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■ 問う。
先日の震災でいろんなことが一気に噴出した。 それはいいこともあるし、悪いこともある。
いいことからあげてみよう。 このさまざまな価値観がある中で、それでも大事なものがあるということを改めてそれぞれの人がさまざまなツールで見せてくれた姿勢なんだろうと思う。 そして、真摯に発する言葉が大事なものだと感じることが出来たこと。
あまりにもたくさんの言葉があふれて、大事なことがまぎれてしまう気がする。そんなときに、指針となるような、灯台のような言葉が時折見えたことにとても安心した。
大きなうねりにまぎれてしまうと、それをみとることが困難になるから。 たとえば、小沢健二のひふみよ、に掲載された町に血が流される時と題された文章。 安全なところから、何を言っているんだ、という向きがあるのは承知の上でいう。これは、希望に対して善意に対して、絶望をしないために必要な文章だと思う。 ボクたちは、いろんなことに対して、とても多くのことを期待してしまう。やはり、そんなことはないかも「しれない」と思いながらも、そうだったらいいなと思ってしまう。 それは。否定されることではない。 だから、と言えばいいのかわからないけれども、時折それが反映されないことに対してとても深く愕然とする。 そして、その反動で、自暴自棄になり、大事な人にひどい言葉を投げつけてみたりそれを顧みて自己嫌悪に陥る。そんな繰り返しでもある。
だから、そっと呟くのだ。大丈夫、まだボクは信じる力がある。
その上で、だ。 今回のネット上ではとてつもない誹謗中傷があふれている。見たくないから、見ない。そう思うけれども、どうしても偏ることは承知の上で、やっぱり「ゆがんでいる」と思う。
ボクたちは誰かを傷つけるために何かを語るのではない。 しかし、そのような使い方も出来ることを露呈している。そして、その負の連鎖は停まらない。むしろ、収まったかのように見えても、発酵しその後に より強力になったりする(これは、当然かもしれない。当事者がそこにいないから、どんどんエスカレートするのだから)。半減期は、ない。
そして、環境社会学にあこがれた、似非テラ(寺)リストとしては、先日の高円寺で行われた、某デモに対しても違和感を感じる。 なるほど、エネルギー対策に対して、嫌だというのはボクもずっと思ってる。 で、これが結局のところ、(いわゆる)左派の市民社会運動と変にくっついて、一般市民からそっぽを向かれ、電力会社がいろんな策を投じて、という流れを含め、今更デモをしている人はなんなの? とも正直に思う。 今回の主催者の、デモに対する考え方もなんか嫌だ。 参加した友人や先輩の”乗っちゃった”感も嫌だ。 それぞれが、ちゃんと考えた上での行動だったのか? 投票よりも優先するものだったのか? デモに参加した満足感はあっても、その後はどうするのか?
結局は、自分を含め、みんな真剣に考えてないんじゃないのか。他人事なんじゃないのか。そんなことすら思った。
もう一度繰り返す。 大丈夫、ボクにはまだ信じる力がある。
祈り、信じるだけで何かが救われる(と、この言い方もおこがましいが)のならば、何度だって何百回だって祈ってやる。信じてやる。 馬鹿は馬鹿なりに思い、願い、行動をするのだ。 無駄な「逃げの」ポジティブはいらない。受け止め、しんどくとも進もうとする。そのために、さまざまな思いがあり、願われ、祈られている。 善意を、願いを、希望を。
どこにいるか、が問題なのではない。そこで何をするのか、で人の価値は決まるのだと思う。
明日、世界が終わろうとも。 花を植えよう。約束をしよう。 愛を語ろう。
大丈夫、ボクにはまだ信じる力があるのだから。
2011年04月17日(日)
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