おぎそんの日記
おぎそん



 それでも明日の歌が聴こえる

目に映る明かりは悲しいほど美しい

歩き続ける
歩き続ける
とりあえずは、歩き続ける

ゴールはあるのかわからないけれども踏み出してしまったから
とりあえずは行ってみよう 進んでみよう
立ち止まって考えるのも手だけれども、今は歩いてみよう

行き止まりになってから立ち止まってもいいのかもしれないから


それじゃ遅い、と誰かが言う

そうかもしれない

でも、戻る道だって、ここに居たって大して違いはないだろ?
だから、人のせいにしないためにも自分の意思を信じてみよう
信じてあげよう


悲しいことはたくさんありすぎて無表情になってしまうけれども
笑いの種類にはたくさんあって、どれを浮かべているのか自分ではわからないけれども

それでも明日の歌が聴こえる
それでも明日の歌が聴こえてしまう
それでも明日の歌が誰かのために流れる

明日の歌を聴きながら 足を速める

まるで何かから逃げるかのように
まるで何かに向かっているかのように

2005年11月28日(月)



 peace pact

友人が勤めている施設(えっと、知的障害者施設というか、彼らを受け入れている学校−フリースクールみたいな−です)で文化祭があるってことで行ってきました。

久しぶりに、あの高揚感−学園祭っていう意味で−を感じてきたわけですがいやはや、来る人がかなり限られているのでちょっと居心地としてはつらかったのも正直ですが。

「なんかねー、楽しいの。よくわかんないけど」という子どもたちの会話を聞いておぎそん、切なくなっちゃいましたよ。
なんか、最近こーゆーのって弱いなぁ。。。


それが一番の醍醐味だと思うんです>よくわからないけど楽しい
そう、通過してしまってから”あぁしっかりと堪能しておけばよかった”なんて思っても遅いから。
でも、それがあまりにも多くて。
だからこそ、きちんと日々を認識していかないといけないんだと思うのです。
なんとなく流されて、ってのはすぐにできちゃうんです。

抗うのは簡単ではないけれど、抗うことが生であるなんて言葉も聴いたことがあるから。


その後は、某団体の手伝いへ。
あー、おぎそんヤバ気です。
なんか役職やるかも・・・どうしよ。

とりあえずは。
おぎそんは、さまざまな役職に就かれ疲労困憊な人々を応援しています。


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って、大したことじゃないのですけれどもやっぱりのんべんだらりと、まずはこの雰囲気に慣れてから小出しにしていこうかな、と思っていたんです。
一応、「何か」をしたいと思って、そのために所属しているわけだから。
でもさー、やっぱり入って一年未満でいきなりそれはないよなー、と勝手に思ったりするわけです。
まだ本決まりじゃないし、おぎそんもこれから予測が立たないしちょっくら工作活動をして、不可侵条約でも結んで本決まりにならないようにします・・・。

2005年11月27日(日)



 You Send Me

最近、人に何かをプレゼントしようと思うと花(ブーケ)にすることが多いのです。
後に残るモノだとなんか怨念がこもってそう(&気に入ってくれなかったときに困る)だし>それは、手編みのマフラーとかです、ましてや食べ物では何を嫌いか(or好きか)なんて覚えてないし。

幸いにして、不評ではない>微妙な表現だな 汗のですが、先日こんなメールが。

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先日、いただいたブーケは今日まできれいに咲き続けてくれました。
ありがとう。

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わー、プレゼントしたものでその後を報告していただけるなんて初めての体験かもしれません。
てか、おぎそんだったらきっと何事もなかったように捨ててオシマイだと思うんです。
「もらったもののお礼は言う」というのはあるけど、そのものが役割を終えたとき(枯れた、とか壊れたとか)に改めてお礼を言うってないから新鮮です。
とゆーか。
そうか、そういうことをするって贈ったほうも嬉しいんだな、という単純なことを感じました。

メールを送ってきてくれた人は単なる報告だったかもしれないし、おぎそんが過剰に意味をのせているだけかもしれないけれど。
ちょっと意識してみようかな、なんて思います。


さぁ誰かおぎそんにプレゼントを贈ってごらん!>本末転倒です

2005年11月21日(月)



 誰がために

Mr.childrenが「タガタメ」という曲を出してました。
これにインスパイアされたのか、誰(た)がためにという映画も公開されました。
つーか、たまたま購入した「ぴあ」で遭遇してしまったので>しかも、今週で公開終了@渋谷って行ってみました。

なるほど。
確かに、上手いなとは思うのですが。
思うんだけど。

おぎそんですから(苦笑)。

なーんか、勿体無いなぁと思うんです。
あるモチーフが何度も繰り返されることがあるんですが(それは、webで書かれているモノだけではない)それが上手いものとそうでないものが混在してて。
上手くいってないものは当然の如く、くどいというか、わざとらしさを感じてしまうのです。
まずそれが気になってしょうがないのです。
作為的なというものとそうでないものの差ってほんのわずかなのになぁ。

テーマ設定も上手です。はい。

そういえば、かなり感想がばらつくなという印象もあります。
ついうっかりYahoo!で検索してしまい、不安になったのですが、直感を信じて。
で、本編を見てから公式サイトの感想を見たわけですが。

すごくない?
この差って。
まぁ前者はあまりにもミーハーだと思うし生きることとか☆ミステリーだね、なんて書けるその心意気−つーかその無神経さ−に頭がクラクラする、後者は後者でなんだかなぁ、と。

中間層の感想は無いのかっ!

