五ケ国のうちでは、カザフスタンについでGNIも1,120ドルとウズベキスタン、キリギス、タジキスタンを遙に凌駕している。現実にトリキスタンの都会地では今や、高層ビルの建設ラッシュで至る所に建設用の大型クレーンが林立している。

特に首都のアシハバードは丁度東京オリンピック前の東京都内の状況と似た活気に満ちていて、建設中のビルが夥しい数である。

クレーンの林立するアシハバード市内





一方で情報統制は厳しいようで、写真撮影については充分気を配らないと撮影禁止の場所が多数あるので思わぬトラブルに巻き込まれる虞れがある。

さてウズベキスタンのヒワの観光を終えてヒワのホテルを朝8時30分に出発して陸路、国境を越えクフナ・ウルゲンチを目指す長駆250�劼離丱好疋薀ぅ屬任△襦�

綿花畑、小麦畑、草原をひた走り国境へは9時半頃到着した。出国手続きに約一時間を費やし、緩衝地帯をミニバンで移動し、トルクメニスタンの入国審査である。ガイドがくどい程に写真撮影をしないようにと注意する。たいしたトラブルもなく正午前には国境を通過し、トルクメニスタンに入国した。

国境近くのタシャウズでナディラ・レストランというところで昼食を摂った。サラダ、らぐまん、チキンとビーフのグリルであった。赤大根を好んで食べた。ここでも恒例の人参の千切りが山ほどもでていた。葱や大蒜もサラダに添えられている。 

タシャウズからクフナ・ウルゲンチまでの道中では車窓に、ガスのパイプライン、畑、驢馬の車、時として現れる砂漠を眺めながら移動する。大きな建物や検問所には必ず掲げられているニヤゾフ大統領の肖像画をいやという程見せつけられた。

現地ガイドの説明によればこの国では、ガス、水道、電気、塩は無償で国民に支給されるという。

 遺跡のある場所クフナ・ウルゲンチに到着し、最初に訪問したのはトレベクハニム廟である。





 クフナ・ウルゲンチは2005年10月にユネスコの世界遺産に登録された。13世紀のモンゴル軍の侵略、15世紀のチムールの侵入により破壊されたが、ヒワに17世紀に遷都されるまではホラズム王国の首都であった。ヒワに遷都したのは1615年頃、アムダリア川の流れが変わり水がこなくなり沙漠化したからである。

クフナ・ウルゲチでは次いでクトゥルグチムールのミナレット、スルタンテケシュ廟、クルクモッラーの丘、イル・アルスラン廟、キャラバン・サライの入り口跡、ネジメッティン・クブラー廟、スルタ・アリ廟等を見学した。

クトゥルグチムールのミナレット





スルタンテケシュ廟




クルクモッラーの丘




イル・アルスラン廟




キャラバンサライ入り口の跡




道路補修工事中のネジメッティン・クブラー廟(左)とスルタン・アリ廟(右)




再びタシャウズに戻り、深夜23時発のトルクメニスタン航空でアシハバードへ飛んだ。なにしろトルクメニスタンには航空機が七機しかなくこの航空機をやりくりしながら運行しているのでタイムテーブル通り飛ぶことは少ないようである。我々の搭乗した航空機も約一時間遅れの離陸となってしまった。



2006年06月14日(水) ウズベキスタンの旅3・・・ブハラ2

2006.4.26

ホテルで休憩し、太陽の勢いが衰え掛けた15時に再びホテルを出てブハラ最後のアミール(王)の夏の離宮を見学した。薔薇の花があちらこちらで咲き誇っていた。





シトライ・ホイ・モサのハーレム




 ポイ・カラ・コンプレックス、カラーン・モスク、カラーン・ミナレット、ミル・アラブ・メドレセ、タキ・テル・パクフルシャーン、マユギ・アッタリ・メドレセ、リャビ・ハウズと周り最後はナディル・ディバンベキ・メドレセで民族舞踊とファッション・ショーを見ながら夕食を摂った。

