Leaflets of the Rikyu Rat
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| 2006年11月30日(木) |
わたしは少しだけわたしの神だ |
どうしようも無く冬が好きだ。これからの季節。考えるだけで心が躍る。 減少する日照時間に反比例して湧き出る活力。静まる夜。 研ぎ澄まされる感覚。
鋭気。僕は少しだけ世界を支配する。
(題名は安川奈緒「リーチュアルラブの機械」より引用)
| 2006年11月24日(金) |
吐けばいい僕は決して忘れないから |
何も出てこない何も取り出せない何も考えられないならば出来ることは詰め込むだけ。 ただ詰め込めばいいただ詰め込めば しかし何かが入っているようだこの頭。 僕の頭なのにこれはもう僕の頭じゃ無いようで何が入っているかも良くわからない
本当に何か入っているのだろうか
とりあえず何かを入れてみましょうということになり よいしょと我慢してみたらするりと入った 入った 入ったと喜んでいいものか今入ったものは本当に僕の中に入ったのか自信が持てなくなり
取り出そうとしてみる するするとひっぱりだして見ると確かに入っていたようだ しかしこれは本当に僕が入れたものなのか良く覚えていない
少し前の記憶は既に茫々となり
目の前のそれは確かに僕が入れたもののようではあるのだけれど ただ何か違うような気もする いや少なからず変わっている どう考えても変わっている
変わり続けるこの物質を 僕が飲み込むことのこの気持ち悪さ 吐き出してしまいそうだ
吐けばいい 何度でも吐けば
吐け吐け吐け吐け吐けばいい 変わらないものなどないのだろうから
今夜も詰め込むだけだ。
(最果タヒ「博愛主義者」を読んで)
松尾真由美「さまざまな交感、その果てに」 (現代詩手帖2005年10月号新人作品評�兇茲螳�用)
言葉も人も人の心も過ぎ去るものであり、いま、ここに現われでる表象さえいず れは過ぎ去り、なにごとも時間とともに流れ、すべてが変容していくものであると しても、詩人は詩に向かう。あるいは迎え入れる。自身が作り出した作品も、刻が 経てば、それは変態していく蠢くものであり、まして、読者は、初めから読者自身 を投影してるがゆえに、作品から受け取るものは作者の考えの及ぶところにはな い。これはこの投稿欄でも出来している事実であって、作者である投稿者と選者 (読者)である私との齟齬は必ず生じている。しかし、齟齬すら詩の世界の振幅と して納得するしかないだろう、作品を外に出してしまった以上、そこには他人(読 者)がいるのだ。けれど、詩人は、自身が反応し、感応したものを呼びいれ、なに かを生み出し、記録のようにそれを紙面に定着させる。その作品を読者が享受す ることで、そこで再びなにかが生み出され、齟齬も誤謬もふくめたこの多層的な 生成が、実際には作品の生命を司っているのだ。ひとつの詩作品が作者と読者 の互いの反映により、一瞬でも美しい膨らみ持ち得ること、私ならそれを望むが、 この交感さえ錯覚を招いていて、刻が経てば、互いの了解事項も失効してしまう 危機を孕む。これらを踏まえた上でなお、詩を書きつけることの意義はどこにあ るか。意義などない、詩人はただ詩が必要なだけなのだから。その中で、自身 の傷をさらすために言葉で傷をおしひろげ、こうして作り出す世界に救われるの は、勿論、作者である。だが、傷から発せられた言葉の奥底に、作者が持たざる を得ない罪や悪も折り重なっているのならば、ここになにがしかの真実が隠され、 これが読者をとてもリアルに説得する。流動する世界において、この瞬間、この 現在に、傷をいかにして昇華させるか、それぞれの詩人たちの感性は試される。