まぁ、公式サイトの中で「フリー編集&ライター31歳 女性」のみはなんとかOKな感想だと個人的には思うのですよ。
とゆーか、他がなんか持ち上げすぎたり>まぁ、なんとかOKな感想だって最後は微妙なんだけど的外れだったり>おぎそんにとってですけど

レビューも微妙。
こうあるんです。

・・・・・(前略)観る者に解釈を委ねるラスト・シーンも素晴らしい。(後略)・・・・


ホントに?
観る人(本だったら読み手)に解釈をゆだねるってかなり危険な行為だと最近思うのです。
全く見当はずれな解釈がこんなにも世の中にはびこっているのにそんな火中の栗を拾うようなマネをするなんて!

すべてをきれいに−ジクソーパズルのように−収まる作品である必要は無いと思うのですが、それでもやっぱりはみ出しちゃいけない「枠」はあると思うのです。
どこまでも、”自由に”とすると思ってもみなかった活用をされ、その斬新さに目を奪われ本質を忘れてしまう気がするのです。

今でも好きな山本文緒>こっそり仕事再開してますねも読者に解決を委ねるっていう手法をとりますが、実は最近イマイチなのもちらほら>いや、おぎそんにとってですよ?
具体例はあげないけれど>あげてもいいけれども、だんだん彼女も問題提起をするだけではなく詰まりもあるだろうしそこからどうするのか−actionという意味で−を考え、それを自分でも解決していく(作中なりで)ことが必要なんじゃないかなぁとぼんやり思ったりします。

そういう作業をすることでまた彼女のステップ(ステージ)が上がるのでは、と思うのです。

でね。
この映画も同じ印象なんです。
問題提起はした、で?って感じ。
もちろん、問題提起をしたことはすごくいいことなんです。
でも、その先を観たい。製作者たちの考えをぜひとも>非難があっても見せて欲しい。
世の中は「出るくいは打たれる」だし、ちょっとでもみんなの感情とそぐわないことを主張すると袋叩きにする傾向が最近あるけど>イラクの件とかそうじゃない?それを恐れないで欲しい。
いろんな意見を引き出すための−それは望んでいるものは少数で凹むかもしれないけれども−叩き台として必要なんだと思う。
その、泥を被るっていう心意気こそに惹かれるんだと、思う。

だから、すごくこの作品(「誰(た)がために」)はおぎそんの中では中途半端な存在になってしまったように思う。

・・・残念です。

おぎそんは、敢えて火中の栗を拾ってネタにしそうなパオロ・マッツァリーノさんを応援しています!

2005年11月19日(土)



 cEBRATION

先日、槇原敬之くんのライブに行ってきました。
おぎそんの知人もそれなりに行っていたようなのですが>確認を取った人だけでも3人はいます、誰にも遭わず−まぁ武道館ですから当然ですね−ライブを楽しんできました。

終わってから、マッキー=AC(アダルトチルドレン)説のメールがライブに行った知人から来て、少々考え込んでしまいました。

えっと、AC(アダルトチルドレン)っていう概念をとりあえず。
確か、日本でメジャーになったのはクリントン大統領(当時)が告白したからだったので1995年前後でしょうか。
細かいことの概念はちょっとアレなので出来たら検索して頂けるとありがたいかな、と。
こんなところとかこの辺は参考になりうるかもしれません。

まぁ、正確にはマッキーのファンがあまりにも痛いというところなんですが。
知人の主張(考え)を要約すると、ファンが自分のアイデンティティを彼(マッキー)にダブらせ「自分の物語を生きていない」ということであります。

たとえば、最近の槇原くんをめぐってのファンの議論は「なぜ、昔のような甘いラブソングを書かなくなったのか」だったりします。
あまりにも、自罰的な歌詞(というか、自分のいやなところを見せられる、考えさせられる歌詞)に拒否反応を示すというように。
さて、これってどうなんでしょ?
ミュージシャン(いや、アーティストでもいいんだけど)って自分の中にあるものを基本として表現活動を行うわけで。
そこに本来ファンが介在する必要はないものでしょう。

でも、エンターテーメントとなると観衆を楽しませなくてはならない。
その狭間でミュージシャン(いや、アーティストd(ry )はいろいろと苦しむわけですね。

ところが、槇原くんのファンサイト(大手なら、僕”ら”はここにいます。 や 花水木 など)では未だに、その辺りが理解されていないというか−理解したくないのか−ごっちゃになったままで掲示板のレスがついています。