ポイ・カラ・コンプレックスのカラーンミナレット





ミル・アラブ・メドレセ





タキ・テル・パクフルシャーン





ナディル・ディバンベキ・メドレセで民族舞踊を見ながらくつろぐ観光客




ナディル・ディバンベキ・メドレセの民族舞踊






2006年06月13日(火) ウズベキスタンの旅2・・・ブハラ

 トルクメニスタンの観光を終えて、ブハラパレスホテルに到着したのは、夕方7時半を過ぎていて、チェックインの時間に重なったせいか観光客でごったがえしていた。初老の客が多くフランス語が飛び交っていた。部屋に荷物を置いて直ちに食堂へ急ぐとここもラッシュであった。ビュッフェ形式の夕食である。





 割り当てられた部屋は七階であったが吹き抜けになっている中庭を見下ろすとバーや休憩所の光景が面白いアングルから見えた。











 翌朝ホテルを9時に出発し、アルク城へ赴いた。ここでは、エミールのモスク、戴冠式のホール、歴史博物館、アルク城の広場、屋上からの展望、バラ・ハウズ、チシュマアイユーブ廟、イスマル・サマニ廟、サマニ公園、チャルミナルと見学した所で昼食となった。

アルク城





アルク城内部の店先





アルク内の障壁




アルクの屋上はまるで荒野




アルクの屋上から展望したブハラ市内





バラ・ハウズの舞台




チャシュマアイブ廟




イスマイル・サマニ廟





2006年06月12日(月) ウズベキスタンの旅・・・ヒワ

2006.4.26

 朝早くタシケントのパレスホテルを出発し、ヒワへ移動するため空港へ向かった。 

薄暗いタシケント空港




空港には観光客が大勢押しかけている。搭乗するための行列は先陣争いでなんとなく殺気だっている。航空機の場合、全て指定席になっているから何もあわてて搭乗する必要もないのにと日本の常識で考えていたら日本の常識の通用しない理由があった。

 搭乗券の座席指定の数字はここでは全く意味のないことであることが機内に入って判明した。つまり座席は全て自由席ということで早い者がポジションのいい座席を確保できるということなのである。

座席争奪戦の後離陸したウズベキスタン航空の機上よりタシケント市内を俯瞰





 ウズベキスタン航空のHY1051便は7時05分に離陸し、ホレズム州の州都ウルゲンチへ8時15分に到着した。

迎えのバスに乗り車窓に綿花畑、貯水池、ポプラ並木、ロバ車、トロリーバス等を眺めながらの移動は楽しい。就中、カスピ海沿岸で採掘される天然ガスを無償で供給するため、民家に配管されている光景は興味をそそった。やがてバスはヒワのホテルメドレセに到着した。

黄色い配管が各民家に施されている。




このホテルメドレセはイチャン・カラ(内城)にあり、1,853年創建の神学校である。1976年以降ホテルに転用されている。

ホテル・メドレセの入り口




神学生達が寄宿して生活していたところだからホテルに転用するのはアイデアとしては優れていると思うが二階の個室へ行くには急な狭い階段を頭上の障害物に気遣いしながら昇降したり、浴室にバスタブがなかったり、水道の水がでにくかったりと宿泊施設としての機能は充分ではない。

ホテル・メドレセの中庭




ホテル・メドレセの部屋の中とシャワー室







メドレセの中庭からも見えるカリタ・ミナール





 定められた部屋へ荷物を置いてからイチャン・カラ内の見学である。

イチャン・カラの配置図





配置図の前で説明を聞く観光客





 カリタ・ミナール、カーズイ・ハナ、クフナ・アルク、カールマルクス通り、金曜のモスク、ムハンマド・アミン・イナクの神学校、キャラバン・サライ跡のバザールと見学して、昼食は旧キャラバン・サライ内のホテル・アラカンチで摂った。