ある主体から他者へ言葉を伝達するとき、そこには必然的に齟齬や誤謬が生じる。 それは「ある言葉」の意味が個々人の環境や体験、経験により少しずつ異なるため だ。であるから、たとえそれが「詩」でも「日記」でも「メール」でも「電話」でも、実際に 顔と顔を合わせて交わす「会話」や「対話」であっても変わらず、ある主体からまた 別のある他者へ、一切の齟齬や誤謬無しに言葉を伝えることは不可能だ。 では何故詩人は詩を書き誰かはメールや電話をし僕らは他者と対話を望むのか。 それは、それらが僕らに必要だからだ。 齟齬も誤謬も含めたその多層的な生成によって主体と客体とが交感し合う。 交感し合うことによって主体と客体は交歓する。コミュニケーションを楽しむ。 たとえそこにコミュニケーションが成立しなくとも、詩人には詩を書くことが必要なのだ。 僕には日記を書くことが必要なのだ。 自身の傷ををさらすために言葉で傷をおしひろげ、こうして作り出す世界に救われる ために。それは自虐的かもしれない。それでも僕は日記を書き、だから僕は書く。
| 2006年11月10日(金) |
背中を見てみろバカと書いてある |
自分を破壊しよう、と思い至る。 再構築しよう、と考える。むしろそれが必要なのだと焦眉に想う。
ガラスのコップがありました。割りました。 僕はその破片を集めて別のコップを作ってみようと想いました。 新たな材料も取り入れて、新たなコップを作ってみようと想いました。 そのためになら懸命になれるのではないかと、そのためになら切実になれるのではないかと
リセットとリスタートの違い、そのどちらでもない、スイッチを入れ替え、分岐する僕と僕、 割る必要は無いんじゃないか、装飾を施せばいいだけなんじゃないか、それは違う 今のコップにはどうしても気に食わない部分がある、何の役にも立たない部分がある、ただ邪魔なだけ、ただ純粋に邪魔なだけ 中に入っていた水は零れました、ガラス塗れになりました、きっと新しい水を入れるしかない 新しい水を得るしかない
いまならまだ作れる
(題名は安川奈緒「背中を見てみろバカと書いてある」より引用)
| 2006年11月09日(木) |
(絵が描けない僕の落書き)図書館にて、捕鯨 |
図書館に篭もっていると、何かを食べたくなる。別に腹が減っているわけでは 無い。しかし何かを食べることによってこの腹の中のクジラを飲み込むことが できるのではないか、飲み込んだそれを消化することができるのではないかと いう気がしたのだった。(僕はクジラの実態を良く知らない。)けれどおそらく 何かを口にしたところでそれを消し去ることはできない。何かを食べている間、 その食べ物を噛み、味わい、咀嚼し、飲み込む、これらの行為によってどんぶ らこっこ、クジラは一時的に遠洋させられるだけなのだ。クジラはすぐに戻って くる。僕の腹は居心地がいいか。潮を吹くクジラが潮を吹く、
飲み込みたい。飲み込めない。消化したい。消化できない。そして僕はまるま ると太る。たぷたぷになる。たぷたぷ。たぷたぷ。クジラは気持ち良さそうに 泳ぎまわり、ちゃぷちゃぷ、最近、僕はやっと理解したので食べるのをやめた、 飲み込むのをやめた、消化活動も止まった、クジラは泳いだ、ちゃぷちゃぷ、
僕は冷し中華の様に我慢を始めた。サディスティックな僕のマゾヒストへの挑 戦。苦行。毫も楽しくない。しかし我慢。快感へ変わる日までの我慢。僕は知 っている。そんな日は来ないことを。僕は知らない。そんな日が来ることを。
知っている、僕は考える。それなら飲み込まれればいい。知っている、飲み込 めないなら、、、噛み砕かれればいい。
しかし現れない 僕を飲み込んでくれる人が しかし現れる 僕を噛み砕こうとする人が
僕は図書館へ舞い戻る、絵を描いている間に僕は投げ飛ばされていた。野 球部員が三塁へボールを投げていた、ラガーマンが後方へ投げていた、僕 も投げていた、真剣だった、僕は動かなかった、この場所から。クジラはまだ 泳いでいる、眼鏡をかけた僕には良く見える、あそこは南の南の南の南、名 前は知らない、けれど泳いでいる、まだ暫く泳いでいるのだろう、名前も知ら ない南の海で、
別に腹が減っているわけでは無い。何も食べなくて、良かった。腹はそのうち 勝手に減るだろう、(減れば減る程飯は旨い、)減ったら飯を作れば良い、材 料を探せば良い、好きな材料を選べば良い、 マゾヒストへ挑戦してみよう。やり方によってはきっと、楽しい。
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