妄信的なファンというか、あまりにもすがりすぎな気がします。
自分が、思うように生きることは今の世の中では難しいことでしょう。
誰しもが、自分の望むようには生きることはかなわず、でもそれでも生きていく(生きていけてしまう)。
自分の満たされない気持ちを相手に託すってすごく投げやりな生き方のような気がします。
自分でどういう風に生きたいのか、をきちんと考えると難しいけれどもそれを避けて誰かにその指針を示してほしがっているように思います。

全く、どこかの占い師やスピリチュアカウンセラーにすがる人たちのことを笑っている場合じゃありません。
単なる信仰の対象が違うだけで、”すがっている”という行為になんら違いはないのです。>もちろん、そこには 占いだから とか ミュージシャンだから という免罪符はありません。つーかあり得ない

自己表現が出来ないなら出来ないなりに生きていけばいいんです。
こういうwebで表現するのもよし、普段の言動で表現するのもよし、昔ながらの文芸誌に投稿するといった表現でもよし、ストリートミュージシャンを気取るのもよし。
いろんな表現があるんです。
それに手を伸ばさないだけで。

もしかしたら、ミュージシャンにすがるってのはそういう表現がしたくてもできなくて、だからこそ固執してしまうのかもしれません。
自分の表現に幻滅することなく、相手の表現を賛辞したり非難したりすればいいんだから。
あまりにも安易過ぎではないでしょうか。

と、同じミュージシャンのライブに複数回行ってしまうヲタクと呼ばれても反論できなそうなおぎそんは考えてしまうのです。
まっ、おぎそんはあまりにも多くのミュージシャンを愛している>浮気 とか 火遊び とも言いますので一人を対象に入れ込むことは少ないんですけどね>それをモザイク状と言います

おぎそんは、ファンサイトで馴れ合っている妄信ヲタクを当然応援していません。
もっと現実を生きましょう

2005年11月14日(月)



 せっかくだから

そういえば。
先日ジョンのところにお世話になったとき、本の話題が出たわけですよ。
おぎそんも、少し読むし。
でね。
おぎそんの中でちょっと評価がしにくいのが田口ランディなんです。

とゆーのも。
確かに、すごく社会現象に則って、分かりやすい社会風俗的な読み物(小説&エッセイなど)だと思うんです。
でも、なーんんかひっかかるんです。

先日、どーしても気になってしょうがなかったんで、「鳥はみずからの力だけでは飛べない」を買ったんだけど。最近、よく考える森達也とかが晶文社から出してるものはしっかりしてるから、同じ出版社として期待したのよ。


ランディ先生、頼むから言葉遊びはやめて
熟語を一つ一つの意味に分解して、分かったフリはやめて

Ex.)(・・・物事に熱中している、という意味で)憑かれている人は、疲れないんだ  「鳥はみずからの力だけでは飛べない」
Ex.)私にとって情報は、情を報いることなんだ   「世界に抱かれるために」



噴飯ものですよ。ハハハハハハ。>目が笑ってない

題材(目の付け所)としてはいいところに行ってるのにどーして、そーなっちゃうかなぁ。>ひきこもり(「コンセント」)・宗教(「富士山」)
惜しいって言えば惜しいんだけど、全然同情心は沸かない。

あと、なんか「違うんでないかい?」と思う記述もあるの。細かいことなんだけど。>これを坊主憎けりゃ袈裟まで憎いと言います

「根を持つこと 翼を持つこと」って、シュルレアリスムのマグリットでしょうが!>正確に言うと、シュルレアリスム(第二期)全体に言えることだけど

本来の意味から逸脱してる>しすぎてる引用や使い方でなんかイライラするんですよね。
いや、”新しい視点だ”って言うこともできるのは、承知してるの。それはいいと思うんだけど、その前提がぐちゃぐちゃというか。
なんか、彼女の作品タイトルそのままじゃないけど、”モザイク”状になってて、すごくイヤ。

個人的には、支持されているのがすごく納得いかない。
まぁ、どうでもいいって言えばそれまでなんだけど、それでもなんかデマゴーグ的っていうか。
胡散臭いっていうか。

たぶん、「よく物事を知らない」っていう人を>もちろんそこにはボクも含まれるだろうわかった”気にさせる”というところがイヤなんだろう、と思う。

と、たまには不満をもらしてみました。
いや、おぎそんは別に田口ランディになにかされたとかはないですよ?
ただ、ただ胡散臭いって言ってるだけで。>それで十分だ


もし、ランディを読んでいる方が居ましたら、是非とも掲示板(HOMEをポチっとな)へ書き込みをお願いします。
ホントに、彼女の評価が分からないので。


おぎそんは、自分の文章を書くために誠実に対象と向き合っている、もの書きの方々を応援しています。

2005年11月01日(火)
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