カリタ・ミナール




カーズイ・ハナはこの建物の横の狭く細い階段を下りた所にある。




カーズイ・ハナ(牢獄)の囚人の蝋人形




カール・マルクス通り・・・メインストリート




クフナ・アルクの謁見の間の舞台




 日中温度が30度近くまであがるので太陽の勢いが衰えるまで室内で休養し、16時過ぎから再びヒワの観光にでかけた。

 デシャン・カラ(外城)のヌル・ラバイ宮殿を見学してから再び内城(イチャン・カラ)に戻り、職人街を見学した。

 パフラワン・ムハド廟(13世紀)、イスラム・ホジャのモスク、タシュ・ハウリ宮殿と見て回った。

 この日の夕食はトサボーグ宮殿で摂ることになった。

 翌日は平日のため早朝は昨日の活況とはうってかわってイチャン・カラの中には観光客の姿は殆ど見られなくなっていた。

 早朝の静寂を取り戻した城内を散歩していると住民達が箒と塵取り箱を持ってせっせと観光客達が汚していった道路や広場を掃除している姿があちこちに見られた。

 8時にはホテルを出発して次なる観光地トルクメニスタンの国境目指してバスドライブである。



2006年06月11日(日) カザフスタンの旅3・・・タラス

2006.4.25
  ホテル・ジャンプールを朝出発してタラス川古戦場の遺跡を見学した後、アイシャ・ビビ廟を見学した。道中大草原をバスで疾駆すればタラス・アラトー山脈が雪を頂いた美しい姿が目を楽しませてくれた。また時折牧童達の騎乗姿も目撃でき牧歌的な光景は異国ならではでの旅情をそそるに充分である。

タラス・アラトー山脈




牧童






タラス川




サッカーの練習をしていた村の子供達




 タラス川の戦いとは東洋史辞典・東京創元社によれば以下のようなものであった。

 751年(天保10年)に唐とイスラム帝国(アッバース朝)との間に行われた戦争。唐将高仙芝はイスラム軍と中央アジアのタラス河畔で衝突したが、唐軍の大敗に終わり、それより唐の西方における勢力が後退しはじめた。タラス川は東西交通の要路で、タラス城は天山北方の重要な貿易場であった。かつて西突厥が本拠を置いて威をふるったが、唐の西域経略によりその勢力はパミール以西に及んだ。あたかも新興のアラビア人がササン朝を滅ぼして東方へ伸びた。アッバース朝の時、東西両帝国の衝突となり、この戦いが起こった。このとき捕虜となった紙漉き工から紙の製法がイスラム世界に伝わり、サマルカンドに製紙工場が作られ、西ヨーロッパの印刷技術発達の伏線となった。引用終わり。

注 西側 アラブ軍 統率者はクタイバ(シリヤ出身) 5万人
東側 唐軍 統率者は高仙芝(高句麗出身) 5万人
   この大激戦は五日間続いた。

古戦場跡の丘の上には11世紀に建てられたテクトルマズ廟がある。

テクトルマズ廟





アイシャ・ビビ廟は12世紀のものであるが、施された幾何学模様は様々で美しい装飾である。隣に寄り添うように乳母ババジ・ハトゥン廟がある。

アイシャ・ビビ廟





アイシャ・ビビには悲恋の伝説が残されている。以下の純愛物語である。

戦いに敗れたカラハン王子は一時サマルカンドに軍を引き揚げていた。そこで商人の娘アイシャと恋に陥るがアイシャの父は結婚を許さなかった。王子はやむなく軍とともにタラスへ戻っていった。娘を哀れに思った母親は乳母のババジ・ハトゥンをつけてアイシャをタラスへ送った。愛する王子に会う前に川で身を清めたアイシャは草の上に置かれた花嫁衣装に手を伸ばした時、毒蛇に噛まれてしまった。乳母に急を告げられた王子は川辺に駆けつけ瀕死のアイシャを抱き上げて、息を引き取る前に結婚式を挙げた。王子は彼女以外の妻を娶らないことと彼女のために立派な廟を建てることを誓った。



2006年06月10日(土) キルギスの旅2・・アクベシム、ブラナ、イシククル湖

2006.4.23

  ビシケクのマナス広場を8時半に出発し、砂糖大根の産地カント、戦闘機のあるトクマクを通過してひたすらアクベシム目指した。途中キルギス・アラート山脈が目を楽しませてくれる。




アクベシムはただの原っぱでここが遺跡の跡だとはとても思えない。ただ平地に穴のあいているところがあるだけなのである。




アクベシムの砕葉城(スイーブ城)都市遺跡は657年に唐に滅ぼされるまでは西突厥の王都であった。王宮や仏教寺院も発見されているが、資金不足のためまだ9割以上が地下に埋没しているという。このスイーブ城には628年玄奘三蔵が26才の時、旅の庇護を求めて天山を越えて来場し滞在したといわれる。


次にブラナを訪問した。ここには荒野の中にミナレットが残っていた。




大きな丘にはカラハン王朝の王宮があったとされる。




イシククル湖の宿に到着する前にチョルポン・アタの岩絵野外博物館を見学した。ここには多数の岩絵が野外に放置されていたが、質のよいものはあまり見当たらなかった。




イシククル湖は空が曇っていてきれいな湖面を見ることができなかった。




早朝イシククル湖畔のホテルを出発してビシケク目指して砂漠の中を再びバスで移動した。この日の延べ走行距離は540�劼傍擇鵑澄�

ビシケクに到着しビシケク最大のオシュバザールを見学した。



2006年06月08日(木) キルギスの旅

2006.4.23 
  カザフスタンのアルマトイから大平原をバスで疾駆してキルギスの首都ビシケクを目指した。車窓には天山山脈の支脈であるザイリスキー・アラトー山脈がどこまでも追っかけてくる。山頂にはまだ雪が残っていて朝の光が映えて美しい。このあたりの丘陵地帯の標高はおよそ1,230m位だという。畑には春蒔小麦が蒔かれたばかりである。馬、牛、羊がのんびりと草を食むのどかな光景が広がっている。






 やがて国境近くのコルダイ村のガソリスタンドでトイレ休憩を兼ねて給油をした。カザフスタンの方がガソリンが安いのでドライバー達はキルギスへ入国する前に必ず給油する。

 手洗いは申し訳程度の掘っ建て小屋が建っているだけでご婦人方には気の毒である。ここでは写真を撮影していると警官から叱られた。軍事施設らしきものもみあたらないのに不思議なことである。警察官の機嫌が悪くてとばっちりをうけた感じである。






 やがて国境となり、出国審査はバスを降りて一人ずつ受けることになった。中間地帯をバスで通り抜け今度はキルギスの入国審査である。ここは団体は纏めてパスポートを預け簡単に通過した。

 キルギスに入国して昼食は中庭のあるアルズ・レストランで土地の料理を堪能した。写真に示すのは羊肉入りのスープとサムサ(肉入りの揚げパン)。民族衣装を纏った給仕達。ロシア系、キルギス系等様々な人種が見られる。










 キリギス歴史博物館の一階にはネアンデタール人のミイラ、石人(バルバル)、ゾロアスター教の石棺、馬具、20世紀初頭の写真、民族衣装、刺繍、織物、世界最長の叙事詩マナズ(50万桁)等が展示されていたが撮影禁止。

  2階にはレーニンの業績を讃える展示物か多数展示されている。

博物館の正面は中央広場でここには自由の像と国旗台が建っている。元はこの位置にレーニン像が建っていたが、レーニン像は博物館の裏側に移された。時代の流れを感じさせる。








またドライブの道中に見かけた元のコルフォーズの工場が使用されないまま放置されているのも共産主義社会から自由主義社会への移行を象徴する光景といえよう。




  次いで旧国営デパート、ツムへ立ち寄り店内を巡回見学した。たまたまデジタルカメラのメディアが満杯になってしまったので、規格にあったものを販売していれば買おうかとカメラ店によってメディアを見せ同じものがあるかと聞くと台湾製の同等品を棚から取り出した。512メガのもので60ドルだという。日本よりは五割方高いような気もしたが、写真が撮れなくなると困るので一枚求めることにした。カメラは愛用しているFine Picと予備用にパナソニックLUMIXの二台を持参していたのだが、Fine Picの方が動かなくなってしまったのでメディアを補強する必要があった。

デパートで面白いと思ったのは値段交渉をして値切れるということである。残念ながら私の求めたメディアは値引きして貰えなかった。

ホテルへ帰り夕食はホテルのレストランで摂った。

翌朝はアクベシム、ブラナを経由してイシククル湖を目指して東へ長駆280�劼離丱好疋薀ぅ屬任△襦�

朝8時にビシケクのホテルを出発してマナス広場に立ち寄り見学をしてビシケクには分かれを告げた。




2006年06月07日(水) カザフスタンの旅2・・・アルマトイ

2006.04.21
暑いのでホテルで暫く休んだ後、国立中央博物館、共和国広場、独立記念塔、メテオ国立公園スケートリンク場、カザフ村のユルタへと出かけた。



 国立中央博物館には馬具、武具、食器、楽器、岩絵、黄金人間のミニチュア(サカ族時代)、石人(墓石)等考古学上の発掘物などが展示されていたが撮影禁止のため写真で示すことが出来ない。
 
 国立中央博物館の構内は緑豊かで折から杏の花が桜と紛うかのように咲き誇っていたし、花壇にはチューリップが咲いていた。花壇の周辺には自家用車が次々に秩序なく駐車していくので、我々の乗ったバスが出られなくなり暫く立ち往生するというハプニングも発生した。






 共和国広場は中央広場ともいわれ、結婚式を済ませたカップルが立ち寄り記念写真をとる場所になっているようで四組の新婚カップルを見かけた。






 メテオ国立競技場は小高い山中にあり、1972年に完成したものである。ここでは日本の清水選手が2001年に新記録をだしたのでその記録板が以前は掲げられていたということであったが、今では取り外されていて目撃することができなかった。

 この後、カザフ村のユルタ(遊牧民のテント)に赴き、夕食を楽しんだ。馬乳酒(コムス)は酸味があってあまり美味しいものではなかった。




 ボルザックという揚げパンは日本の餅のような食感があってとても美味しかった。同行者の中にケーキ屋さんがいて小麦粉の粒子が細かい強力粉を使うと粘りがでるのだと解説してくれた。



2006年06月06日(火) カザフスタンの旅

2006.4.20


  カザフスタンは下の地図に示すように中央アジア五ケ国の中では最も大きな国で、その面積は271万7,300㎢あり日本の約7倍の広大なものである。カスピ海に接しているため石油資源が豊富でソ連から独立後、その経済発展にはめざましいものがある。


  カザフスタンとはカザフ人の国の意味でカザフはトルコ系諸語で「放浪者」を意味するクザックが訛ったものといわれる。

  人口は1,745万人で首都はアスタナである。

  住民はカザフ人が46%、ロシア人35%で後はウクライナ人その他

 ソウルの仁川空港から深夜に飛来して入国審査で感じた印象は以下のものであった。

1.入国審査官の被っている帽子が大きく、旅行客を威圧するに充分なものであること。
2.旅行者のパスポートから記載項目を一つ一つ丹念に入力するので一人あたりの所要時間が長く、行列がなかなか前へ進まないこと。いかにも非能率的な事務処理である。

 オトラルホテルに到着した時には深夜も更けて翌日になっていた。短時間睡眠をとったホテルは部屋が狭い割りに調度品や部屋の飾りは格調の高い木製で茶色のニス仕上げであった。



 翌朝出発前にホテルの周囲を散策してみるとこの街はパンヒローフ公園の緑化事業を中心整備されたようで緑豊かな大木が鬱蒼と茂り自然環境は良好である。またソ連時代に建てられた頑丈だけが取り柄のような野暮ったいアパートでは独立の息吹が感じられるかのように人々の動きには活気があった。

 公園の中にはゼンコフ・ロシア正教の教会が派手な色彩で佇んでおり、折から黄色いチューリップが見事な花を咲かせて取り囲んでいた。この教会はゼンコフというロシアの建築家が1904年〜1907年にかけて建造したもので、ロシア革命後は音楽堂として使用されていたのであるが、1991年の独立後は再び教会としての活動を開始した。教会内では熱心な信者達が集まりミサが行われていた。

 また公園の中には28人のパンヒローフ親衛隊記念像が建てられており、第二次世界大戦で首都モスコーの防衛前線として戦った兵士達の群像が彫られている。



 群像の前には追悼の永遠の火が焚かれており、外国からの要人達もこの前で哀悼の誠を捧げるのだという。周囲にはここを訪問した諸国の政治家達の記念碑がおかれている。

 中央バザールを見学した。市内では最も大きい体育館型のバザールで豊富に商品が並べられていた。ロシア人やカザフ人の売り子が多いが目を引いたのは朝鮮人達がキムチを初め肉、魚などの食料品売り場に多いことであった。




 日本人観光客に対しては概して好意的で「ヤポン」「コニチハ」と気軽に声をかけてくる。そしてデジタルカメラが珍しいらしく写真を撮ってくれとせがむものもいる。撮影した画像を見せると多数の人が寄ってきて感嘆の声をあげていた。


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